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井上達夫・東大教授(2)リベラリズムとは「他者に対する公正さ」

2016-06-18 21:11:12 | ブックレビュー
 

 

いのうえ・たつお 1954年、大阪市生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科教授(法哲学専攻)。「共生の作法−−会話としての正義」でサントリー学芸賞、「法という企て」で和辻哲郎文化賞を受賞。近著に「リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください」(毎日新聞出版)=石戸諭撮影

 日本を代表する法哲学者、井上達夫さんに今の社会問題を尋ねる連続インタビュー第2回。今回は「徴兵制」「正義」「リベラリズム」を通じて、憲法や市民運動の意味を考える。安易な「ただ乗り」はなぜ「不正義」なのか。井上さんの答えは……。(安保法案の議論について考えた第1回はこちら)【聞き手・石戸諭/デジタル報道センター】

日本を代表する法哲学者、井上達夫さんに今の社会問題を尋ねる連続インタビュー第2回。今回は「徴兵制」「正義」「リベラリズム」を通じて、憲法や市民運動の意味を考える。安易な「ただ乗り」はなぜ「不正義」なのか。井上さんの答えは……。(安保法案の議論について考えた第1回はこちら)【聞き手・石戸諭/デジタル報道センター】

 

徴兵制で無責任な好戦感情に歯止めをかけろ

 −−仮に憲法9条を削除して戦力保持を認めるなら、良心的兵役拒否を認めた上で無差別の徴兵制が必要だと提言しています。安保法制反対派からは根強い反対論もあり、賛成派も「軍事的、戦略的な理由で導入する必要はない」という議論が多いと思います。なぜ、導入を提言されるのでしょうか。

 井上さん 私が必要だと提言しているのは、「もし国民が戦力を保有する選択をしたなら、徴兵制を採用し良心的兵役拒否権を保障すべし」という条件付きの制約を憲法に盛り込むことです。

 最大の理由は戦争をするための兵力確保、ではなく無責任な好戦感情への歯止めです。

 志願兵制だと、政治家や富裕層などエリートや多数派たる中流階層とその子は兵士にならず、特に低所得層が兵士の主たる供給源になるということが起きる。政治家・エリート、中流マジョリティーが自分たちは「安全地帯」に身を置きながら、社会の下層出身者が主体の志願兵に「血を流す」コストを転嫁できるとしたら、民主国家でシビリアンコントロールが確立していても、国民が無責任な好戦感情に駆られたり、政府の危険な軍事行動を真剣に抑止するインセンティブが弱まったりする危険性が高い。

 専制国家が徴兵制を採るのは危険ですが、軍事力を保有する民主国家では、逆に、戦争するか否かの決定を最終的に左右する主権者国民が軍事力行使決定の「血のコスト」を自ら払うことが、無責任な軍事力行使を民主的に統制するために必要なのです。

 徴兵制でもアメリカはベトナム戦争をやったから、徴兵制に戦争抑止力などないと主張する人もいますが、これは勘違いです。アメリカのベトナム反戦運動は徴兵制であるがゆえに起こったのです。戦争の激化とともに1969年の法改正で徴兵制が強化され、マジョリティーの白人中間層を含め、より多くの市民が戦場に送られるにつれ、反戦運動も拡大激化し、最終的に政府に戦争をやめさせました。私の新著「リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください」で開戦当初は志願兵制だったと述べたのは記憶違いで、訂正します。

 徴兵制のもう一つの理由は、公正性(=フェアネス)の要請です。軍事力による防衛利益を享受しながら、その「血のコスト」は国民の一部に集中転嫁するというのは不公正な「ただ乗り」で、許されません。とりわけ政治家や軍需でもうける財界エリートとその一族にはただ乗りを許してはいけません。ただ乗りの排除が同時に戦争抑止にもつながるのです。

 良心的兵役拒否権を保障すべきだと言いましたが、これが「ただ乗り」目的で乱用されないために、厳しい代替役務、例えば非武装看護兵、消防隊、被災地救援部隊など、自らも生命を失うリスクを冒して他者を救護する役務を課す必要があります。「殺されても殺さない」という峻厳な非暴力抵抗思想の尊重が良心的兵役拒否権保障の根拠ですから、これは当然でしょう。

井上さんは徴兵に応じますか?

 −−徴兵制の話を始めると、「では、あなたはどうするのか。あなたの子供はどうする」と必ず聞かれると思います。どのようにお答えになりますか。

 井上さん 私が必要だという徴兵制は無差別公平に課されるものでなければなりませんから、自分や自分の子にも課されるのを認めるのは当然です。選択の余地があるのは、先ほど触れた厳しい代替役務を伴う良心的兵役拒否権を行使するか否かでしょう。もし自分がこの選択を迫られたらどうするかは、実存的決断の問題でもあります。

 私自身について言えば、殺されるのも怖いが、人を殺すことはもっと怖い。非武装看護兵や消防隊員として生命を失うリスクを負う方を選ぶかもしれない。他方で、侵略軍があまりに非道な場合、怒りから銃をとることを選ぶかもしれない。

「自由気まま」ではない リベラリズムの本質は「他者に対する公正さ」

 −−先ほどから「ただ乗り」に対して、強く批判しています。井上さんの思想的基盤である「リベラリズム」とどう整合性が図られるのでしょうか。

 井上さん まず「リベラリズム」というのが誤解されていると思うので、私が考えるところを明らかにしておきます。リベラリズムというのは自由気ままに生きる、何でも自由という哲学ではない。自由主義という訳語も不適切です。護憲派に代表されるような「日本のリベラル派」の主張とも違う。

 私が擁護するリベラリズムの核心は、ジャスティス(Justice)、「正義」という理念です。日本語で正義と言うと、何か独善的な響きがあるので、私はもう少しかみ砕いて「他者に対する公正さ」と言い換えています。

 その際、重要な前提を2点、確認しておきます。一つは、古典的リベラルの一人、(ジョン・)アクトン卿が喝破したように、絶対的権力は絶対的に腐敗するということ。絶対的な権力というのは、自己の政治的決定や政治的行動のコストを負わされる人々からの批判に対して応答する責任を免れた権力。政治家や大企業に限らず、市民運動団体や、民主主義の下で主権者たる国民も、このような権力を振るうなら、必ず腐敗堕落する。

 もう一つ、人間は自己欺瞞(ぎまん)的な存在で、独善に陥りがち。専門家も同様です。東京電力福島第1原発事故を見てもわかります。批判的な意見を「素人」扱いして大規模な事故を起こした。

 権力は腐敗し、人は独善に陥りやすい。その中で「他者に対して公正」であるとはどういうことか。ここで大事なのは、自分の他者に対する要求や行動が、自分がその他者だったとしても拒否できない理由によって支持できるかどうかを考えることです。自分の要求や行動を他者の視点から見直したとき、果たして正当化できるのか。これは、私が「反転可能性テスト」と呼ぶものです。

 もちろん、その他者もまたこの反転可能性テストを自らに課すことが要求されます。このテストは、オウム真理教のような狂信的カルトの殺人行為も彼らの視点からは正当なのだから、われわれは批判できないなどという「悪の宥和(ゆうわ)」や価値相対主義とは無縁です。

 オウムは自分たちに殺される他者の視点を全く無視し、他者の視点からは同意できないどころか、理解さえできないような独善的な信念体系に閉じこもり、自分たちの蛮行を正当化しているわけだから、まさに反転可能性テストによってその蛮行は断罪されます。

 反転可能性テストから、もう少し具体的な指針も導けます。あるシステムから自分は便益を享受するだけで、そのシステムを維持するためのコストは他者に転嫁する「ただ乗り」の禁止はその一つ。

 ある事例で自分の主張を他者に正当化するためにある基準を援用しながら、別の事例で同じ基準を援用すると自分に不利で他者に有利な結論が正当化されてしまう場合には、別の異なる基準を持ち出して自分に有利な結論を正当化するご都合主義的な「ダブルスタンダード」の禁止もそうです。これらのテストをクリアしない主張・議論は「他者に対して公正」とは言えない。

憲法は「公正な政争のルール」

 私が考える「リベラリズム」から立憲主義を見るなら、憲法とは政治的闘争の勝者と敗者の反転可能性を保障する規範です。政治的決定が、それを押し付ける勝者の視点からだけでなく、押し付けられる敗者の視点から見ても、不満はあるが自分たちの社会の公共的決定として尊重できるための「公正な政争のルール」なのです。

 政治的勝者と敗者の地位の反転可能性を現実化する民主的政治競争のルールの設定と、勝者になる見込みの乏しい被差別少数者の人権保障が憲法の役割だと前に述べた理由はここにあります。

 集団的自衛権問題に関して、自分たちの政治目的の手段として憲法を乱用している安倍政権も護憲派も、憲法を「政争の具」にし、「公正な政争のルール」としての憲法を踏みにじっている点で、立憲主義の精神を裏切っています。「他者に対する公正さ」を要請する正義の理念を蹂躙(じゅうりん)しています。

 安全保障体制の便益を享受しながら、それを維持するためのコストや犠牲を自衛隊員や沖縄に集中的に転嫁して、その現実を見て見ないふりをし、欺瞞的に合理化している一般国民の「ただ乗り」的なエゴを私が批判するのも、それがコスト・犠牲を転嫁される他者の立場・視点を無視し、反転可能性テストに反するからです。それはリベラリズムの観点からは許容されない「不正義」なのです。

野党や市民運動も「権力」を行使している

 −−批判している「立憲主義の蹂躙」や「ただ乗り」の射程は政権与党だけにとどまらないと思います。一体、なぜ起きてしまうのでしょう。

 井上さん 自分たちが政治権力を行使しているという自覚と責任意識がないことが一つのポイントでしょう。野党の国会議員も市民運動団体も、さらには主権者たる一般国民も、政治権力を行使している。戦後日本では、政府を批判する人たちは、自分たちを権力なき弱者だと位置づけ、政治の現状に責任を負わない評論家のような姿勢をとっているように、私には見える。これは間違いです。

 
抗議の緊急会見をする死刑廃止を推進する議員連盟の亀井静香会長(左)と保坂展人事務局長。肩書はいずれも当時=衆院第2議員会館で2008年6月17日午後3時3分、藤井太郎撮影

 死刑制度を例に考えてみましょう。日本が死刑制度を維持していることに対する根本的責任は、存置賛成者が多数を占める国民にある。死刑廃止のために法改正ができない立法府としての国会にも責任はありますが、彼らがそうできないのは、国民世論において存置論が依然優勢だからです。

 しかし、この責任意識が国民にも死刑廃止論を唱(とな)える政治家にも希薄です。ある法相が前任者たちの任務回避でたまった死刑執行命令の決裁を実行すると、メディアや世論の批判がその法相に向けられる。あきれたことに、国会の死刑廃止超党派議員連盟までもが法相を批判する。しかし、死刑制度を国民多数が支持し立法府が維持している以上、行政府の一員たる法務大臣がそれを粛々と執行するのは当たり前ではないでしょうか。

 そのことの責任は国民と立法府にある。法相の地位を得ながら、それに伴う嫌な任務をさぼってきた前任者たちこそ、民主主義と法の支配という憲法原理を蹂躙している。

 私は死刑廃止論者ですが、執行命令を決裁した法相に対するバッシングを批判してきました。自分たちの責任を棚上げした、あまりに欺瞞的で倒錯した姿勢をそこに見るからです。自分が死刑廃止論だからといって、民主的プロセスや法の支配を無視して、執行回避という自分が望む政治的利益を享受しようとするのは、公正な政争のルールとしての憲法を蹂躙するもので許されません。

 死刑存置を望む国民多数派も、司法的殺人の実行というこの制度の残酷なモラルコストの引き受けは法相に責任転嫁して、犯罪抑止や応報感情の満足など異論の余地のあるこの制度の「便益」だけを享受するという、「道徳的なただ乗り」をしています。

自分の考えが変わる可能性を引き受ける

 −−価値観が鋭く対立する問題について、自分と意見を異にするものとどう向き合うのか。現状の政治に対しても根本的な課題です。

 井上さん そう、まさにどう向き合うか。安倍政権にしても、野党にしても本当に向き合っていると言えるのかを考えてほしいね。

 私だって論争していて感情的になると、「他者に対する公正さ」の規律を破る誘惑に駆られることもありますよ。でも、その誘惑に負けないように努めないといけない。リベラリズムの核心は正義の理念だと言いましたが、これは「自分が正しいと思う政策は、手段を選ばず他者に押し付けていい」ということではなく、「自分も間違う、他者も間違う」という態度で、他者に対する公正さの規律にしたがった民主的プロセスで正しい政策をめぐる論争を続け、敗北するリスクや、他者との議論を通じて自己の見解が変容する可能性を引き受けることです。

 民主主義は愚民政治になるからだめだとよく言われますが、これは全く逆。愚民政治を笑うエリートも含めて、誰もが間違う可能性がある愚者だからこそ、必要な政治体制なのです。

身勝手な運動は「萎縮」していい

 −−「他者に開かれ、自分が変わるリスクを引き受ける」ことを市民に要求することで、意見が出にくくなるという批判があると思います。これは、どうお考えですか。

 井上さん こうした批判は自分たちが政治権力を行使している、ということに対して自覚がないから出てくると思う。繰り返し言うけど、市民運動だって権力を行使している。絶対権力は絶対に腐敗する、というのは市民にも当てはまる。私は授業でこういう事例を出して学生に考えさせている。

 
ゴミ戦争が全国的な広がりをみせる中、「ゴミ問題を語る七大都市首長と夫人の集い」が1974年11月26日から2日間、東京都庁で開かれた。左から宮崎辰雄神戸市長、大島靖大阪市長、船橋求己京都市長、本山政雄名古屋市長、美濃部亮吉東京都知事、伊藤三郎川崎市長、小泉横浜市長代理

 1970年代、美濃部亮吉都知事時代に、杉並・江東ゴミ戦争というのがあった。江東区に他区のゴミまで処理するゴミ焼却場が集中し、焼却場の排煙、悪臭、殺到するゴミ収集車の渋滞・排ガスなど、ゴミ処理に伴う環境劣化のコストが江東区民に集中転嫁されていたわけです。これを緩和するために都は杉並区の高井戸に自区のゴミの焼却施設を建設する計画を立てたが、高井戸の住民は住環境破壊だとしてこれに反対する市民運動を繰り広げ、美濃部知事を突き上げた。

 さて、これはフェアと言えるのだろうか。

 言えるはずがない。高井戸の住民は、自分たちがゴミを出しながら、ゴミ処理に伴うコスト負担は江東区民に押し付け、ゴミ焼却場という嫌忌施設のない美しい住環境という便益だけ享受し続けようとしたわけです。嫌忌施設について「必要だが、自分たちの近くには作らないで」という態度は英語でニンビー(=NIMBY、”Not in my backyard”の略)と呼ばれ、世界のどこでも見られる住民エゴです。私が批判する「ただ乗り」の典型です。日米安保を支持しながら米軍基地を沖縄に押し付ける本土住民のエゴと同じですよ。

 しかし、反対運動した高井戸の住民は、行政に異議申し立てする立派な市民運動をしているつもりでいた。「もし、自分たちが住環境利益享受のコストを転嫁している江東区民の立場に置かれたなら、自分たちの主張を支持することができるのか」と自問し、江東区民に正当化責任を果たそうとはしていなかった。

 反転可能性テストの規律を課すと、こういう身勝手な住民運動ができなくなる。それで「市民が萎縮(いしゅく)する」と言われても、これは当たり前の話で、萎縮していいのです。市民運動もまた政治的行動です。自分たちの政治的主張を通すためのコストを転嫁される人々からの異議や批判に応答する責任を果たさなければ独善化し堕落します。そんな無責任な権力を振り回すことは誰にも許されません。


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