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井上達夫・東大教授(1)安保法案議論の不毛、その原因は?

2016-06-16 10:04:06 | ブックレビュー

いのうえ・たつお 1954年、大阪市生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科教授(法哲学専攻)。「共生の作法−−会話としての正義」でサントリー学芸賞、「法という企て」で和辻哲郎文化賞を受賞。近著に「リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください」(毎日新聞出版)=石戸諭撮影

 

 「保守派にも護憲派にも戦略的な議論は望めない」−−。日本を代表する法哲学者で、「リベラリズム」をリードする井上達夫さん(61)=東京大大学院教授=は、安保法案の審議が大詰めを迎えている国会の現状をこう喝破する。9条削除論を提唱し、議論を呼んできた論客はいまをどう切るのか。ロングインタビューを3回にわけてお届けする。初回のテーマは「安保法案」。保守派、護憲派の論理を鋭く批判する井上さんの真意を聞いた。【石戸諭/デジタル報道センター】

 

保守派にも護憲派にも戦略的議論は望めない

 −−現状の政治について、まず伺いたいと思います。安保法制の議論をどう見ていますか。

 井上さん 基本的に安倍政権を筆頭に保守派の議論にはおごりがあり、護憲派は違憲論を展開すればいいと思っている。日本にとってあるべき安全保障とは何か、という議論を国会で、また国民の間ですべきなのに、実態は憲法の解釈論になっていて、不毛だと思う。戦略的な議論は望めず、保守派も護憲派リベラルも欺瞞(ぎまん)に満ちている。

 中国の台頭などにより、アメリカの一極支配が崩れつつあるなかで、日本が集団的自衛権を認めることはどのような意味を持つのか。当然の帰結だが、日本がアメリカの世界戦略にいま以上に組み込まれていくことにつながっていく。

 まず、言っておくべきことがあります。「日米安保は片務的で、日本が攻撃されたらアメリカが守ってくれるのに、アメリカが攻撃されても日本が守らないでいいというのは不公平だ」という議論がありますが、これは全くの勘違い。日本はアメリカに対し、多くの在日米軍基地だけでなく、武器・弾薬・燃料などの枢要な兵站(へいたん)拠点を提供している。日本の地理的位置だけでなく高度の経済力・技術力からして、アメリカにとって日本は単に必要なだけでなく代替不能な戦略的拠点になっている。

 アメリカが日本を守るのは日本のためではなく、アメリカの世界戦略拠点を守るためです。アメリカが戦争を始めたら日本も攻撃されるリスクは既にある。ギブ・アンド・テークということでは、日本のギブの方がアメリカのそれより大きいでしょう。集団的自衛権行使を容認することで、いま以上の軍事的利益供与やリスク負担をアメリカのためにする必要はありません。

「アメリカが守ってくれない」の勘違い

 −−安保法案賛成派の会見などに行くと、「アメリカが守ってくれないから」という論をよく聞きます。

 井上さん アメリカは「世界の警察官」をやめようとしているから、集団的自衛権行使に踏み切らないと日本は守ってもらえなくなるという人たちも安倍政権支持派にはいますが、これもひどい勘違い。

 そもそもアメリカはこれまでも、世界平和のために自己犠牲的負担を引き受けてきたわけではありません。自国の地政学的権益を維持強化するために武力介入してきました。ブッシュ政権時代の一方主義的な干渉政策はやめたとしても、自国の権益・勢力圏を守るというアメリカの世界戦略に変わりはなく、アメリカにとっての日本という戦略拠点の重要性が減じるわけではありません。

 日本が集団的自衛権行使を拒否したからといって、アメリカが日本の防衛から身を引くなんてできるわけがない。日本という枢要な戦略拠点を放棄することは、アメリカにとって戦略的な自殺行為ですから。

 いまはありえない話ですが、もし仮に将来、本当にアメリカが日本から軍事的に撤退するとしたら、それは日本にとっては、対米従属構造から自立して、真の意味で主体的に安全保障体制を再構築する好機でしょう。むしろ、アメリカにとって、日本という戦略的財宝を捨てざるを得ない状況に追い込まれることがあるとしたら、それは悪夢でしょうね。

 戦後日本の歴代保守政権には、いま述べたような巨視的な戦略的展望をもってアメリカと渡りあえるだけの「大人の交渉力」が欠けていた。この欠損を補ってきたのが、「専守防衛の枠内なら自衛隊・安保は合憲、集団的自衛権行使は違憲」という歴代政権と内閣法制局の9条解釈です。

 アメリカも立憲民主主義国家だし、マッカーサー草案「押し付け」の経緯もあるから、憲法を持ち出されたら無理なごり押しはできない。私は9条削除論の立場で、憲法解釈論に頼らず、日本の戦略的価値を踏まえた大人の政治的交渉をアメリカとすべきだと考えています。9条依存が大人の交渉力の陶冶(とうや)を阻害してきたとも考えています。しかし、安倍政権は大人の交渉力がないままで、その代償となってきた憲法的交渉カードもわざわざ捨てようとしている。私には愚かとしか思えない選択です。

安倍政権は正々堂々と改憲を発議せよ

 −−9条削除論については後ほど伺うとして、現行9条の下での、集団的自衛権行使容認は無理があると思いますか。

 
記者の質問に答える安倍晋三首相(中央)=首相官邸で2015年7月15日午後6時37分、長谷川直亮撮影

 井上さん 9条が戦力放棄と交戦権不行使を明言している以上、自衛隊・安保の存在そのものが違憲で、専守防衛なら合憲という歴代政権の解釈自体が「解釈改憲」だというのが私の立場です。安倍政権はこの「解釈改憲」をさらに拡張するもので、無理に無理を重ねている。まったく賛成できません。正規の憲法改正手続きに従うより楽だから、解釈改憲でいい、と思っている節もありますが、これでは立憲主義が骨抜きになる。

 本来、安倍政権の目的は憲法9条の解釈を変えることではなく、改憲手続きによる9条自体の変更だったはずです。集団的自衛権を行使できるような憲法改正を国会で発議することは、現在の国会の勢力分布状況からすれば不可能ではないのだから、発議して、国民投票で正々堂々と国民の信を問えばいいのです。いま発議すると国民投票で負けるリスクもあるから解釈改憲でというのは、あまりに姑息(こそく)です。

 正規の改憲プロセスを発動するなら、日本の安全保障体制はどうあるべきかについて、憲法解釈論議を超えたもっと実質的な論議が国会でも国民の間でも活発化するでしょう。安倍政権は、こういう実質的論議を避けて、アメリカに喜んでもらえそうな集団的自衛権行使のための安保法制整備にひたすら突き進んでいる。

 安倍政権は民主党政権時代の「熟議の政治」の実験を「決められない政治」と批判して、「決断できる政治」の名の下に、専断政治を進めています。国会論戦でも、異論にまともに応答せず、同じ答弁を繰り返しているだけ。安倍晋三首相自ら、質問する野党議員にやじを飛ばしてさえいる。アメリカに対しては不必要に追従的で、国内政治では異様なまでに傲慢なこの政権に、私は強い危惧を覚えます。

護憲派の欺瞞

 −−一方で護憲派の主張も「欺瞞」という強い言葉で批判しています。

 井上さん 護憲派も根深い問題を抱えています。護憲派にも実は二つの立場があります。一つは自衛隊と日米安保はその存在自体が違憲だと考える「原理主義的護憲派」。自衛のための戦力も持たずに、非武装中立。この立場を本当に貫徹するなら、戦争という手段を絶対に使わない絶対平和主義の思想に帰着します。敵国に攻められた場合は、デモやゼネストといった非暴力的手段で抵抗するという思想ですね。

 
安全保障関連法案の撤回を求める緊急声明を発表し、会見する立憲デモクラシーの会の(右から)長谷部恭男氏、樋口陽一・共同代表、小林節氏=衆院第2議員会館で2015年6月24日午後1時41分、猪飼健史撮影

 もう一つは、最近注目を集めている長谷部恭男さん(早稲田大大学院教授)らが提唱するような、専守防衛の範囲内なら自衛隊も日米安保も合憲だと考える「修正主義的護憲派」。「戦争の正義」についての思想としては、正当な戦争を自衛戦争に限定する「消極的正戦論」に基づいていますが、この立場はさらに憲法解釈論として、9条も絶対平和主義でなく消極的正戦論に立つと主張している。

 しかし、どちらも問題があります。私は9条の解釈としては原理主義的護憲派のほうが正しいと考えています。修正主義的護憲派は結局のところ、旧来の内閣法制局の見解と同じです。9条2項で戦力保持と交戦権行使は禁じられているが、自衛隊は戦力でないからOK、と。しかし、この見解自体があからさまな「解釈改憲」です。

 世界有数の武装組織たる自衛隊を戦力でないというのは無理です。仮に百歩譲って自衛隊が「戦力未満」だとしても、日米安保体制下で日本に駐留している世界最強の軍隊たる米軍が戦力ではないとか、この米軍と共同して遂行する自衛戦争が交戦権の行使ではないなどというのは、どうあがいても無理です。「解釈改憲」という点では修正主義的護憲派は安倍政権と同じ穴のムジナで、この点では安倍政権を批判する資格はない。

 一方、原理主義的護憲派は憲法解釈としては正しいと言いました。しかし、欺瞞という点ではこちらのほうがひどいでしょう。なぜか。60年安保闘争は確かにありました。しかし、それから半世紀以上経たいま、原理主義的護憲派は、自衛隊も日米安保も違憲だと口先では言いながら、本音では専守防衛の枠内なら「OK」と事実上、これを容認しているからです。自衛隊と安保に違憲の刻印を押し続けることが、それを専守防衛の枠にとどめるために政治的に有効だから、そうしよう、と。

 要するに違憲の現実の固定化を望んでいるわけです。修正主義的護憲派にはまだ、憲法と現実の乖離(かいり)を放置できないという問題意識がある。原理主義的護憲派にはその問題意識すらない。

 専守防衛の自衛隊・安保を受容している点で、彼らは、「殺されても殺し返さない」という峻厳(しゅんげん)な非暴力抵抗思想を本気で引き受ける絶対平和主義者ではない。さらに、違憲状態の固定化をOKとしている点で、もはや真の意味での「護憲派」の名にすら値しないと思います。彼らのこうした欺瞞により、最大の侮辱を受けているのは自衛隊員ですよ。「違憲の存在だ」として、「憲法上、認知されない私生児」的な扱いを受けながら、万一日本が攻撃されるような場合には「命がけで我々国民を守れ」と命じられている。

 保守派も修正主義的護憲派も解釈改憲、原理主義的護憲派は不誠実。これ以上、9条を巡る欺瞞的な議論を続けても、あるべき安全保障体制についての実質的議論は深まらず、立憲主義の形骸化が進むだけでしょう。

「9条削除」論 その真意とは?

 −−ここで井上さんが展開する「9条削除」論につながるわけですね。憲法論が先にあり安全保障問題の議論が進まない。よって9条は削除すべきである、と。

 井上さん そうです。私が考える立憲主義というのは、公正かつ民主的な政治競争のルールを定めて、差別を受ける可能性がある少数者の人権を保障することです。

 「正しい安全保障政策が何か」は、被差別少数者の人権問題を超えた国民全体の利害に関わる論争的な政策問題ですから、これについての特定の解答を、改正の難度の高い硬性憲法で「凍結保存」して反対者に押し付けるのはフェアではありません。それは、通常の民主的立法過程の中で、持続的に議論し模索すべきことです。

 9条を削除したら、集団的自衛権行使反対派も、9条の欺瞞的乱用によって自己の安全保障観を擁護できず、望ましい安全保障体制についての実質的な議論を深めざるを得なくなる。

 容認派も解釈改憲の積み重ねで憲法の検認を偽造して事足りるとはできず、集団的自衛権行使の必要性・適切性に対する実質的反論、例えば私が示したような反論にまともに答えられるかどうかが厳しく問われることになる。安全保障体制のあり方については、誰も自分たちだけが確実な正解を知っていると標榜(ひょうぼう)することは許されず、自己の立場を民主的な討議プロセスにおける持続的な批判的吟味・再吟味にさらさなければなりません。

「集団的自衛権」と「集団安全保障」は違う

 −−削除した先にどのような展開があるのでしょう。安全保障体制や沖縄の米軍基地など井上さんの考えはどうなるのでしょう。

 井上さん 私自身は基本的に消極的正戦論の立場をとります。自国を防衛するために最小限の武力保持、つまり自衛隊を認めます。また、米国中心の同盟国集団とその仮想敵国集団とを線引きする集団的自衛権の体制に組み込まれるのは、日本の安全保障をかえって危うくするので反対ですが、敵味方を線引きせず、どの国が侵略されても国際社会全体が協力して守るという、国連を主軸にした集団安全保障体制の強化は必要だと考えます。

 後者が不十分な現状では、日米安保を従来の個別的自衛権の枠の中にとどめつつ利用することには代償措置としての意味はあると思います。

 
ヘリ墜落事故から11年、焼け焦げたアカギの木が残る事故現場で集会が行われた=沖縄県宜野湾市の沖縄国際大学で2015年8月13日午後2時21分、須賀川理撮影

 さらに日米安保のコストは国民の間で公正に分担されるべきで、沖縄の基地過重負担を解消し、沖縄以外の国内に必要な米軍基地を移転すべきです。沖縄に基地が集中している現状は、ここを一発やられたら終わりということで、軍事的脆弱(ぜいじゃく)性をかえって高めますから、日本全土への基地分散は戦略的にも必要なのです。中枢のない分散型情報通信システムとしてのインターネットが、もともと、中枢連結型だった軍事情報システムの脆弱(ぜいじゃく)性を解消するために開発されたということを、ここで想起する必要があります。

 日米安保を必要だとしながら、沖縄から自分たちの地域への基地移転に反対する「本土住民」のエゴは許されません。「沖縄は基地の代償として、国から経済的補助を受けているではないか」というのは、反論にならない。基地移転を受け入れた自治体に経済的補助を与えればいいだけの話です。

 さて、日米安保について現状では必要だと言いました。重要なのは「未来永劫(えいごう)、いまのままでいい」という意味ではないことです。敵と味方をあらかじめ分断してしまう「集団的自衛権」と、国連中心の「集団安全保障体制」を区別する必要性にさっき触れました。

 いま、国際社会の合意を正当に調達できる組織は国連しかありません。しかも、国連は武力だけでなく、教育や文化政策、貧困対策といった形で多様な支援ができる組織でもある。国連による包括的で多面的な「集団安全保障ネットワーク」の構築発展に日本は尽力する責任がある。それと並行して、日米安保体制も「大人の交渉力」を発揮しながら、対米従属構造を強化するのではなく減殺する方向で段階的に改革していく必要があります。(続く)



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