高校公民Blog

高校の公民科(現代社会・政治経済・倫理)教育に関連したBlogです

高等学校の先生の考古学 1 受験の傷跡

2010-10-10 23:46:15 | 教育時事

退行と固着

 フロイトのキイワードに、この二つがあります。退行というのは、現在の不都合をごまかすために人は、心地よく過ごせたある一時期に帰っていく、というのです。幼児帰りというのが、典型ですね。ほら、いい年をして、自分のことを

「**子はね」

っていうでしょ?これが典型です。私がね、

「Masajiはね」

っていったら変でしょ(笑)?かなり(笑)! 

固着は、さらにその退行が固定化してしまうことをいいます。さて、この二つのキイワードを使って、高等学校の先生の精神分析を試みます。高等学校の先生に抜きがたくある退行現象、固着現象を仮説的にとりだしてみましょう。

学校の先生の退行と固着

 高等学校の先生に、「受験命」という人がいます。もちろん、これ自体を悪いとはいいませんよ。しかし、この「受験命」の先生には、きわめて、危険な病巣が避けがたく随伴します。私たちは、だから、この「受験命」の先生がもつ病に気をつけなければなりません。

 すべての「受験命」が、こうだ、というのではないことは、最初に断っておきます。しかし、私が見てきたかぎり多くの教員が、これから述べる病像を帯びているのです。帯びるだけならよいのです。生徒さんが被害者になったとき、それが単なる個人の病では済まなくなる。あえて言うならば、連鎖がはじまる、仏教的に言うならば因縁の因果の鎖が断ちがたく連鎖していくんですね。

高等学校の先生は受験エリートではない

 多くの、高等学校の先生は、いうところの受験エリートではふつうありません。東京大学の法学部をでて、学校の先生になったという人は、いるかもしれません。しかし、通常は、

「何で東京大学の法学部まででて学校の先生になったの?」

ってききませんか?
 京都大学、一橋大学、慶応大学、早稲田大学、・・・こうした偏差値がきわめて高い、大学をでて、学校の先生を勤める、というのは、下世話に言えば文学部でもなければ、どうして?ってことになりませんか?
 つまり、こういうことです。高等学校の先生の多くは、受験エリートではない、ということです。つまり、それは、高等学校の時に、受験エリートに対して、妬みや恨みや、うらやみやといった感情をもって見ていたのです。重要なことは、彼らは東京大学へ入るほどの受験テクもなかったし、ひょっとすると能力もなかったのです。ここが大事です。つまり、現役では、一流でないスポーツ選手に、手ほどきを受ける、ということの比喩と似たようなことがいえるわけです。受験には、ある種のテクニックが存在します。しかし、それが、身についていなかったか、あるいは、要領が悪かった人間が高校の先生をやっているということです。もちろん、その反省を生かして、よきコーチになっている人だっているはずです。しかし、あとで述べるように、どうも、外部評価制度のない学校の先生には、きわめて危険な病像が見受けられるのです。私は、某高等学校で、京都大学へ現役で受かる、という生徒がでてきたとき、こう周りに言ってやったんです。

「下手にさわるな、おめえたちのバカがうつる!」

って。けっこう、みんな聞いてくれましたよ(笑)。

受験命の復讐

受験命の先生が、偏差値の低い大学を受けたり、あるいは、受験を希望しているが、学力が低い生徒を前にした時の

侮蔑安心

 をみるときほど、不快なときはないんですね。職員室で、あからさまにそうした会話をするわけです。それは、おそらく、高校の時の自分の姿を、似絵のように重ねて、かつてのエリートたちへの羨望の、裏返しによる復讐をはたしているのです。
 私は、これまで、受験命の先生が(数学や英語といった科目に特に多いのですが)、研究し、いかに指導をするか、で悩んでいる、という姿をあまり見てきませんでした。教員評価もない。生徒による、選択もない。囲い込みの中で、どのような授業をしても、外部的評価にされされることもないという現状の中で、それは、模試を設定したり、補習を一生懸命やったり、その結果の試験の採点も一生懸命やるなどという姿はみてきました。それは、忙しいという意味では、大変なことです。受験関連の事務手続きも大変でしょう。しかし、肝心な教材の研究や、指導法での研究などという姿をみることは本当に稀です。

受験命の学校の選択制


(写真と文章は関係ありません)

 私は、受験命の学校こそ、単位制校化して、生徒に広範な選択権を与えるべきだ、と考えてきました。そして、講師も選択させるのです。そうしたとき、受験効率は、何倍にもアップするに違いありません。なぜなら、侮蔑を感情の基本に据えたのでは、成績が思わしくない生徒は、まちがいなく成長しないからです。侮蔑ではなく、共感から、できの悪いことで悩んでいる生徒への親身な関心から、しか、効率は生まれないだろうからです。受験、受験とアホのようにあおるだけの教師、ストレスだけを与える教師は、悩んでいる生徒たちには選択されないでしょう。現在は、学年制の学校では、まだまだ生徒の方が立場が弱いのです。こうした、閉じた状況には、教師の退行と固着は、ますます病像を深めます。受験は、刺激だ、とだけしか考えられない教員が落ちこぼしている、その原因は、〈退行による復讐〉というのが、私の仮説ですね。どうでしょうか?


 
↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑   
よろしかったら、上の二つをクリックをしてください。ブログランキングにポイントが加算されます


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。