川嶋さんからの質問
川嶋さんから次のようなコメントを質問として受けました。
必修科目<未指導>問題(未履修の生徒には責任が無いのでこう呼びます。)ですが、
まず第一に、学習指導要領に従わなかった学校及び学校長に罰則規定・前例はあるのでしょうか。というのも、要領は法律ではないからです。建築基準法に違反した業者、安全基準・環境基準に満たない車を売った業者は罰せられます。要領に違反した公教育者は、いかん?
第二問。もし、要領に法的な拘束力が明確でないなら、なぜ、<逸脱>校長たちは、それが「本校の特色だ」と開き直れないのでしょうか。実際のところ、教員も、生徒も、保護者も、世界史を履修していようがいまいが、どうでもいいのです。人々の関心は、「とにかく、このまま波風立てずに卒業・進学させてくれ」ということです。安部首相も、生徒への配慮を公言しているくらいです。この点で、サービスを提供している学校も、消費者たる生徒・保護者も利害・要求は一致しているのです。ここが、安全基準・環境基準違反の業者のケースとの決定的な違いです。
つまり、この問題は「要領」をコケにされた文部科学省とその周辺の族議員のメンツ・プライドの問題でしかない、ということです。違いますでしょうか?
以上、二点、①「要領」の法的な位置付け
②「要領」に<従わない>で、<生徒・保護者のニーズに従う>学校の可能性について、もしよろしければ、お教えください。
1867年まで存続していた律令体制
1868年王政復古の大号令とともに明治維新がなされます。徳川300年、鎌倉からはじまった武士政権が終焉したのが1868年だとされます。
ところで、みなさんは大岡越前をドラマでご覧になったことがありますか?大岡忠相は享保年間に将軍吉宗によって江戸町奉行に抜擢されました。ところで、大岡忠相は「越前守」なんです。つまり、大岡忠相は律令体制下の「越前」の国の「守」という官職を京都の朝廷から、つまり、天皇からいただいていたということになっているわけです。徳川はあくまで「征夷大将軍」という朝廷から賜った役職を勤めているだけなのです。つまり、710年に始まった律令体制は江戸時代まで存在していた。つまり、江戸時代も一応体制的には中央集権体制が残っていたのです。
文芸批評家の柄谷行人は近著『世界共和国へ』(岩波新書)においてこのように述べています。日本やギリシアを源流とする西欧文明は、中央集権体制の周辺で成立した。日本にとっては中国、ギリシアにとってはオリエントが中央集権的体制を完成させた。その周辺国は、中央集権的体制を必要とせず、封建制を体制としてひくことになった。もちろん、日本社会を例にとっても、8世紀に国家的な危機から律令体制をひいた。また明治に入って、帝国主義の植民地化の動きに対抗する意味で中央集権体制をひいた。しかし、基本的な体制はおおむね封建制だったというのです。
ここをよく考えてみる必要があると思います。はたして日本という国に中央集権の強烈な意志など存在するのだろうか。むしろ、逆なのではないか。猪瀬直樹の名言ですが、日本の戦前ファシズムは中央統制の結果ではなく、限りない中央統制の崩壊過程だった。こう考えなければ関東軍なんか説明できないでしょ?
読み替え問題にみる文部科学省と教育委員会
今回の読み替え問題をどのように考えたらよいのでしょうか。とかく、特に組合や左翼勢力から文部科学省他の中央省庁の中央集権化の動きが指摘されます。しかし、今回のケースを見ていただきたいのです。読み替え問題として、問題に浮上した世界史だけでなく、だいたい鳴り物入りで導入された教科「情報」や「総合学習」など読み替えや「やったことにする」ということで形骸化させているものはあげていたらキリがありません。大体、現在高校は絶対評価で評価をつけることになっています。しかし、絶対評価でなど評価をつけていません。いえ、だいたい、教員個々がどのような成績をどのようにつけているかは、ほとんど闇です。
みなさんはこういう事実をどのようにごらんになられますか? この地区で一番の進学校の数学の「5」(5段階と仮定)ともっとも学力が低い学校の「5」で学力が同じだと思われますか?
つまり、学校社会には、中央統制的なものは形式としてのっかってはいても、ほとんどは封建制的な地方分権で業務がなされているのです。それは、ほとんど、スタンダードを形成しない、ということは、互換性がほとんどない、閉じきったシステムとして運営されているのです。これがまず地として存在することから今回の読み替え問題をみなければいけません。したがって、中央の統制や監視はほとんどできないのが、現在のシステムだということです。それは、地方の内部でも同様です。各学校はとりあえず閉じきりの体制をとっています。形式的な統制はなされています。しかし、実質の内部は形式的な外形を整えておけば一見地方分権にみえる、閉じきりの封建制的形態で統治が行われているのです。
川嶋氏への回答
(1) 法的拘束力について
したがって川嶋氏の質問に私はこう答えるよりありません。学習指導要領が法的な拘束力を持つのか、という質問に対してたしかに法的には罰則規定はないし、ない以上は行政法のならいにしたがって(新藤宗幸『行政指導』(岩波新書)参照)、
「お願い」
とでもいうよりないのではないでしょうか。今回の文部科学省の通達を読めば、かんじんなところでは「お願い」しているのがわかります。むしろ明白なのは今回は公文書偽造罪なのです。ところが、おそらくこの問題が浮上することはありません。そのほうがこの問題が法律上の問題でないことを物語っているといえるのです。
文部科学省の通達では「やっているフリ」(「礼!」)こそが大切なのです。あとは、一見地方分権にみえる封建制的な統治で行われていたのです。形式的には遵守するという姿勢を地方の教育委員会は示していたし、書類上は整えていたわけですね。ですから、遵守するといって遵守していなかったから問題になったのだとかんがえてはいけません。やってないことが明るみにでたから、いけないのです。本当にやっているかどうかなどということは文部科学省には興味がありません。いいですか?本当に興味があれば、一発抜き打ち査察をやればこんなの一気に表面化しますよ。くどいようですが、くりかえしますと、今回の問題は、実は学習指導要領通りにやっていなかったことが問題なのではありません。
やってないとあれば、文部科学省はその真意とはずれてでも形式的に
「やりなさい」
というのです。
「遺憾だ」
というのです。これをいわなければ、どうなります。文部科学省の「学習指導要領」の作成で〈収奪〉(古いねえ!)しているみなさんが存在の理由がないことがわかってしまうじゃないですか?で、「形」なんです。
(2)高度成長型国家から消費社会型国家へ変わりうるのか
つまり、こういうことです。日本社会は明治以後儒教をその生活基盤として江戸時代よりも強固に採用していった。儒教の「礼」という形式を遵守する、形式さえ遵守すればいいのだ、という道徳はそういう意味では日本的な封建制にはきわめてマッチしていた。中央は、一応国家の基本に従って、形式的な平等性や最低限度の下支えを行うという大義名分で仕事をつくる、それを形式として頒布する。地方は、それを形式的に遵守する。しかし、実質は形式さえ整えれば、あとは封建制的な意味、丸山眞男がいうタコ壺型の独立した一見自治と見まごうばかりの恣意的な支配が行われていく。こう考えれば今回の問題は説明が付くのではないでしょうか。
だから、川嶋さんが書いてきた、二点目についていえば、こう答えることになるのです。
「要領に法的な拘束力が明確でないなら、なぜ、<逸脱>校長たちは、それが「本校の特色だ」と開き直れないの」かといえば、それは、地方は自治ではなく、封建制という形式で成り立っているからだ、ということになるのです。文部科学省を最終的な後ろ盾として身分制的特権=規制を保持し、卒業認定資格を独占しているから学校法人は収奪に安住していられるのです。それがなくなれば、規制緩和されます。あくまで中央の「家」としての保護と財政の支援と「身分制的特権=規制」で(世界史の身分制的特権=規制をはずしたら殆どの世界史の教師は年収100万円以下だぜ!(笑))いまの地方公務員としての教員の生活は庇護されているのです。柄谷行人が書いているように中央集権という形式はあくまで国家が収奪するシステムです。そして、実は現在の国家体制は高度成長経済システムに対応するもので、まったく消費社会のそれには適合しなくなってしまったのです。しかし、適合しなかろうが、何だろうが、世界史に意味があろうが、なかろうが、「収奪させてちょー!!」これが〈中央集権VS封建制〉のシステム的要求なのです。そして、その体制的な矛盾のなかから、「「要領」に<従わない>で、<生徒・保護者のニーズに従う>学校の可能性」などという主張をする川嶋さん的な武士が出現するわけです。それは、封建制がその体制維持の中から出してくる幻想なんですね。金八先生もそうだね。
したがって、「この問題は「要領」をコケにされた文部科学省とその周辺の族議員のメンツ・プライドの問題でしかない、ということ」では、微妙にないと私は結論づけています。そんなに強い中央集権の意志など文部科学省にあるのだろうか?あったら、こんな問題すぐ発覚しますよ。私流のえげつない表現をすれば地方がやっていることなんて
「フルチンで白昼堂々」
に近い不用心ぶりだと思うのです。
「「要領」に<従わない>で、<生徒・保護者のニーズに従う>学校の可能性」
については、別所でかきましたので、そちらをご覧ください。
これまで、私は、日本の国家権力は限りなく形式化し、封建制へと移行するということを示してきました。高度成長経済に適合的なシステムとしてほんの10年ほど機能したこのシステムは現在完全に破綻しています。財政的にケインズ的な循環を示さないたんなる寄生虫になってしまったということです。それでも、形式的に残っていくというこの国の法則はまだ持続しているのです。しかし、あきらかにグローバリズムを背景にした経済構造にはまったく不適合な教育システムであることだけは徐々に分かってきているのです。それが今回の問題のグラウンドセオリーを形成するように思えます。
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教育について、まともに、まじめに考え、言論活動をしている教員は、そういう意味では、幕末の藩士(志士)みたいなものですね。
これからやってくる時代を見据え、「なすべきこと」をなさんとする。
蒸気船を眺めて、ぽかんと大きな口をあけている連中や、鉄でできた船が近づいてきたことすら、気づかない人々に絶望しながら・・・。