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高等学校の先生の考古学 2 屈した恨み

2010-10-11 21:22:21 | 教育時事

 

すなおが一番

 

 学校の先生を見ていて、つくづく思うのは、私に子どもがいたとして、もし、出来が悪かったら、大変だな、ということですね。出来が悪かろうが善かろうが、

 

すなに言うことを聞かない

という生徒だったとしら、学校社会では大変なのです。そうです。すなおが一番、なのです。

 

すなおな〈バカ〉

 

に〈憐みを垂れる〉こういう形式が、大好きなのです。だから、できのいい生徒でも、とにかくそれをひけらかさず、謙虚であることが先生に好かれる第一です。

 

学校の先生の思春期

 

 その昔、学校の先生は、ま、大くくりに「いい生徒」だったのです。素行で問題があったわけではもちろんない、というのが通常です。そして、その先生の周りには、ずれたいわゆる不良がいたのです。彼、彼女たちは、彼ら=不良たちの様子をうかがい、迷惑だと思いながら、彼らのご機嫌をうかがい、生活をしていたのでした。したがって、不良たちに、先生たちは複雑な思いをもっています。怖い、しかし、できれば消えて欲しい、しかし、それはいえない、いや、むしろ、よいしょをしなければ下手をすると攻撃の対象になってしまう。攻撃の対象にならないように、自己主張を本当にいい加減で行わなければならない。

 

素行が悪い生徒への二つの姿勢

 

こうして、学校の先生になった彼らが、素行の悪い生徒と今度は教師と生徒という関係で相まみえるのです。そのときに、先生の行動は、過去へと遡っていくのです。

 

ある先生は、

みてみぬふり

というかつての姿勢を思い出します。これを基本としていけば、自分にとりあえず火の粉はふりかからない。

もうひとつは、過去の復讐です。教師となり、あらゆる権力を利用して復讐するのです。学校の先生のなかには、素行の悪い生徒に対する抜きがたい

 

侮蔑

 

があることは、前のエントリイでも書きました。〈侮蔑〉をもちながらよいしょしていた自分に対する、かつての自分への、教員となった現在での復讐が敢行されるのです。もちろん、それは、厳密に計算し抜いた、けっして負けないという算段のもとでの復讐です。

 

「生徒指導」つまり、

「頭髪服装」

「服装」

から、「成績」、たとえば「授業態度」「出席」といった「すなお」をリトマス試験紙としうる項目による、ねちねちとした復讐、それは、ニーチェならば、

「奴隷道徳」と「ルサンチマン」

と呼ぶだろう、あらゆる叱責の形式での復讐です。

 

全体の前での叱責

 

 私が自分に絶対のものとして禁じているのが、多くの生徒の前での恥をかかせるような注意、叱責です。これは、次に何ものも生まないのです。恨みの連鎖だけが増幅するのです。こうした単純な原理さえ分別できない教員はいくらでもいます。自分のそのときの怒りにまかせて、相手の無抵抗を前提とした逸脱行動にたいする

 

攻撃

 

これを叱責とも、ましてや「注意」や「矯正」などと呼ぶべくもないものです。

 

選択できないクラスという形式

 

無学年無学級制の学校のクラスを想定してみましょう。生徒が選択するのです。学年制の教員がもっとも忌み嫌うのは、クラス担任を生徒が選択する、という形式です。

 

そうです。無学年無学級制のクラスはこういうメッセージを私たちに送ります。

 

「愛されるならば体罰でもよい」

 

愛情を基本とし、選択を基本とするクラス担任です。ここでは、復讐は何のいみももてないのです。私は生徒が3年間もちあがって私を担任に選んでくれたという経験をもっています。これは、恨みでは成立しないのです

 
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