高校公民Blog

高校の公民科(現代社会・政治経済・倫理)教育に関連したBlogです

授業が大切という外部

2007-03-24 22:39:30 | 教育時事

茹でガエル

 
学校が今問われている、などといわれます。しかし、学校の内部に生活をしていると、この感覚がまるでありません。少なくとも、私の現場には問われているなどという危機感も、緊張感もありませんね。よくそれを「茹でガエル」なんていうふうにいうわけです。カエルを、徐々に茹でていくんです。徐々に徐々に、と。すると、相当高温になっても、高温だということにカエルは気がつかない、そして、気がつくと見事に茹で上がっている、というわけです。私は、ある意味で内部で変えていくこと、少なくとも内部の組織で構造転換することは無理だと考えています。少なくとも、50を迎えた私が、その努力を傾注するにはあまりに徒労だと認識しています。私の勤務する学校は単位制高校です。これは、いわば学校の組織を構造転換させた、そういう意味では画期的な学校なのです。消費社会というコンセプトを考えるならば、高度成長モデルからの構造転換を考えるならば、格好の場だと私は考えています。しかし、学年制しか知らない高度成長モデルの教員たちは、これをどんどん自分たちの無能力を省みることなく、学年制モデルへと変えていこうとするのです。選択という幅をできる限り小さくし、選ばせないようにする。ここへと努力が傾注していくのです。多様な選択肢を設定し、その意味を生徒に問わせ、多様な自分を発見する、これがこの学校の設立趣旨です。しかし、その選択がいけない、とどんどん選択の幅を小さくしていくのです。学年制がないのに、学年制を導入していく。クラスを選べるのに選ばせないようにしていく。担任を選ばせないようにしていく。総合学習を選ばせないようにしていく。そして、学年制のような画一をどんどん導入していく。これは、止めようがないんですね。私は、去年の夏50になりましたが、この50を意識しだして、残りの人生を考えたとき、これを元へと戻す努力を

「不毛」

と断定しました。
 さて、先日NHKが教育特集をしました。その特番をみていて、毎度繰り返す違和感をもったのでした。

授業が大切

それは、番組が特集している教育改革の努力が

「授業にある」

という点でした。いかに、生徒が個性的に考える授業、興味や関心をもつ授業を行うか、そのためにどのような改革が必要なのか、という点にあったように思えます。
しかし、現場に立っているとこの問いがまるきりない、という毎日に直面します。これは、前にも書いたので簡単に繰り返しますが、高等学校は

「運営委員会」

という組織が教員の組織としてはかなり重要な会として位置づけられています。これは、いわゆる分掌と呼ばれる人たちの会議です。

学年主任、教務課、生徒課、進路課、総務課、保健課、図書課・・・

こういった主任と課長からなる会議があります。その学校の重鎮が顔を連ねているのです。
  教員たちの人事の関心は、最後の関心はここにあります。このタテ関係が重要なのです。ところで、よくみていただければわかりますが、教務課というポストがとりわけ重要とされるのですが、何をやるかというと、学校の成績の記録、や授業時間割を組む作業、なんです。大学ではこの部署は、ふつう事務員がしています。学校はこの部署が大切だ。そこの部署を占める人の発言が重い。そう考えています。生徒指導は、生活指導全般ですね。これは、いわゆる超進学校では意味がないはずですよね。それから、進路課、これは出口に関する指導ですね。この三役が大事だと考えられています。
  成績の記録をまとめる部署、授業を組み立てる(やるのではない!)部署、進路という出口指導をする部署、図書という部署、保健室や清掃を行う部署、こういう部署をまじめに行っている専門人だと彼らをしてみてください。授業はしていないのです。それがまじめな思考だとしたら、専門人と考えるのです。
  そうしたときに、それは、あくまで生徒が学校という場所で行う授業という中心的活動の補助ないし、環境づくりの部署であることがわかるはずです。その部署の長こそが、教員たちが重要だとされる人間だということです。その理由は簡単です。この先に

「教頭・校長」

という管理職があるからなのです。
  授業の長、教科主任は輪番制です。人事権もない。何の決定権もない。大体、お互いの授業など知りません。何をやっているのかは、しらない。興味もない。誰の教え方がうまいのか、も知らない。興味もない。授業は毎日のルーチンでしかないのです。

授業評価

 
私は、現在学校のタブーを犯しています。生徒の授業評価を実施して、そのデータを公開し、教員選択のさいの判断材料にしてもらう、こういう企画を総合学習でおこなっています。単位制高校ならではの試みなのです。
自分は、数学が苦手である、としますね。その苦手な生徒がわかりやすい授業を求めているとしましょう。自分と同じように苦手な生徒が、「わかりやすい」授業だという評価を与えた教員のデータをみます。こうして、来年は、その評価の高い先生を選ぶのです。
  生徒が多様だと想定しましょう。そうすると、多様なニーズがこのデータで刻み出されるのです。このデータを考えてみましょう。そう簡単にこのマーケッティングはできませんよ。しかし、何度も試行錯誤しながら、このマーケッティングをまじめに行うのです。
  さて、それにしても、こういう企画を行うポジションはどこでしょうか?
  図書ですか?もちろん、ちがいますよね。
 生徒課?ちがいますね。
 教務課?いっけん教務課にみえるのですが、教務課には、授業評価を行うポジションはありません。
 これは、授業担当者でさえありませんよ。本当に行うとしたら、授業担当者とも切れた、独立の機関でしかありません。そこには、まず生徒はもちろんのこと、保護者も必要ですね。管理職も必要です。そして、その高校が根拠をもつ地域が必要になりますね。そうです。これが学校評議委員制度なのです。
 こうして、外部が学校を評価することをとおして、はじめて、学校は授業が大事だと問われることになるのです。
 学校はもっと専門化しなければいけないという現実。授業のプロが必要なのだ、という現実。分業体制の必要性。こうしたことは、現在のシステムではまったく教員の個々人への自覚とはなりません。一言でいえば、学校には外部が存在しません。外部がなければ、たんに、内部のタテ関係だけが露出してしまうだけなのです。授業評価を反対しているのは、このタテ関係を堅持したい人たちです。それは、学校の長老全体であり、右も左もありません。労働組合も、教育委員会へとつながる人たちも、この点では奇妙な共闘をするんです。木村は右からも左からも

「体制派」
「秩序破壊者」

ってなっちゃうんだねえ(笑)。
で、生徒だけが支持しているっていう現実があるんです。
いい授業を提供する、というもっともな問題提起がどうやったらいやいや教員がするようになるのか?それは、運営委員会など意味がない、というところへと意識転換していかなければいけません。そのためには、生徒の評価という当たり前がもっとも重要な要素なのだ、という転換をする必要があるのです。そうです。教員評価はその限りで必要なのです。だれのための学校なのか?学校とは何をする場所なのか?私たちはそれが問えるシステムを見失っているのです。


↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑   
よろしかったら、上の二つをクリックをしてください。ブログランキングにポイントが加算されます

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« この春の読書 1 高度成長... | トップ | 職人の世界 1 落語家の世界 »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
質問です。 (レッドキング)
2007-03-27 22:06:31
木村さんに質問です。木村さんは卒業式で感動して涙することってありますか?今までに涙してまで卒業生を送り出したことがありますか?
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

教育時事」カテゴリの最新記事