高校公民Blog

高校の公民科(現代社会・政治経済・倫理)教育に関連したBlogです

履修不足問題のモンタージュ 2 教養と受験

2006-11-03 23:36:04 | 教育時事

履修不足問題の今後

 私は当初からこの問題には冷ややかでした。当事者は大変でしょう。しかし、この問題はどうあってもある必然的な動きしかしません。早速、森前総理(文教族のドン)の提言が具体化されました。

「生徒は悪くない。穏便に」

という前総理の意を受けたかのように文部科学省は3分の1規定を適用させ、70時間ではなく50時間の履修を義務づけました。今後の予測をします。
 来年度は、形通りの学習指導要領通りの授業をやります。そして、二年目から「喉元すぎれば」なんとやらが始まります。そうです。読替の開始です。そして、数年後、学習指導要領通りに学習指導要領を行いながらおこなっていないという現状が復帰します。

教養の意味

 とかく底辺校と呼ばれる学校での授業の不成立が問題になります。しかし、今回の履修不足問題で明瞭になったのは、進学校だろうが、その事実は変わらないということでした。彼らは何も知的好奇心で勉強しているわけではありません。本当に知的好奇心があれば、たとえばこういう現実をどう考えるのです。現在、法律学部や経済学部といった受験生は、「政治経済」や「現代社会」そっちのけで「世界史」「日本史」といった歴史科目を、それも訓古学よろしいちまちました歴史的事実をクソ暗記しているのです。それが経済学とどういう関係があるのか、法律学とどういう関係があるのか、そういう疑問を呈している(受験生はもちろん)進学校の受験担当者も公民科の教員もいないはずです。

「そんなことはどうでもいい」

のです。補習をやることになります、これから。壮大なる内職と手抜きとが展開するのです。問題はその手抜きが展開することではありません。手抜きを当然とするということの意味なのです。おもしろいのはね、それが「政治経済」の手抜きであったとして、法学部を受験する生徒さえもが

「何でいまさら『政治経済』をやんなきゃ、いけねえんだよぉ!」

と思い、『政治経済』の担当者もそう思って、内職を野放しにしていくだろうということなのです。この事実が明るみに出すのは、次の事実です。受験以外にはたとえ進学校の生徒でさえ、学校の授業には興味がないということです。意味もない。受験というものがかろうじて関心をつなげていたのだ、という事実です。

家産制的支配の教養 

中国の科挙試験は、西洋の法律家や医師や技術家などに対する近代的合理的官僚制的な試験規定のようには、専門の資格を確認しなかったが、他面また呪術師と男子結社などの典型的な試練のようには、カリスマ所有も確認しなかった。・・・
 科挙試験は受験者が文学に対する徹底的な錬磨と、そこから起こる、高貴な男子にふさわしい心術とをもっているか否かを調査した。・・・
 すべての段階〔の科挙の試験〕は、書法・文体論・古典的経書の通暁等の試験であったが、結局は・・・少しでも訓令通りの定見があるかどうかの試験であった。(204) 

・・・中国においては、生活にたいする官公吏の内在的な態度は、この官公吏に固有な実践的合理主義のなかで生命を全うし、また、この官公吏に適合した倫理をつくりだしえたのであった。この内在的な態度に対しては、なにものも、合理的な科学も、合理的な芸術活動も、合理的な神学・法律学・医学・自然科学および技術も、神的な権威も、また同格の人間的な権威も、競争者たる地位を占めえなかった、この官公吏の内在的態度が制限されたのは、ただ、氏族のなか、および鬼神信仰のなかの伝統の力への顧慮によってだけであった。(255)

 少し難解な文章ですが、これはマックス・ウェーバーが『儒教と道教』という論文で書いているものです。中国の儒教世界の官僚の教養には、近代的な専門が存在しなかったとウェーバーは指摘します。そして、書や文体論、古典的経書という行政学的、財政学的な現実支配の教養ではなく、結局は「少しでも訓令通りの定見があるかどうかの試験」であったことを強調しています。この見解に注目すべきです。ウェーバーは中国社会を家産制的支配の社会とみています。それは、どういう支配かというと、皇帝の「家」の財産で養っていただく、その皇帝の家産への所属こそが彼らのすべてであるとする経済的依存関係の社会なのです。固定的な秩序の中で伝統を保守し、家の秩序をひたすら守ることが第一原理であり、そのための恭順の証こそが教養試験の意味だったというのです。受験もそう考えたらいいのです。教養そのものに現実的な意味は存在しない。その「訓令通りの定見があるかどうかの試験」でしかないのです。そして、東京大学「家」の一員になること、慶応大学「家」の一員になること、それが生活を支える道になるという経済構造が厳然と存在するということなのです。

高度経済成長モデル

  実はこのモデルは高度経済成長モデルには適合的だったのです。企業という「家」に所属すること、そのまえの大学という「家」に所属すること、それが、それだけが教養の意味だったのです。公的な学校の教養の意味なのです。恭順の意を読みとるには、皮肉なことにその教養が現実的な意味がない方が適しているのです。企業モデルを反復する主体、それをひたすら恭順の心で執行できる主体、これが儒教モラルと重なっていたのです。
 学校が儒教社会であるという典型が学校の先生の愛する生徒像に現れています。学校の先生は出来る生徒が好きですが、ガリガリは嫌いです。上を立てることを知っている生徒、そのうえでガリガリであること、適度なガリガリ、それはまるで朱子学でいう「理」や「気」を体現し、「存心持敬」や「格物知致」といった儒教の精神を体現する姿勢だといえるのです。あくまで恭順を基本道徳とする、ある平静さをもった受験態度を良しとするのです。くりかえしますが、これが規格大量生産方式の社会では適合的だったのでした。しかし、消費社会に入り一気にこれが破綻していったのです。
 そして、現在、高度成長モデルに代わる消費社会にマッチした教養の姿が現れていません。昔の名前で出るよりないのです。せめて、法学部では「政治経済」や「現代社会」が受験科目であるぐらいのところへと、あくまで意味の地平へと教養が接続されていく形式を獲得しなければ、おそらく今後ともこのような読替が反復されることになるに違いありません。

今後予想されるもう一つの道

  最初に私は読替の反復という絵を示しました。もう一つの展開はおそらく教育現場に激震となるだろうと思います。現在、高校卒業程度認定試験が規制で受けられなくなっています。これに受かれば、授業を受けなくても単位認定する。そうすれば受験に不必要な科目の履修時間は大幅に減ります。読替も必要ありません。あるいは通信制での単位認定もOKにしてしまうのです。そうすればほとんど5分の1程度の労力で単位認定できます。そして、この規制緩和に断固反対しているのは県教育委員会です。
 なぜか?
 これをやったとき、教養科目の教科としての無意味が露出するだけでなく、かんたんに教員のリストラが可能になるからです。現在、県は特別活動というHRやほとんど手抜きしている行事とかを盾にとって、それらは公立学校、すくなくとも学校法人格をもっていなければできないとして、卒業に必要な単位認定権を独占しているのです。ここが最後の砦なのです。ここを崩したとき学校のアンシャンレジームの根幹が崩壊します。

木村が進学校でなしたいこと

 木村は進学校で、教養科目のプロになりたいと考えています。木村の「倫理」だけは受けたい、その限りにおいては受験科目じゃあないが受けたい、あの角度は聞いてみたい、と。
 そういう意味で進学校に売り込みをしたいと、そして勝算あり(笑)と、少なくとも、やってみなければわからない、と考えています。私は、しかし、そんなことはいわゆる進学校でなければとてもじゃないができないと考えています。進学校だから出来るのです。非進学校では私の能力では無理です。そして、(ここからはうぬぼれ100%とかんがえてください)静岡県で木村以外で「倫理」で進学校の生徒に自発的に選択させることは不可能だ(笑)と考えています。それくらいに熟練がいります。勉強しなければいけません。

教養科目が復活する日

「君はいい映画を見て感動しないか?」
「いいドキュメンタリーをみて感動しないか?」
「何でいい授業で感動するということがあり得ないのだ?」
 この問いに挑んでいる教員などいません。それが共同幻想として、教科の無意味を露出させます。背景にはもちろん先程来私が書いてきた東京幻想と呼ぶ高度成長モデルがいまだに学校には残存しているという問題が伏在するのです。
 ちなみに、私は超進学校で文系希望の生徒を中心に選択してもらうのならば7クラス中2クラスくらいの自発的選択を勝ち取る自信と闘争の意志があります(笑)。私たちは、教員FAなどというおとぼけを制度としてみています。何とFAは本県では希望先の教員が転勤の意志を示さなければできないというのです。しかし、もしまじめにFA制度が実施され、木村ではなくても教養科目で進学校の生徒に聞いてもらうという、あるいは聞いてもらえれば生き残れるというシステムが循環したとき、一つの問題が解決します。そして、ここからしか本当の意味での教養が学校に到来することはないだろうと思っています。それは本当に恐ろしいことです。
 この問題はたんに指導要領通りにやればいいという問題ではありません。今朝の番組でデーブスペクターがいってましたが、下手な世界史の授業をうけるのだったら「世界不思議発見」でも見せた方が100倍マシなんです。そういう意味でも今回のカリキュラムは消費者のニーズとあっていたのです。
 

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