いじめる側の人権侵害
通常、いじめる側が行っている行為はかなりの確率で人権侵害をしています。ためしに、いくつかいじめる側が行っていることを挙げてみるといいと思います。確かに「しかと」や「無視」は不健全な行為ですが、厳密に見れば人権侵害とはいえないかもしれません。しかし、そこから一歩すすめれば、「人前で悪口を言ったり、恥をかかせ」られたり「殴る・蹴る」や「パシリ」等々、ほとんどが人権侵害はおろか、犯罪を構成しかねない行為で満ちているのです。
いじめられる側の人権侵害
では反対に、いじめられる側はどうでしょうか。確かに、彼らは同調圧力に鈍感で、上下関係の感覚が落ちていたり、「なまいき」だったり「むかつく」ことをするのかもしれません。しかし、彼らが一般的にいじめる側に人権侵害をしているのでしょうか?犯罪行為をしているのでしょうか?生徒にこれを問うと、いずれもいじめられる側は侵害していないと答えるのです。
私は、少し極論的にこう結論づけます。人権侵害という観点から見るならば、
「いじめる側:いじめられる側=100:0でいじめる側が悪い」
のだ、と。
いじめの現場の逆転
しかし、なぜかいじめる側:いじめられる側=100:0でいじめる側が人権侵害しているのにいじめの現場では、いじめる側:いじめられる側=100:0でいじめる側が正しくなるのです。
「てめえむかつくんだよ」
といわれ、ののしられ、挙句に身体的な虐待を受けても、悪いのは、いじめられるほうなのです。それがいじめの「現場感覚」というものです。学校の先生のお得意のせりふに、「いじめる側も悪いがいじめられる側も悪い」というものがありますが、せいぜいこの程度で歩留まりなのです。
今書いたように、いじめは人権という角度から見れば100:0でいじめる側が不正なのだ、というのが公民科の教科書的見解です。しかし、いじめの現場では、なぜか人権侵害をしているいじめる側が正しく、いじめられる側が損害を被り、結局逆転し、100:0で自分が悪いことになるのです。
なぜ、この逆転が発生するのかを解かなければいけません。なぜ、100:0で悪い方が、堂々とし、正しいほうが小さくなり、人権の侵害を弾劾することもなく、泣き寝入ることになるのでしょうか?せいぜいどちらも悪いなどというところに落とし込まれることになるのでしょうか?このからくりを解かなければいけません。なぜなら、このからくりが解けなければいじめる側の人権侵害が問われないからです。私たちの通常の感覚はここをあまりに自明視してはいないでしょうか。