![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/3a/b5bc0daa3ca95df866276640e6a1431c.jpg)
平成の悩める龍馬像
![](https://sankei.jp.msn.com/photos/culture/academic/071129/acd0711290832005-l2.jpg)
![竜馬がゆく〈1〉 (文春文庫)](https://ecx.images-amazon.com/images/I/41HMEAKYQXL._SL160_.jpg)
初回の『龍馬伝』を見た方のなかには、その暗さに暗然とした方もいるかもしれませんね。私は、司馬遼太郎(上、写真)の『竜馬がゆく』で龍馬をある意味で、明確にしりました。
実は、司馬遼太郎の竜馬が書かれたのは、1962年から1966年、つまり、昭和で換算すると、昭和37年から昭和42年までです。
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/9/9d/Shinkansen-0_300_700.JPG)
昭和39年に新幹線が開通し、東京オリンピックが開催されています。世界を相手に、日本社会がまさに高度成長を遂げていくという真っただ中、司馬遼太郎は『竜馬がゆく』を書いているのです。
古い因習を捨て、世界のなかの日本として脱皮してゆく、そうした時代と江戸時代の古い体質から明治維新へと向かう竜馬を重複させて書いていたという表現が当たっているかどうかは知れませんが、まちがいなくそうした楽観的な、右肩上がりの時代を反映して、司馬竜馬は、大変明るいのです。
竜馬が一歩進むと日本も一歩進む、
「薩長連合、大政奉還、あれァ、全部竜馬一人がやったことさ」
といったという勝海舟(下、写真)の言葉も、きわめて明るい未来の展望をもった青年竜馬像を表現しているように見えたのです。
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d1/Kaishu_Katsu_2.jpg)
しかし、平成龍馬はことなります。
この平成22年の『龍馬伝』はきわめて暗澹たる、お先真っ暗な状況を示すことからはじまるのです。どこにも龍馬の先行きに明るい未来は感じられないのです。展望もない。そうした青年龍馬を『龍馬伝』は描くのです。
その暗さを、徹底的に知らしめるのが土佐藩の
身分制
です。 若い有能な武士でも、それが、下士だ、というだけで、もう未来はありません。厳然とした差別的身分制度が存在し、その壁はまったく微動だにしないのです。いえ、正確には、自分たちが何をしようとこの身分制という制度は微動だにしないのではないか、という失望を、平成の『龍馬伝』は、私たちに伝えてくるのです。下士は上士に大変な不満をもっています。しかし、それは、到底土佐藩では口にできません。
このエントリイでは、この二つの龍馬像の背景の違いを比較してみたいと思うのです。いえ、正確に言うと、幕末という時代背景を、司馬遼太郎の書いた1962年という時代と、この平成22年という時代背景の違いとして、描いてみたいと思います。
黒船襲来
![](https://images.keizai.biz/hamakei/headline/1241513322_photo.jpg)
象徴的な事件が「黒船」ですね。
昭和竜馬が書かれたのは、じつは、こういう背景があります。
司馬遼太郎は、1945年に敗戦を体験しています。つまり、司馬遼太郎は、焼け野原の日本を体験していたのです。そして、その後、国際競争という「黒船」の襲来を受け、その国際社会へ追いつけ、追い越せと生きて行く日本社会を体験してきていたのです。
当時の日本社会にも、古い戦前――幕末でいえば、明治以降の近代化を未だ達することのできない徳川幕府の古い後進性、前近代性――が残っていたのです。そうした、古い体質から脱し、欧米に追いついていく、こうしたモノづくり日本の右肩上がりの成長を前提とした時代背景を抱いて司馬竜馬は書かれていったのです。したがって、司馬竜馬は、それほどの絶望感を身分制に与えて描かれていません。はっきりいって、身分制を問題にする視点は希薄なのです。
ところが、平成22年の『龍馬伝』の龍馬は全く異なった「黒船」を見ているのです。
平成の「黒船」は、
「グローバリゼーション」
です。まさに、グローバリゼーションという黒船が私たちを襲ってきたのです。皮肉ですよね。
いいですか、グローバリゼーションって何だと思います?
「メイドインチャイナ」
なんです。実は、アメリカではありません。あ、そうか、
「リーマンショック」
「サブプライムローン問題」
も入るから、アメリカも含まれますね。しかし、圧倒的なのは、「メイドインチャイナ」です。
そして、国内には、
正規雇用と非正規雇用、大企業と中小企業、公務員と民間、
といったさまざまな固定した制度、それも、適正な競争のない身分制とも呼ぶべき固定化された制度がある。
みてください。
これだけ二世化した国は、ないのではないでしょうか。北朝鮮顔負けです。「二世ではない総理」ということで、菅直人が総理になりましたが、実は、彼のお子さんは政治家になっています。
高度成長時代に作られたモノづくりを中心とした政治経済制度は、変更を余儀なくされています。しかし、固定化された政治経済制度は、もはや変更不能のように私たちに映るのです。どんどん、貧しくなっていく予感はする。しかし、お侍の公務員は、年貢をもらうことだけしか考えていない。そのお役人のお侍さんは、特権身分となって固定化を深めている。大企業、公務員の年功序列制度は厳然として壊れる気配もない。つまり、いったん就職氷河期で、正規雇用につけなかったらその時点で
「下士」
になってしまう。いったん、下士になったら、もはや身分としての逆転はない、という絶望状況がある。
しかし、黒船来航以来、どんどん、日本社会は、沈んでいくのではないか、仕事はない。明るい展望もない。
これが、平成の龍馬の背景なのです。
おもしろいでしょ?ひとりの人間を描くのに、まったく異なった像がこうして出現するのです。
いやいや、失礼!おもしろがっている場合ではありません。さて、では、わが龍馬はどうこれに対したか、それは次回のエントリイで述べたいと思います。
・龍馬伝 1 坂本龍馬像
・龍馬伝 2 身分制度という絶望
・龍馬伝 3 身分の起源としての征服
・龍馬伝 5 尊王攘夷
・龍馬伝 6 脱藩という場所
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初回の『龍馬伝』を見た方のなかには、その暗さに暗然とした方もいるかもしれませんね。私は、司馬遼太郎(上、写真)の『竜馬がゆく』で龍馬をある意味で、明確にしりました。
実は、司馬遼太郎の竜馬が書かれたのは、1962年から1966年、つまり、昭和で換算すると、昭和37年から昭和42年までです。
昭和39年に新幹線が開通し、東京オリンピックが開催されています。世界を相手に、日本社会がまさに高度成長を遂げていくという真っただ中、司馬遼太郎は『竜馬がゆく』を書いているのです。
古い因習を捨て、世界のなかの日本として脱皮してゆく、そうした時代と江戸時代の古い体質から明治維新へと向かう竜馬を重複させて書いていたという表現が当たっているかどうかは知れませんが、まちがいなくそうした楽観的な、右肩上がりの時代を反映して、司馬竜馬は、大変明るいのです。
竜馬が一歩進むと日本も一歩進む、
「薩長連合、大政奉還、あれァ、全部竜馬一人がやったことさ」
といったという勝海舟(下、写真)の言葉も、きわめて明るい未来の展望をもった青年竜馬像を表現しているように見えたのです。
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d1/Kaishu_Katsu_2.jpg)
しかし、平成龍馬はことなります。
この平成22年の『龍馬伝』はきわめて暗澹たる、お先真っ暗な状況を示すことからはじまるのです。どこにも龍馬の先行きに明るい未来は感じられないのです。展望もない。そうした青年龍馬を『龍馬伝』は描くのです。
その暗さを、徹底的に知らしめるのが土佐藩の
身分制
です。 若い有能な武士でも、それが、下士だ、というだけで、もう未来はありません。厳然とした差別的身分制度が存在し、その壁はまったく微動だにしないのです。いえ、正確には、自分たちが何をしようとこの身分制という制度は微動だにしないのではないか、という失望を、平成の『龍馬伝』は、私たちに伝えてくるのです。下士は上士に大変な不満をもっています。しかし、それは、到底土佐藩では口にできません。
このエントリイでは、この二つの龍馬像の背景の違いを比較してみたいと思うのです。いえ、正確に言うと、幕末という時代背景を、司馬遼太郎の書いた1962年という時代と、この平成22年という時代背景の違いとして、描いてみたいと思います。
黒船襲来
![](https://images.keizai.biz/hamakei/headline/1241513322_photo.jpg)
象徴的な事件が「黒船」ですね。
昭和竜馬が書かれたのは、じつは、こういう背景があります。
司馬遼太郎は、1945年に敗戦を体験しています。つまり、司馬遼太郎は、焼け野原の日本を体験していたのです。そして、その後、国際競争という「黒船」の襲来を受け、その国際社会へ追いつけ、追い越せと生きて行く日本社会を体験してきていたのです。
当時の日本社会にも、古い戦前――幕末でいえば、明治以降の近代化を未だ達することのできない徳川幕府の古い後進性、前近代性――が残っていたのです。そうした、古い体質から脱し、欧米に追いついていく、こうしたモノづくり日本の右肩上がりの成長を前提とした時代背景を抱いて司馬竜馬は書かれていったのです。したがって、司馬竜馬は、それほどの絶望感を身分制に与えて描かれていません。はっきりいって、身分制を問題にする視点は希薄なのです。
ところが、平成22年の『龍馬伝』の龍馬は全く異なった「黒船」を見ているのです。
平成の「黒船」は、
「グローバリゼーション」
です。まさに、グローバリゼーションという黒船が私たちを襲ってきたのです。皮肉ですよね。
いいですか、グローバリゼーションって何だと思います?
「メイドインチャイナ」
なんです。実は、アメリカではありません。あ、そうか、
「リーマンショック」
「サブプライムローン問題」
も入るから、アメリカも含まれますね。しかし、圧倒的なのは、「メイドインチャイナ」です。
そして、国内には、
正規雇用と非正規雇用、大企業と中小企業、公務員と民間、
といったさまざまな固定した制度、それも、適正な競争のない身分制とも呼ぶべき固定化された制度がある。
みてください。
これだけ二世化した国は、ないのではないでしょうか。北朝鮮顔負けです。「二世ではない総理」ということで、菅直人が総理になりましたが、実は、彼のお子さんは政治家になっています。
高度成長時代に作られたモノづくりを中心とした政治経済制度は、変更を余儀なくされています。しかし、固定化された政治経済制度は、もはや変更不能のように私たちに映るのです。どんどん、貧しくなっていく予感はする。しかし、お侍の公務員は、年貢をもらうことだけしか考えていない。そのお役人のお侍さんは、特権身分となって固定化を深めている。大企業、公務員の年功序列制度は厳然として壊れる気配もない。つまり、いったん就職氷河期で、正規雇用につけなかったらその時点で
「下士」
になってしまう。いったん、下士になったら、もはや身分としての逆転はない、という絶望状況がある。
しかし、黒船来航以来、どんどん、日本社会は、沈んでいくのではないか、仕事はない。明るい展望もない。
これが、平成の龍馬の背景なのです。
おもしろいでしょ?ひとりの人間を描くのに、まったく異なった像がこうして出現するのです。
いやいや、失礼!おもしろがっている場合ではありません。さて、では、わが龍馬はどうこれに対したか、それは次回のエントリイで述べたいと思います。
・龍馬伝 1 坂本龍馬像
・龍馬伝 2 身分制度という絶望
・龍馬伝 3 身分の起源としての征服
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