高校公民Blog

高校の公民科(現代社会・政治経済・倫理)教育に関連したBlogです

なぜ、「授業態度」が評価の観点から消えないのか? 3 補足

2007-01-06 15:30:37 | Voice

■これは、前2回の、連載の続き、補足版です。私は学力低下とか、学習意欲の減退が巷間叫ばれるけれど、それは、何のどういう話だ、と思っています。■他教科にかんするコメントは責任が持てませんが、こと地歴や公民といった範疇を考えて、ふつうにテレビを見ていればそうとうな情報が流れており、いわゆる大人の平均値の情報は流されています。■ほとんど一生ふれないような知識を「基礎」などとぬかす地歴公民オタクの言説とは裏腹に生徒はきわめて多様な思考をしています。要はそういうレベルに学校が適応できていないのです。この掲載した文章をご覧になられて、どうみなさんはお感じなるか、私はそこにきわめて深い、社会哲学的洞察を見るのです。ちなみに、この文章を書いた受講生はホッブズを知らない。


なぜ、法の支配にならないのか?

 私たち成績をつけられる側が、評価基準の公表を要求しないからであるが、なぜそうならないかと言えば、私が思うに、授業態度点が低い人間は、総じて(例外もいるが)勉強ができず授業態度点によるマイナスがない状態でも、大した成績はついておらず授業態度点による減点ないし加点に執着することはほぼ皆無であり、成績を気にする人間の大概は、教師と要領よくつき合う方法ぐらい習得しているから、こちらもおのずと成績に見合う高い授業態度点が付けられるからだと思う(成績を気にする人間はある種、理にかなっており、文句を言う人間もいないのだと思う)。

どうすれば、授業態度点はなくなるか?

  私は無くす必要はないと思う。普通にやっていれば、(よほどのことがないかぎりは)授業態度点により致命的な減点を与えられるものではないし、明らかにやる気なくふざけた人間が教師に
「私の授業態度点何点ですかぁ?」と言って優越感に浸っている場面をみたら、ぶん殴りたくなると思う。評価点をつけられるからうんぬんではなく、人としてある程度のことは守るべきであるし、守れない人間による罰を与えるという意味で残して欲しい。

【参考】
なぜ、「授業態度点」が成績から消えないのか?
なぜ、「授業態度点」が成績から消えないのか? 2
学校嫌いの脱構築――ホッブズとルソー


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体罰禁止の代替案としての態度点 (ザ・中学教師)
2007-01-15 00:58:14
私の新卒当時(30年ほど前)は、態度点なる言葉すら聞いたことがなかった。態度の悪い奴は、どつきまわしていた時代だったからだ。いい悪いの問題ではない。
そういう時代だった。体と体がぶつかり合うことで分かり合えるといった信仰がたしかにあったし、先輩教員達の毅然とした愛の鞭は、カッコイイと思った時代があった。その時代でも提出点なるものはあった。期限に間に合わなかったら減点か0点。
現在もこれが主流だ。親がうるさいからだ。
説明責任のある当事者としては、作品やプリントやワ-クにノ-ト類を提出させる。
点数化して学力テストに加算して評価を出すやり方だ。
このほうが、親や生徒に納得してもらいやすいし、親も知らない子どもの側面を理解していただくためには「出した」「出さなかったか」の方がわかりやすい。
しかし、必要悪としての態度点は、私のみたところ隠蔽され公表されずに現在ルサンチマンとして生き残っている。
生徒諸君には驚愕に値することだが、木村先生がそこのところ
うまく説明している。

同僚に評価の時点でそれとなく聞いてみた。
「腹立つ子がいてるやろ」
そんな子は
「評価で仕返ししたいと思う?」
すると正直な先生で、明確にかつすばやく回答がかえってきた。
「ア.タ.リ.マ.エ.ジャン」
これは偽善ととってもらっても結構だが、正直驚いた。
別に態度点として銘打たなくても教師は評価のプロだ。
そこは、ルサンチマンをうまく隠蔽しながら権力としての立場を
濫用して、コッソリ日頃の恨みを「報復」という形で評価に現出させる。実に巧妙である。
しかし、私の主張は、悪いとは言い切れない部分がある。
明らかにカンニングの疑いがある場合、額面通りに受け止める方がおかしい。
「あのやろう、現任されずにいい気になっているけど、全部おみ
とうしでぇい!漫画ばっかみてるおまえがこんないい点とれるわけなかろうが....」ってな具合。
ぶっちゃけ主観だ。しかし、とぎすまされた主観は本質をとらえる。

そこで、自分自身を分析してみた。
ボ-ダ-での選別は、あるテストの成績によって判別してきた。気が合うこと合わない子は確かにいてる。「態度点」があるぞって脅しには使う。
だからといって、実際評価で、気が合う、合わないの基準では、説明を求められたときこちらが不利になるのは誰にもわかることだ。保身といえば、保身だ。そう言う意味もあって。合理的に考えて、極力避けてきた。
しかし、、本当に生徒を反省させ、更正させるためには、ルサンチマンにもとづく主観を全面的に否定できないのが現在の心境だ。
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ルサンチマンを超えて (Kimura Masaji)
2007-01-21 15:36:52
ザ・中学教師様
■コメントありがとうございます。まあ、何だかんだいってルサンチマンって、恨みなんですね。大体、教育力がねえやつが、自分の鏡割りをするために体罰だの、授業態度点だのっていうヒスをおこすわけです。僕はそう見ています。女々しくってみてられないですね(笑)。■ニーチェは、自己原因を最後の到達点として描こうとしていたフシがあります。自らの手で、自らのために、自らの意志で、たえず超えていく、そうした生の形をあるべき生として、ニーチェは、示そうとしています。■最低自動車学校になれ、というのが私のいいたいことです。ザ・中学教師さんがおっしゃるように、ルサンチマン的な授業態度点は現在のシステムを前提にしたら不可避的に存在します。しかし、選択制が厳正に入り、市場が規制緩和されたとき、学校の基本的スタンスは変わらざるを得ないでしょう。少子化は、それを促進します。だれがカネをはらっているのか?その意味を考えなければならなくなります。 ■政治家が二言目にはいうじゃないですか、「増税して、税金を払っていただくまえに、まず、無駄をはぶく」って。そのときに、カネを払ってもらうという、カネをもらうという現実があぶり出てきます。頭を下げざるを得ないのです。■私の所の進路課長の話ではもう、大学の4割が定員割れです。そういう時代に入っているのです。地方は税収がありません。とれえことといっている場合ではないんです。


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ゼニの支配 (ザ・中学教師)
2007-01-21 18:28:17
ご多忙中コメントありがとうございます。
体罰や態度点については、「私の教育観」に基づいて否定も肯定もしないのが私の立場です。■じゃ、お前の「教育観」ってなんやねん!と聞かれたら、■「教師としてのプライド」としか言いようがありません。しかし、「そんなへの突っ張りにもならないプライドをぶらさげているお前は、とれえやつ」と一蹴されそうですね。(笑)■頭の悪いお侍は、ゼニの論理で納得させるしかないということでしょうか。■でもね、プライドってすごく大事だと思うんですよ。■たとえばね、指導力不足教員に共通にみられる点は、「現場での自信喪失」なんですね。■「教師としてのプライド」がなくなれば、自信もなくなっていくのではないでしょうか?■木村先生御自身も己のプライドにしたがって、一生懸命教材研究に打ち込まれていると思うのです。「ゼニが欲しいから」というよりも「生徒の期待に応えたいから」ではないのでしょうか。それは、あなたの「プライド」だとおもうわけです。■ヘタな授業して生徒がついてこなくなることを恐れること。それがイヤなのではありませんか。まさに、それが「プライド」というものです。■それでですね、その「プライド」を傷つけられたとして、例えば目の前であなたが配ったプリントを破られたり、鼻紙にされたとしますよね。■私だったらその生徒を恨みますよ。朝方までかかって、つくりあげた努力を傾注した内容だとしますと、胸ぐらをつかむかもしれません。あるいは、お前には絶対にプリントはワタサン!って大声で怒鳴るかもしれません。
■それでね、私の言いたいことは、その生徒が目が覚めたようになってあとで謝りに来るかもしれないじゃないですか。■だからね、そこが教育のいいとこじゃないかとおもいませんか?■私はね胸ぐらをつかんことが体罰といわれて、処分され、ゼニが入ってこなくなったって、納得しますよ。■なぜって、それが「私の教育観=プライド」だからですよ。
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本題に入ります。 (ザ・中学教師)
2007-01-23 00:23:14
前文について
「なぜ、法の支配にならないのか?」については、「評価基準の公表を要求しないから」としながらも本人にとっては、そうする必要性がない合理的見解をのべているにすぎない。
残念な点は、「態度点」なるものが、「人の支配」であることの、
不合理さを、傍観者的な立場からさらにつっこんで、被害者は自分達であるといった当事者的立場で批判を展開してもらいたかった。
でもね、教師とけんかしても得にならないという打算も当然ありますよね。だって、教師は権力者だからですよね。

後文について
「どうすれば、授業態度点はなくなるか?」について、正面から
なくす必要性のない見解をやや感情的であるが「ふざけた人間の存在」を事例にだしてのべているにすぎない。
残念な点と言えば、「ふざけた人間」だけが「態度点」をつけられるのではなく、あなたにもそれが及ぶことの不合理生の認識が足りない。つまり「態度点」が人の支配に及べば、あなたの存在が「ふざけた人間」として評価されるかもしれないという危機感が全くない。人の支配による「態度点」なるものと、ル-ルは守らなければならないという社会規範とは、全く別物という区別がない。
そうじて、教師(権力者)を持ち上げていれば自分は安泰であるという姿勢が見え隠れするのは私だけだろうか?

前文と後文に共通して言えていることは、「態度点」にたいする教師への表面上の信頼性と「人の支配」に移ったときの無知。
そして、まっこう教師批判を展開することの打算的消極性。

そして、教師にとって一見模範的な文章を書く子を学校という
大きな権力のなかで、飼い慣らしている実態がみえる。

こんなんでよろしいですか。木村先生。

それから木村先生に苦情
いったん出したコメントをいつのまにか取り下げないでくださいね。こっちは、ちっぽけな頭で、労働の外部性を考えさせてもらっていたんですからね。(笑)




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Re:本題に入ります (Kimura Masaji)
2007-01-28 18:58:30
ザ・中学教師様
■コメントありがとうございます。このエントリイの、引用した生徒の文章は、少しおっしゃる向きとは違う意味で掲載しました。まだ、本人に返信があったことを伝えておりませんので、本人に伝えたいと思いますが、本人とは違って私がこの文章をひいたいみを書きたいと思います。■おっしゃるような、
「残念な点は、「態度点」なるものが、「人の支配」であることの、
不合理さを、傍観者的な立場からさらにつっこんで、被害者は自分達であるといった当事者的立場で批判を展開してもらいたかった。」
ということは私たちがいうことはかんたんです。しかし、その後にお書きになられたように、問題は、
「教師とけんかしても得にならないという打算も当然ありますよね。だって、教師は権力者だからですよね」
というところにある、ということです。■この文章は、学校にある格差を浮き彫りにしたという意味で、私たちがじっくり検討しなければならない文章だと私は考えました。■彼女のように、授業態度点を、マイナスと受けとめない層においては、ことさらに、授業態度点を荒立てる必要はないわけです。そして、マイナスの生徒たちも、荒立てても仕方がないという諦念があるという意味で、事を荒立てる必要はないのではないか、と彼女は見ているわけです。これは、ルソーなどがいう不平等とは異なります。むしろ、階層化とでも呼んでよいものが存在するという指摘です。■その意味において、後半の生徒の記述にも、それなりの努力をして、特権を得た人間と、それをもたない層との断絶と、後者の深い諦念が浮き彫りになっていると私は読んだのです。■授業態度点が問題にならないのは、そこにはっきりとした格差が存在するからなのではないか?そして、学校はその格差の固定化と拡大生産をするにすぎない場所ではないのかという問題提起としてこの文章は読みたいと思います。■「労働の外部性」については、少し不正確な記述があったので、取り下げました。もう一度掲載し直したいと思います。申し訳ありませんでした。
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学校は舞台だ。 (ザ・中学教師)
2007-01-29 22:16:06

>学校はその格差の固定化と拡大生産をするにすぎない場所

なんやかんやいったって、
学校というところは、所詮、大人は教師を演じ、子どもは生徒を演じる場所にすぎないからじゃないのですか?
演じきれない大根役者も双方にいますよ。どんなに制度をいじってもね。
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