今回の国際交流協会写真展に寄せられたアネットさんによる挨拶文です(山内 圭翻訳)
「占領下の日本(1946年4月~1947年5月)」
私は、ワシントンD.C.で仕事をしていましたが、冒険的野心から職を捨てて、米軍占領下の日本に行きました。東京での8週間のオリエンテーションを終え、名古屋の第5空軍に配属されました。その名古屋で、私は生涯にわたる趣味となった写真撮影を始めました。
最初の数カ月間は、いろいろなカメラを借りて写真を撮っていました。このようにして撮影された写真のネガはサイズがまちまちでした。後日、ついにハーフフレームの35ミリのネガに撮影できるマーキュリー社製の自分のカメラを購入することができました。
毎週末、友人たちと、名古屋周辺の田舎に出かけて行きました。当初、田畑で働いていた人たちは、ジープに乗ってやってくるアメリカ人たちを恐れていました。しかし、時間がたつに連れて、だんだんと緊張しないようになるのがわかりました。(田畑で働いている人たちの写真には、私たちの存在を認めるのを怖がっていた人たちも写っています。) 町に住んでいる人たちからは、写真を撮っていると反応があることが多かったです。純粋な好奇心から反応する人もいれば、親しくなろうとしてくる人もいました。
日本滞在後、ニューヨークシティでの4年の仕事を経て、夫と二人の娘とともに私の生まれ育った故郷の家に帰ってきました。そこで、永年、旅館を経営しました。
引退後、私は日本で撮影した写真のネガを見つけ、経年によって痛みすぎていないものを現像し始めました。それらの写真は、私たちが時の流れの中で再び見ることができない瞬間をとらえています。
現在、98歳となりましたが、私は日本で過ごした日々をはっきりと覚えています。また、当時の人々や場所に対して、大いに感謝の意を抱いています。今回、私の写真が、撮影された日本で展示されることを知り、誠に光栄に思っております。
Annette Chait Finestone
2015年5月
「占領下の日本(1946年4月~1947年5月)」
私は、ワシントンD.C.で仕事をしていましたが、冒険的野心から職を捨てて、米軍占領下の日本に行きました。東京での8週間のオリエンテーションを終え、名古屋の第5空軍に配属されました。その名古屋で、私は生涯にわたる趣味となった写真撮影を始めました。
最初の数カ月間は、いろいろなカメラを借りて写真を撮っていました。このようにして撮影された写真のネガはサイズがまちまちでした。後日、ついにハーフフレームの35ミリのネガに撮影できるマーキュリー社製の自分のカメラを購入することができました。
毎週末、友人たちと、名古屋周辺の田舎に出かけて行きました。当初、田畑で働いていた人たちは、ジープに乗ってやってくるアメリカ人たちを恐れていました。しかし、時間がたつに連れて、だんだんと緊張しないようになるのがわかりました。(田畑で働いている人たちの写真には、私たちの存在を認めるのを怖がっていた人たちも写っています。) 町に住んでいる人たちからは、写真を撮っていると反応があることが多かったです。純粋な好奇心から反応する人もいれば、親しくなろうとしてくる人もいました。
日本滞在後、ニューヨークシティでの4年の仕事を経て、夫と二人の娘とともに私の生まれ育った故郷の家に帰ってきました。そこで、永年、旅館を経営しました。
引退後、私は日本で撮影した写真のネガを見つけ、経年によって痛みすぎていないものを現像し始めました。それらの写真は、私たちが時の流れの中で再び見ることができない瞬間をとらえています。
現在、98歳となりましたが、私は日本で過ごした日々をはっきりと覚えています。また、当時の人々や場所に対して、大いに感謝の意を抱いています。今回、私の写真が、撮影された日本で展示されることを知り、誠に光栄に思っております。
Annette Chait Finestone
2015年5月