8月にエドワード・ゴーリーの本を知ってから、他の作品も気になって仕方がありませんでした。(横須賀美術館にて「エドワード・ゴーリーを巡る旅」展」 )
それで何冊か読み始めました。
彼の作品は、心にやすりがかかるような何かザラっとする感覚があったり、ちょっとした怖さがあったりすると思い込んでいましたが、案外そうでもないなと思えてきました。
特に今から紹介する「ずぶぬれの木曜日」などは、なんて言うか、読後感がさわやかです。
ある終日雨の木曜日。
ブルーノと言う犬は、飼い主がどこかに忘れてきてしまった傘を探しに街に出ます。
絵本でありながら、ちょっとした群像劇。
奥様達は雨の中で立ち話。
傘屋では、男がずっとイチャモンをつけてます。
子供はふらふら水遊びで溺れかけ、だけど・・・・・(ちょっとネタバレ回避)
一日の終わり、傘を見つけた犬は飼い主に褒められて、そしてそれぞれの木曜日も終わるのです。
成るようになって。
ある意味、ハッピーエンドだと思います。
―ゴーリーをいち早く評価した文芸評論家の大家エドマンド・ウィルソンはゴーリーにあてて「『ずぶぬれの木曜日』は君の最高傑作の一つだと思う。素晴らしい掘り出し物だ。」と書いています。―とあとがきにありました。
読後感を思うと頷けます。
もう一つの作品は、先に紹介したものとは違って、それこそまさに「心にやすりがかかるような何かザラっとする感覚があったり、ちょっとした怖さがあったりする」作品だと思います。
「シオーダみんなの鼻つまみ、ただいるだけで不快の極み」で始まる物語。
服も話し方も嫌われて、見ても聞いても、みんなが嫌悪で頭を抱えます。
世を嘆いて海に飛び込むシオーダ。
だけど彼女は死にませんでした。
海の底に潜む怪物が、彼女の話に聞き耳を立てます。
怪物は彼女の声にも見た目にも、何にも嫌悪の感情を抱きませんでした。価値観が違うのです。
嫌われない世界にたどり着いたシオーダはホッとして、今までの嘆きを語るのでした。
怪物はシオーダの話に驚愕。
そして地上では、シオーダが居なくなってホッとし幸せに暮らし始めた家族が居ました。
だけどその家族は一人また一人と不幸が迫って来て、みなお風呂場で順番に溺れて死に絶えてしまうのでした。
家族が死に絶えたことを知っているのかいないのか、それでもシオーダは自由な気持ちに解き放されて、髪をカールしパールで飾るのです。そして時には夜に沖に出没して、地元の人を震え上がらせたのでした。
なんか奥が深いお話だと思いませんか。
それにこの物語は、ちゃんと韻を踏んだ詩の形で成り立っているのです。私が書いた雑なあらすじでは申し訳ないと思います。
ルート君が言うには、美術館に展示された絵の中には、怪物にしっかりとお風呂場に引きずられていくお父さんの絵もあったそうです。
それは勘違いと考えることも出来るのですが、別の作品で美術館にあって本にはなかったと言うのが他にもあったので、一概に勘違いとは思えないのです。
原画はあっても、残酷さ回避ゆえに編集の時点で外したのかも知れませんね。