森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

その手の温もり2

2010-04-01 23:29:39 | 思いつくまま

その手に温もり」の続きです。

アレが別れと言うのなら、前回、彼女との出会いとその別れの物語を書きました.
だけど実はずっと気にかけていました。

自治会役員になって民生委員の方と話す機会がありましたが、独居老人や気になるお年寄りの方の情報があったら教えてくださいと言うので、彼女の名前を告げました。
すると民生委員の方は、既に知っていて
「あの方、少し認知が入ってきているのよね。」
と、私が敢えて避けていた言葉をアッサリと言ったのでした。

彼女は完全な独居老人ではなく、縁のある方が一緒に住んでいるのです。それから今までは一人で行っていた犬の散歩に、二人で歩いている姿も見かけたりもしました。すれ違えば軽く挨拶も交わしたりもしました。でもいつも彼女の表情には、誰だったかしらと言うものが浮かぶのです。

でも私は、その部分を深く考えるのは止めたいと思っていました。普通にしているのがいいのだと思うからです。

 

 そして、ようやく最初に言っていた場面に戻ってきました。
リフォーム相談会に気まぐれに出かけた私と夫はエントランスで彼女に会いました。それで私はいつものように普通に
「こんにちは。お元気そうね。」と言いました。
すると彼女は、私の手をとって、
「それがそうじゃないのよ。」と言いました。
「私、脳が壊れちゃったみたいなの。もうぜんぜん駄目なのよ~」

私はドキリとし、心がざわつきました。

でもその心のざわつきを、その時は敢えて言葉には還元しないようにしました。顔に出るからです。

「でもサ、今日はこうして興味あるものを見ようという気になれるのだから、大丈夫だよ。」と、私は何の役にも立たない気休めを言いました。

私たちはしばらくの間手をつないで歩き、その用に応じて「じゃあね。」と右と左に分かれました。

完全な余談ですが、その時見たモデルリフォームに魅かれ、3月の始めにキッチンリフォームをしたのです。

話を元に戻して、家に帰ってからも私の耳には彼女の
「脳が壊れちゃった。」と言う言葉が残ってしまっていました。 敢えて言葉にしなかった心のざわめきが言葉になって、私に語りかけてきました。

時には、若年性アルツハイマーのドラマなどに涙しませんか?
又は渡辺謙の「明日の記憶」をしみじみと見たり、緒形拳が演じた「白愁のとき」が忘れられなかったりと言う事はありませんか。

そう言う悲劇にふさわしくない年齢だと、その物語に泣けるのに、ありえる年齢になったら、仕方がないと思ってしまう、そんな自分にふと気が付きました。
ボケ老人とか認知症とかになってしまった人は、人生の川を泳いでそこにたどり着いた人のようなイメージがあったのではないかとも思いました。

でも失っていく記憶は、ある日目覚めたらすべて失っていたと言うわけではないのですから、若年性であろうが歳を取っていようが、感じる恐怖は同じなのだと、私はしみじみと気が付きました。

それに私はもう何年も、誰かと手をつないで歩いた事などありませんでした。手に彼女の小さくて柔らかい手の感触が蘇ってきました。

よく難病物のドラマなどを見るとき
「何故、それが私なの。」と、その悲劇が自分に起きてしまった事を嘆くセリフに出会うときがあります。
歳を取っても、誰もがアルツハイマーや認知症になるわけではありません。何かをしたからそうなったわけでもありません。

いつだって可愛い服を着ている彼女の家の鴨居には、高価そうなスーツやドレスが掛かっていました。子供たちは高学歴。三回ずつ同じ話を聞きながら、彼女が昔どんな仕事をしていたか、どんな生活をしていたか短い時間でちゃっかりインタビュー済みです。笑顔が素敵な彼女はかなりモテテ、そして良い仕事をしてきた人なのです。

なぜ、それは私なの。

ナゼ、ソレハワタシナノ。

このお話には、だからなんだと言う結論はありません。
ただ、あの時私の手をとり
「脳が壊れちゃった。」と言った彼女とほんの数分手をつないで歩いた事は、私の中では忘れられないシーンになりました。

「それが彼女と会った最後でした。」

なんて言ったら、嘘です。これは小説ではなく、毎日が繰り返される現実の世界のお話。

私はやっぱり彼女と、公園やエントランスですれ違います。

「おはよう、今日も寒いね。」
「本当ね。」と彼女はにっこり微笑みます。
でも、彼女には私が誰だか分からない・・・。

 

コメント (1)
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