{創三・一三}そこで、神である主は女に仰せられた。 「あなたは、いったいなんということをしたのか。」 女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
責任を負い通すことはえらい事だ。人間はなかなかこれができない。 アダムは神から何故に禁断の木の実を食べたかときかれて"あなたが私のそばに置かれたこの女が、 あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。"と云った。 エバは同じく責められて、"蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。"と答えた。 いずれにしても最後の責任を負うと云う事は出来にくい事である。 責任の最後の最後を負い終せた人はキリストであろう。 人類の中で、唯一人、己が犯さぬ罪の責任まで負い通して、その罰の最後の一滴まで飲み干した人として私たちはキリストを見る。 人の姿をしてこの世に生活したものの中に、こういう活きた例を持つ事は何という富であろう。 私たちが創造された人間として、滅亡の一路を辿る時、ここに初めて一つのふみ止まりの場所が出来たのだ。 ここに救いの道が開かれたのだ。 久布白落実著「日々の食物」より