味わい、見よ、主の恵み深さを。詩篇三四篇九節
主の恵みは味わい深いものであります。 これは良い、これは悪いと決められるものではありません。 つらい悲しいと思われる事柄の中にも、かならず恵みは隠されているのであります。
それはやがて思いがけない形で現れ、わたしたちの人生を底から変えるものになります。
小島誠志著 「夜も昼のように」より
味わい、見よ、主の恵み深さを。詩篇三四篇九節
主の恵みは味わい深いものであります。 これは良い、これは悪いと決められるものではありません。 つらい悲しいと思われる事柄の中にも、かならず恵みは隠されているのであります。
それはやがて思いがけない形で現れ、わたしたちの人生を底から変えるものになります。
小島誠志著 「夜も昼のように」より
インマヌエル 神われらと共にいます。マタイによる福音書一章二三節
「神」われらとともにいます。わたしたちが神のもとに登るのではありません。 神がわたしたちのところにくだられたのであります。 神の愛はわたしたちに向けて身をかがめるものであります。 愛は他者に向けて身をかがめるものであります。
小島誠志著 「夜も昼のように」より
あなたはわが内臓をつくり、 わが母の胎内でわたしを組み立てられました。詩篇一三九篇一三節(口語訳)
人間は自分の存在の起源を知りません。 自分の存在の意味を知りません。 神がそれを知っていて下さる。 だから、自分の命について自分で結論を出してはならないのです。 神の知っていて下さる意味を信じて生き抜かなければなりません。
小島誠志著 「夜も昼のように」より
初夏の緑 目には青葉 小鳥の鳴声 山ほととぎす 初夏の自然に 心は踊る。
赤い壁の うす暗い室に とじこめられて じっとしていると 誰でも発狂したり とび出したくなる。
海へ山へ 出かけて行け。 自然のふところに 緑の牧場に。
神のふところに とび込んで行け 初夏の緑の 豊かなるまに。
中山吾一著 「一日一詩 永遠の旅」より
泣くに時があり、笑うに時があり、 悲しむに時があり、踊るに時がある。伝道の書三章四節(口語訳)
生きていれば泣くしかない時があります。 しかし、また、笑う時もあります。 悲しみにとざされる日がありますが、踊りたくなる日もあります。 悲しみがどんなに深くても、それを絶対化してはならないというのです。 喜びがどんなに大きくても、それがすべてだと考えてはならないのです。 喜びも悲しみもともに生き抜いて、はじめて、より深い人生の(神の)真実を知ることになるのです。
小島誠志著 「夜も昼のように」より
御名を畏れ敬うことができるように一筋の心をわたしにお与え下さい。詩篇八六篇一一節
ひとすじの心とは神に向かう心です。 試練の時も悩みの日も神に向うのです。 誘惑にさらされた時も罪に落ちた日も逃げないで神に向かうのです。 厚い雲のはざまから、光はやがて射し始めます。 苦難のヨブは嘆きましたが、神に向かって嘆きました。 怒りましたが、神に向かって怒りました。 涙は神の前で流しました。気がつくと神の大きな手の中に、彼はいました。
小島誠志著 「夜も昼のように」より
ときが巡り来れば実を結び 詩篇一篇三節
季節がめぐって木々は実をみのらせるのであります。 暑さ寒さも、雨も風もくぐらなければなりません。 よく待ち通したものが人生の実をみのらせることができるのです。 結果を急いですべてを台なしにしてはなりません。 木々にみのりの季節があるように、神はだれでも、それぞれのみのりの時を備えてくださるのです。
小島誠志著 「夜も昼のように」より
目には見えない主イエスよ 新しい朝迎えるたび 深いみ愛を思わせたまえ
目には見えない主イエスよ いかなるときにも事あるごとに み旨いかにと訪ねさせたまえ
目には見えない主イエスよ 一人の時も私と共に おられることをおぼえさせたまえ
目には見えない主イエスよ あふれる涙胸の中まで 曇らす時もあおがせたまえ
目には見えない主イエスよ わき道にそれやすい私の 手を強く取り歩ませたまえ
きょうを生きる言葉一日一篇より
分別のある人はだれでも、自分が明日の朝生きていることを保証できません。 すべての人は、いかなる階級、いかなる宗教、いかなる人種の人であっても、みな死ななければならないことは確かです。
聖書はこう言っています。「まことに賢い人も死に、愚かな者も、獣のような者も、ひとしく滅んで、その富を他人に残すことは人の見るところである」(詩篇四九・一〇)。
イエス・キリストを信じることによって、私たちは主の復活にあずかり、死に対して勝利を得るのです。 聖書は、死が避けることのできないものであることをなんども警告していますが、同時に命を得ることのできる道があることも保証しています。
使徒パウロは、「それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。 キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました」(第二テモテ一・一〇)と述べています。 喜びを得るためには、必ずしも悲しみや、苦痛や、試みがなくなる必要はありません。 これらのことの中にあっても、イエス・キリストによる神の喜びはあるのです。 もし、私たの宗教が喜びの祝福を私たちに与える力がないなら、私たちがキリストに完全に服従するという点が、私たちの信仰の内容の点で、誤りがあるのです。
ポールB.スミス著 山口昇訳 日ごとの福音より
主を仰ぎ見る人は光と輝き 辱めに顔を伏せることはない。 詩篇三四篇六節
主を仰ぎ見るのは助けを求めて、であります。 彼が何をしたというわけではありません。 何もできないから、神を仰ぎつづけてきた、ただそれだけです。 不思議なことです。人はそんなふうにして輝くのです。
小島誠志著 「夜も昼のように」より
イエスは起き上がって、風を叱り、 湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。 すると、風はやみ、すっかり凪になった。(マコ4・39)
いつ止むか分からない嵐の中で、 波に翻弄され続ける小舟のような わたしたちの人生。 ですが、恐れる必要はありません。 すべては神さまの手の中にあるからです。
片柳弘史著 「始まりのことば 聖書と共に歩む日々366」より
私はよく次のように考えたことがありました。 「神の賜物は、棚の各段に下から上の方へ、より立派な物が順に積まれていて、 私たクリスチャンの人格と信仰が向上すれば、信仰の身の丈も伸びて上の方に届き、より立派なものを神からいただけるものである」 しかし、いま私にわかったことは、神の賜物は、下の段にあるものほど立派なもので、 信仰の身の丈を高くすることは問題でなく、むしろ身を低くし、謙遜になることが必要なのです。 つまり、神の最上の賜物は、身をかがめてこそ、いただけるのです。F・B・マイヤー
チャールズ・E・カウマン夫人著 「荒野の泉Ⅱ」より
{創三・一三}そこで、神である主は女に仰せられた。 「あなたは、いったいなんということをしたのか。」 女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
責任を負い通すことはえらい事だ。人間はなかなかこれができない。 アダムは神から何故に禁断の木の実を食べたかときかれて"あなたが私のそばに置かれたこの女が、 あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。"と云った。 エバは同じく責められて、"蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。"と答えた。 いずれにしても最後の責任を負うと云う事は出来にくい事である。 責任の最後の最後を負い終せた人はキリストであろう。 人類の中で、唯一人、己が犯さぬ罪の責任まで負い通して、その罰の最後の一滴まで飲み干した人として私たちはキリストを見る。 人の姿をしてこの世に生活したものの中に、こういう活きた例を持つ事は何という富であろう。 私たちが創造された人間として、滅亡の一路を辿る時、ここに初めて一つのふみ止まりの場所が出来たのだ。 ここに救いの道が開かれたのだ。 久布白落実著「日々の食物」より
自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。Ⅰペテロ五7 自分の思いわずらいをいっさい神に投げつけなさい。(ギリシャ語)
思い煩いを経験したことがない人がどこにいるでしようか? しかし、聖書ははっきりと思い煩いを禁じており、それに対する確実な治療法をも提示しています。 「主に信頼する者はさいわいである。彼は水路に根を伸ばした木のようだ。 暑さが来ても恐れず、その葉は青々としている。日照りの年にも不安を感じない」。スパーレル
不安を感じない!日照りの年にも――――霊的なやみの中でも――――不安を感じない。 霊的必要のためにも不安を感じない! 一時的な必要――――食べる物、着る物――――のためにも不安を感じない! くちびるのわざ――――何をどのように言うか――――にも不安を感じない。 それでは思い煩っていいものは、何か残っているでしょうか?何もありません。 主は続けて言われました。「どうしてほかのことを思い煩うのか」。 また、パウロは言ってます。「何事も思い煩ってはならない」。 「心配することは、何一つない」。 更にペテロは言います。「心配することは、やめなさい」。 このように思い煩いは、聖書の中では禁じられています。 それではどのようにして、それを防ぐのでしょうか? 思い煩い、心配事をすべて主に投げつけるのです。 なぜなら、主ご自身があなたのことを心にかけておられるからです。 不安を感じない人は幸いです! アファラ・ホワイト
谷間の泉 カウマン夫人著より
「主をほめたたえよる・・・・・みこころを行ない、主に仕える者たちよ。」(詩篇一〇三:二一) 「みこころを行なう(主のお喜びになることを行う〈英欽定訳〉)。」これは新しい月にとって、この上ないおことばです。
神のお喜びになることを行うことが、私たちにとって最も幸せなことなのです。
「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、 イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行い、 あなたがたがみこころを行うことができるために、 すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように」(ヘブル一三・二〇、二一)。
「 主のお喜びになることを行う」というおことばを今月のモットーにしましょう。
「私はきょうの一時一時、主を喜ばせるために、主のお喜びになることだけを行います。」
日毎の霊想 主の道を行かせてください エミー・カーマイル著より