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225214 政治記者が公の記者会見で本当に聞きたいことを聞けないわけ

2010年01月27日 | マスコミによる共認支配の怖さ
225214 政治記者が公の記者会見で本当に聞きたいことを聞けないわけ
  猛獣王S ( 30代 営業 ) 10/01/27 AM10


『■札幌から■ 「記者会見が勝負だよ」 2003年3月30日』(ニュースの現場で考えること)リンクより転載します。
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 ~前略~

昨年夏ごろだったでしょうか。

夜回り取材に出掛けた国会議員の宿舎で、私は異様な(少なくとも私は「異様」と映りました)光景を目にしました。

ロビーのソファにドッカリと腰を降ろした青木幹雄氏。それを「立ったまま」取り囲む若い政治記者の面々。青木氏が何か喋れる度、一堂はうなずき、質問するときは恐る恐るといった感じで「先生、お尋ねしても宜しいでしょうか」。その繰り返しでした。「懇談」が終わって、青木氏本人がエレベーターホールに向かう際は、全員が起立したまま、姿が消えるまで見送り、姿が消えれば、互いに「あの言葉の意味は?」「あれはこういう意味だったよね」と、いわゆるメモ合わせを行う…。そういった光景でした。その種の光景はそれこそ何度も目にしましたし、一時は何も思いませんでしたが、あの時はなぜか、「この光景をカメラに納めたら立派なニュース写真になる」と思ったものです。

もちろん、こういった「公のオフレコ懇談」だけでなく、各社の記者はそれぞれ裏で個別ルートを持ち、努力しているに違いありません。

しかし、あの光景のような「公のオフレコ懇談」を太宗として、「政治家取材」「政治原稿」ができているとしたら、たいていの読者は大きな違和感を覚えるのではないでしょうか?

政治家や有力者とのオフレコ懇談自体は否定しませんが、そういった「仲良しクラブ」的な日常を繰り返しているからこそ、公の記者会見で、聞きたいこと、聞くべきことを、きちんと聞けなくなっているのではないか、と私は危惧します。

「政治家が会見等で本音を言わない」「説明責任を放棄している」「聞いても答えをはぐらかす」というのは、恐らく質問する方にも問題があるのだと私は思います。最新の週刊朝日(だったかな?)でも、ある芸能人だか誰だかが、「首相官邸の記者はどうして小泉に『大量破壊兵器の除去がいつからフセイン打倒になったのか』としつこくしつこく聞かないのか?」といったことを記していました。

私自身もそう思います。そういった作業を行わずに、「苦悩する小泉政権」「日米で温度差」だなんて、そんなのんびりした原稿を書いている場合じゃないでしょう!と思うのですが。

 ~中略~

先の青木氏の懇談例のような姿、それが政治取材の全てとは思いません。しかし、今の過半の「政治家懇談」は、たぶん、ただの談合に過ぎないのではないでしょうか? 「あの番記者は気に喰わないから変えてくれ」。そんな申し出が政治家サイドからは、時々あるようです。それに結局は従ってしまっていないか。他社がインナーサークルから外れることに、内心喜んでいないか。自分がそのサークルの中で安住できていることに慣れ、それが目的になり、いつの間にか「問う」「書く」を忘れ、そのマインドすら消えかかっているのではないか、そういったことが、すべて私は気になります。

恐らく一番最初に必要なのは、公式の会見で、しつこくしつこく、質問を重ねることではないかと私は思います。たぶん、「玄人」の政治記者からはバカにされ、疎んじられ、政治家そのものからも「出入り禁止」くらいは申し渡されるかもしれません。

しかし、それは、たぶん、名誉なことなのです。

権力者に「出入り禁止」と言われるのは、それだけ相手にとって嫌な取材を繰り返している証拠ですから、大いに嬉しく思うべきなのです。菅直人が国会で小泉首相を怒らせ、「公約違反なんて大した問題じゃない」と言わせたように、メディアも花束など贈っていないで、あるいはごちそうになってばかりいないで、あるいは起立して相手の話に耳を傾けてばかりいないで、相手を怒らせてでも、本音を言わせ、それを電波や紙で伝えてほしいと思います。
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