213969 米国に破壊し尽くされてきた日本の農業①
猛獣王S ( 30代 営業 ) 09/08/30 PM07
『農業のない国にしてよいか 国民は飢餓、治山治水崩壊 米国に胃袋握らすな』(長周新聞)リンクより転載します。
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今回の衆議院選挙の重大な争点として農業問題がある。戦後64年におよぶアメリカ追随、工業優先の自民党農政の結果、日本農業は壊滅の危機にさしかかっている。農業は国のもとである。日本は瑞穂の国といわれてきたが、水田による水稲生産を中心とした農業が日本民族の風俗、習慣、文化、社会規範などの基礎となって歴史的に継承されてきた。日本を農業のない国にする自民党政治は、ただ農業者だけの問題ではなく、国民を飢餓や餓死に直面させ、農民が担ってきた治山治水の機能も喪失させる。また日本民族の文化や歴史も断絶させるものであり、アメリカに身も心も売り渡した売国政治の象徴である。
戦後64年の農政は、アメリカによる農地改革が出発点である。戦前の「地主制度からの農民の解放」という装いで、地主から安い値段で一町歩弱程度の面積の農地を買い取らせて自作農とした。このため、日本の農家の圧倒的多数は零細な農家である。アメリカがやった「農地改革」は、「地主から解放する」といってだまして、農民をアメリカと日本の独占資本の直接の収奪下に置くことに狙いがあった。
それを具体化したのが1961年に制定した「農業基本法」である。そこには、日本伝来の水稲を中心にし、裏作に麦をつくり、ミカンなどの果樹を植え、鶏や牛、豚などの家畜を飼う、という多角的・複合的な農業経営をやめて、「選択的規模拡大」と称して、ミカンや酪農・畜産など単作での規模拡大を奨励した。全国の農家に金を貸し付け、ミカンを奨励し、酪農・畜産の大規模化を奨励した。
他方で独占資本は農村を工業製品の市場とし、たい肥にかわって高い化学肥料や農薬を普及し、牛・馬にかえて、耕耘機や田植機、コンバイン、トラクターなど何百万、何千万円もする農業機械を売りつけた。肉牛の飼料も自前のものから米国産トウモロコシをはじめ輸入飼料に切り替わった。農家が生産する農産物は安く買いたたき、独占資本が生産する工業製品は高く売りつけ、農家をしぼれるだけしぼる仕組みのもとで、農家は朝早くから夜遅くまで身を粉にして働いても働いても、農業では生活できない社会となった。
そしてミカンの木も大きくなり出荷時期を迎え、借金を償還する時期を迎える10年後の72年にアメリカ産グレープフルーツの輸入自由化、90年にはオレンジの輸入自由化を強行し、ミカン価格は暴落した。酪農・畜産も同様に90年には米国産牛肉の輸入自由化で価格暴落の打撃を受ける。借金の返済に行き詰まって、全国でミカン農家や養豚・酪農農家の自殺や夜逃げが続出した。さらに借金のかたに農地を取りあげられ、離農する農家も多数出てきた。
それは、農業では生活できない農業者を高度経済成長を支える低賃金の労働力としてかり出す政策でもあった。農村地帯の中学校卒業者は「金の卵」とか「月の石」とか呼ばれ、集団就職でトヨタの工場をはじめ全国の独占企業の工場に送りこまれた。トヨタなど独占企業の驚異的な高度経済成長は、農村から流出した労働力が支えたものであり、工業優先の政治で農業を犠牲にして独占企業を肥え太らせてきたのである。
戦後自民党政府が鳴り物入りで奨励したミカンや酪農・畜産は今や見る影もない。アメリカからのオレンジや牛肉輸入自由化のために、自民党政府は補助金を出してミカンの減反や生産調整、牛の頭数制限を強行した。アメリカ産農産物の輸入拡大の受け皿づくりのために日本の農業を意図的・計画的に破壊し尽くしてきたのである。
アメリカの戦後の日本支配のうえで、食料戦略は重要な位置を占めている。まず、敗戦直後の食料難の時期に余剰小麦や豚のエサにしていた脱脂粉乳を学校給食に持ちこみ、パンとミルクの給食を開始した。これは幼年期の嗜好が大人になっても影響を与えるという戦略にもとづいたものであり、同時に「コメを食べたらバカになる」「コメを食べたら肥る」などの大宣伝をおこない、キッチンカーなども走らせてパン食の普及を徹底させた。日本型のコメを中心とした食生活を欧米型に変えさせ、同時に自民党政府は「コメが余って国家財政をひっ迫させる」と宣伝を強め、70年から減反政策を開始する。アメリカは占領当初より、日本農業の根幹をなす稲作の壊滅的破壊を虎視眈眈と狙い、実行してきたのである。
減反政策によりコメの生産を破壊し続けた結果、93年冷夏によるコメの不作でコメが不足し、「韓国」からコメを緊急輸入した。これを好機としたアメリカはガットのウルグアイラウンドで日本政府に対するコメの輸入自由化圧力を強め、九四年に輸入自由化を強行した。自動車などの輸出拡大のために農産物の輸入拡大を要求してきたトヨタなどの独占企業も、「日本のコメは高すぎる」「安いコメを輸入すれば、労働者の賃金も安くてすむ」とアメリカのコメ輸入自由化圧力を歓迎する宣伝を強めた。
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続く
猛獣王S ( 30代 営業 ) 09/08/30 PM07
『農業のない国にしてよいか 国民は飢餓、治山治水崩壊 米国に胃袋握らすな』(長周新聞)リンクより転載します。
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今回の衆議院選挙の重大な争点として農業問題がある。戦後64年におよぶアメリカ追随、工業優先の自民党農政の結果、日本農業は壊滅の危機にさしかかっている。農業は国のもとである。日本は瑞穂の国といわれてきたが、水田による水稲生産を中心とした農業が日本民族の風俗、習慣、文化、社会規範などの基礎となって歴史的に継承されてきた。日本を農業のない国にする自民党政治は、ただ農業者だけの問題ではなく、国民を飢餓や餓死に直面させ、農民が担ってきた治山治水の機能も喪失させる。また日本民族の文化や歴史も断絶させるものであり、アメリカに身も心も売り渡した売国政治の象徴である。
戦後64年の農政は、アメリカによる農地改革が出発点である。戦前の「地主制度からの農民の解放」という装いで、地主から安い値段で一町歩弱程度の面積の農地を買い取らせて自作農とした。このため、日本の農家の圧倒的多数は零細な農家である。アメリカがやった「農地改革」は、「地主から解放する」といってだまして、農民をアメリカと日本の独占資本の直接の収奪下に置くことに狙いがあった。
それを具体化したのが1961年に制定した「農業基本法」である。そこには、日本伝来の水稲を中心にし、裏作に麦をつくり、ミカンなどの果樹を植え、鶏や牛、豚などの家畜を飼う、という多角的・複合的な農業経営をやめて、「選択的規模拡大」と称して、ミカンや酪農・畜産など単作での規模拡大を奨励した。全国の農家に金を貸し付け、ミカンを奨励し、酪農・畜産の大規模化を奨励した。
他方で独占資本は農村を工業製品の市場とし、たい肥にかわって高い化学肥料や農薬を普及し、牛・馬にかえて、耕耘機や田植機、コンバイン、トラクターなど何百万、何千万円もする農業機械を売りつけた。肉牛の飼料も自前のものから米国産トウモロコシをはじめ輸入飼料に切り替わった。農家が生産する農産物は安く買いたたき、独占資本が生産する工業製品は高く売りつけ、農家をしぼれるだけしぼる仕組みのもとで、農家は朝早くから夜遅くまで身を粉にして働いても働いても、農業では生活できない社会となった。
そしてミカンの木も大きくなり出荷時期を迎え、借金を償還する時期を迎える10年後の72年にアメリカ産グレープフルーツの輸入自由化、90年にはオレンジの輸入自由化を強行し、ミカン価格は暴落した。酪農・畜産も同様に90年には米国産牛肉の輸入自由化で価格暴落の打撃を受ける。借金の返済に行き詰まって、全国でミカン農家や養豚・酪農農家の自殺や夜逃げが続出した。さらに借金のかたに農地を取りあげられ、離農する農家も多数出てきた。
それは、農業では生活できない農業者を高度経済成長を支える低賃金の労働力としてかり出す政策でもあった。農村地帯の中学校卒業者は「金の卵」とか「月の石」とか呼ばれ、集団就職でトヨタの工場をはじめ全国の独占企業の工場に送りこまれた。トヨタなど独占企業の驚異的な高度経済成長は、農村から流出した労働力が支えたものであり、工業優先の政治で農業を犠牲にして独占企業を肥え太らせてきたのである。
戦後自民党政府が鳴り物入りで奨励したミカンや酪農・畜産は今や見る影もない。アメリカからのオレンジや牛肉輸入自由化のために、自民党政府は補助金を出してミカンの減反や生産調整、牛の頭数制限を強行した。アメリカ産農産物の輸入拡大の受け皿づくりのために日本の農業を意図的・計画的に破壊し尽くしてきたのである。
アメリカの戦後の日本支配のうえで、食料戦略は重要な位置を占めている。まず、敗戦直後の食料難の時期に余剰小麦や豚のエサにしていた脱脂粉乳を学校給食に持ちこみ、パンとミルクの給食を開始した。これは幼年期の嗜好が大人になっても影響を与えるという戦略にもとづいたものであり、同時に「コメを食べたらバカになる」「コメを食べたら肥る」などの大宣伝をおこない、キッチンカーなども走らせてパン食の普及を徹底させた。日本型のコメを中心とした食生活を欧米型に変えさせ、同時に自民党政府は「コメが余って国家財政をひっ迫させる」と宣伝を強め、70年から減反政策を開始する。アメリカは占領当初より、日本農業の根幹をなす稲作の壊滅的破壊を虎視眈眈と狙い、実行してきたのである。
減反政策によりコメの生産を破壊し続けた結果、93年冷夏によるコメの不作でコメが不足し、「韓国」からコメを緊急輸入した。これを好機としたアメリカはガットのウルグアイラウンドで日本政府に対するコメの輸入自由化圧力を強め、九四年に輸入自由化を強行した。自動車などの輸出拡大のために農産物の輸入拡大を要求してきたトヨタなどの独占企業も、「日本のコメは高すぎる」「安いコメを輸入すれば、労働者の賃金も安くてすむ」とアメリカのコメ輸入自由化圧力を歓迎する宣伝を強めた。
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続く