かんじゃまのつぶやき(海の見えるチベットより)

日本一細長い四国佐田岬半島での慣れない田舎暮らしの日常や風景、
  そして感じたこと、思い出などをひとコマひとコマ

コミヤマの水

2007-10-18 13:33:44 | 田舎の生活

 今日は、我が地区のコミヤマという所へ水を汲みに行った。この夏、雨が少なかったせいか、いつもより水量がやや少ないようだった。コミヤマは、昔から(どれくらい昔かはわからないが)地下水が湧出している箇所だそうだ。上水道が整備されていなかった時代にあっては、貴重な水源だったのだろう。たしかに、この場所は地形的に谷状になっており、表流水や地下水が集まりやすくなっている。そして、この湧水箇所より上の山には畑がないことから、農薬などによる水の汚染もないのだという。

そういう事情もあってか、ここの水は美味しいとの評判で、他の地区からも汲みに来るそうで、名取地区でも飲料やゴハンを焚くのにここの水ばかりを使っているという家庭もあるようだ。私も時々ポリタンクを持って、飲料用に水を汲みに行く。軟らかい味がして、冷たくて美味しい。 

私は、全く自然に湧水しているのかと思ったら、地山に小さなトンネル(ドレーン)を通して水が集まりやすくしているとのことだ。ドレーンを通したり、湧水箇所をコンクリートで補強したり、などの工事がいつ行われたかは、残念ながら私は知らない。だから、地表で見える径30cm程度のドレーンが、地山の奥深くどこまで入っているのかわからない。

友人の話によると、ここの地山には粘土層があるらしい。そうだろうなあ、粘土層が不透水層となって、その層で地下水が遮水されて地表に湧水しているのだろう。すると、その粘土層は地すべりでできた粘土(岩盤が摩擦などで粘土化)の可能性が高い。だとしたら、粘土層付近の地下水をある程度強制的に抜く(地表に排水する)ということは、地すべりの誘因をひとつ除去することになり、一石二鳥となる。なんだか、先人の知恵を垣間見た思いだ。


レンズが割れた

2007-10-17 14:20:32 | 田舎の生活

昨夜寝る前に、コンタクトレンズを外してケースに入れようとしたところ、片方のレンズが割れてしまった。もう、10年余り新しいレンズに取り替えていないので、そろそろ新しいレンズを買わなければと思っていたところだった。おそらく、長い間に傷が増えて、その傷から割れたのだろう。一般に、コンタクトレンズは2~3年で新しいものに交換するべきなのだろうが、破損しないので、ついつい面倒くささともったいなさが重なって、今日に至っていた。

学生の頃は山に入ることが多かったので、歩いている時、木の枝や葉っぱが眼に当たって、しばしばコンタクトレンズを失くしていた。ひどい時には、1週間に2度失くしたこともあった。あの時は悲惨だった。そのため、同じレンズを3年以上も使うということはなかった。そんなわけで、私はコンタクトレンズに関する夢をよくみた。レンズを失くす夢、割れる夢、嵌めようとするととんでもなく大きかったり、膨張していたりする夢、ふにゃふにゃに変形する夢・・・。こんな嫌な夢をこれまでに何度みたことか。これは、コンタクトレンズ使用者以外の人は絶対に見ることのない夢だろう。ところが、最近はレンズを失くすこともなかったので、こんな悪夢を見ることはなくなっていた。

とはいえ、レンズを買うためには車で町まで行かなくてはならないので、インターネットで店を調べてから出かけた。本当はコンタクトレンズ友達などがいれば、口コミでいい店を教えてもらえるのだろうが・・・。今日行ったコンタクトレンズ店は、専門の眼科医院に併設されているところだった。

ところが、医院の中に入ってみると、場末感ただよう待合室、そして無愛想な女性受付事務員。こりゃ期待持てないなと思ったが、そうかといって別の店を探すのも面倒だったので、受付を済ませしばらく待った。少しして、レンズ店の女性スタッフが呼びに来た。ところがこの女性、柳原ナントカからかわいらしさを全て抜き取って、高砂親方を加えたような人だった。これだけならまだしも、その後診察してくれた女医がこれまたひどかった。こちらの状況など聞く耳持たず、自分の言いたい事だけ言って、ハイ終わりだった。さらにこの女医、その後レンズ店の柳原ナントカ似が、コンタクトレンズの調整、製品の説明などしているところへ、2度3度割り込んできて、私の眼のことについて私に話しかけてくる。だったら、なんでさっきの診察の時に、きちんと私に状況を聞くなり、親切なアドバイスをするなりしなかったのだと思い、無視した。 

私の視力はかなり度が進んでおり、さらに乱視まで入ってきているので、コンタクトレンズは保管分がなく注文となった。まあこれは予想していたことであった。しかし、こんな不愉快な医院とレンズ店だったので、もう2度と来たくないと思い、コンタクトレンズはメーカーから直接送ってもらうことにした。  

やはり、飲み屋と医者選びは、口コミが大切だ。


ぼけマウスお役御免

2007-10-16 13:09:40 | 田舎の生活

昨日、両親を連れて町の病院まで定期診察に行った。久しぶりの“町まで外出”なので、診察が終わってから色々買物もし、やっと新しいマウスを買った。先日、本ブログで「ぼけマウス」のことを書いたけれど、その後も症状はひどくなるばかりだった。例えば、メールの「受信トレイ」のフォルダをいじってもいないのに、別の操作をしようとしたら、勝手にツリー状にサブフォルダができたり、メールの作成をしようとすると、1回のクリックで2つも3つも「メッセージの作成」が開いたり、削除指示もしていないのに勝手にフォルダごと「ごみ箱」に捨てられたり、ひどいことになってきた。 

暴走・お騒がせのカメダ一家には、カメダ家独特のボクシング用語があるそうだが、次男坊は普通の日本語の理解をして、ボクシングを別の競技にしてしまったようだ。うちのぼけマウスは、私の普通の指示を無視して、自分勝手に解釈して動き出す癖がついてしまった。 反則常習のカメダ一家はお役御免にならなかったが、ぼけマウスはお役御免とした。今回も光学式マウスを買った。家に帰ってから早速付け替えてみると、なんと快適なことか。ここ最近のイライラがうそのようで、フェアプレーが当然だとするスポーツ選手のように爽快だ。これが正常なマウスの動きなのだと実感した。 

ところで、電器店のマウス売り場は、半分以上がワイヤレスだった。そして、コロコロマウスはもう見当たらなかった。早くも化石になってしまったのだろうか。ワイヤレスは確かに便利だろうが、奥さんは「たびたび電池交換しなくちゃいけない」と言っていたし、電池が入っている分重い。だから、私は今回もワイヤ付きを選んだ。


今日は道役

2007-10-14 12:13:36 | 田舎の生活

今日は、午前7時から“総出の道役(-みちやく)”があった。

我が名取地区では、毎年春と秋にそれぞれ“総出の道役”が1回ずつあり、道の草刈などをやることになっている。その他にもう1回参加しなければならない場合もある。いわゆる無償の労働奉仕である。普通は単に“役(やく)”と称することが多いが、これは昔の“夫役(ぶやく)”のことだろう。

ここ名取地区には、“りんぽはん”という制度・組織が残っている。これは、隣組と似たような制度で、10軒前後の単位が1組になり、それぞれに交代制で班長がおり、主に回覧板を回すなど、集落の連絡を班ごとに行っている。そこで今日のような“道役”の場合にも班ごとに分かれて、分担された区域の草引き・掃除などを受け持つことになる。 

名取地区には、こんな風に耳伝え、口伝えだけで、どんな文字・漢字か私にはわからない言葉がたくさんあり、そのたびに漢字を知りたくなる。そうしないと何だか落ち着かないのだ。そこで、この“りんぽはん”だが、インターネットで検索してみたら、予想通り“隣保班”であった。そして、隣保班とは、制度化されたのは昭和15年で、戦争への協力体制、戦時体制下の隣保相互扶助組織のようだ。全国にこのような制度が残っているところは、ほとんどないだろうと思っていたら、隣の大分県でも今もこの制度が残っているそうだ。

子供の頃は、“隣保班”が20班あったと思うのだが、今では12班に減ってしまっている。さらに名取地区には、隣保班とは別に“こうぐみ(こぐみ?)”という組織もある(“講組”と書くのだろうと思う)。こちらは、冠婚葬祭の時に活躍するようだ。と言っても、今や名取地区に“冠婚”は皆無に近いので、もっぱら葬祭のときだ。例えば、同じ組の誰かが亡くなった場合には、その同じ組の他の家から1人ずつ出て、葬儀の手伝いや墓掃除などをするという具合だ。今では、葬儀屋さんに依頼するケースがほとんどなので、昔に比べてその作業はうーんと少なくなったようだ。

隣保班と“こうぐみ”、隣保班は戦時下に国から強制的に組織させられたものだろうが、“こうぐみ”は、集落の生活の中での必要性から生まれたものと思われ、きっと歴史は古いだろう。この二つは別々の組織なので、ややこしい。もうそろそろ、統一してはどうかと思うのだが・・・。 特に“こうぐみ”は、田舎暮らし初心者マークの私には、自分の家がどの組に入っていて、他にどの家が同じ組なのかという事がわからなかった。 昨年ある家の葬儀があったとき、親戚が教えてくれたので始めてわかったという次第である。おそらく、この“こうぐみ”の各メンバーのことは、文書に残されていないのではないかと思う。先輩方の記憶・口伝えだけが頼りのような気がする。  


秋の味覚

2007-10-13 15:03:19 | 食材・食事

今日午後、松山市在住の親戚夫妻が訪ねてくれた。お墓参りに来たのだと言う。そして、実家でなったという大きなたくさんの栗とゆず、柿を頂いた。昨年もちょうどこの時期、たくさんの栗を頂いた。こんなにたくさんの栗を一度に見るのは初めてなので、どう調理すればよいのか、奥さんはインターネットで調理法を調べていた。そして、頂いた親戚にも聞いてみると、「栗の渋皮煮」が大好きだと言っていたので、奥さんはそれも作り方を調べて作ってくれた。その他には、「素揚げ」、「栗の鶏肉炒め」、そして定番の「栗ご飯」といろいろ味わうことができた。「渋皮煮」はおやつに良く、「素揚げ」はビールのつまみに良く合った。

栗は美味しいのだけれど、食べるまでに結構手間がかかる。まず、外側の鬼皮をむかなければならないが、これを繰り返すと指の爪との間が痛くなる。刃物を使えばよいのだろうが、それも慣れないとなかなかうまくいかない。そして、渋皮をむくのも厄介だ。特に、しわしわのへこんだ部分の渋皮がなかなか取れないので、爪楊枝などを使って丁寧に取る。

でも、こうして手間をかけただけのことはある。しばらく、おいしい秋の味覚を楽しめそうだ。  


ニンジン発芽

2007-10-12 13:27:05 | 菜園

先日7日に種を蒔いたニンジンがやっと芽を出した。ヤッター! 

まだひげほどの大きさだか、間違いないだろう。ニンジンの種まき時期としては遅かったのだろうけれど、種が入っていた袋には10月中旬まで大丈夫と書かれていたので、蒔いた。それにしても、大根は種まきから3日目で発芽、ニンジンは5日目ということになり、時間がかかるようだ。大根はその後、間引きをして1本立ちにし、すくすく育っており、近所の畑のものより育ちがよく、ちょっぴり自慢なのだ。 

昨年は8月下旬にニンジンの種まきをしたが、いっこうに目が出ず、やっと1本だけニンジンらしいのが発芽したので、大事に育てたが、結局寸足らずのちんけな格好にしか育たなかった。だから、ニンジンを育てるのはむずかしいのかなー、と思っていた。また、自分で種を蒔いたのは、このニンジンが最初だったこともあり、シロウトでは野菜作りは簡単ではないなと思ったりもした。

そこで今年は、種を2日間水に浸してから畑に蒔いた(マニュアルでは1日で良いと書いてあったが)。やはり、これが効果的だったのだろうか。そして、乾燥防止のため、種を蒔いた箇所を枯れ草で覆っておいた。本当は藁なのだろうけれど、藁がないので代用品だ。さらに、種まきの後、タイミングよく雨が降ってくれたのも良かったのだろうと思う。 

 

 菜園作りも2年目に入った。これから、順調に育ってくれるのを祈るばかりだ。家計を少しでも助けるためにも。


僕のTシャツ(3:オーストリア・スイス編)

2007-10-11 13:05:39 | 旅行

会社勤めをしていた頃、オーストリアのウィーンで行われた、ある国際学会に参加させてもらったことがある。初めて訪れたウィーンの街は、街全体が美術館・博物館のようだった。そんな博物館のような街に1週間ほど滞在し、レストランでビールやワインを飲み、ウィンナーやでっかいシュニッテル(カツレツ)を味わった。残念だったのは、どのレストランでも野菜はボイルされていたことだ。だから、無性に生野菜のサラダが食べたいと思った。またある時、夕食に小じんまりとした中華料理店に入ったのだが、店には日本の演歌(歌は中国語だが)が流れ、後から入って来たオーストリア人客が紹興酒ではなく日本酒を飲んでいるという不思議な光景に出会ったりもした。そして、この街の人はソフトクリームが大好きのようだ。夕食後だろうと思うのだが、街を歩いていると、ソフトクリームを食べながら歩いている図体の大きな男性の多さにびっくりし、あきれた。

ところで、学会の前後には、各地への研修旅行も用意されていたので、私は、おそらく今後訪れることはないだろうと思い、数ヶ月前に学会後の研修旅行はユーゴスラビア方面を申し込んでおいた。ところが、その後東側諸国の政治・社会情勢が急速に不安定になり、崩壊しかねない状況になっていた。それでも、自分が申し込んだユーゴスラビアへの研修旅行が中止になったという連絡は入らなかったので、ウィーンに着いて学会会場で研修旅行の申込確認をするために受け付けに向かった。ところが、私が予約確認書を差し出すと、受付の女性がいきなり、「アイム ソーリー」と切り出したので、思わず「あーー 不安が的中した」と心の中でつぶやいた。その後の彼女の説明は、ユーゴスラビアは現在政治情勢がとても不安定になったので、今回このコースの研修旅行は中止になった、というものだった。≪その後、ソビエトや東欧諸国はほとんど1年以内に崩壊することとなった≫

そのため、自分で予定していた研修旅行後の旅行行程を変更せざるを得なくなった。もともと、研修旅行が終わったら、一人でスイス・アルプスへ行ってみようと思っていたので、大きな変更ではなかったのだが、日程に余裕ができたということで、予定よりも早くオーストリアからスイスへの一人旅が始まった。その後のホテルは全く予約を取っていなかったので、移動して目的地に着くたびに、まずめぼしいホテルへ向かい、空いている部屋があるかどうか確認することとなった。

こうしてウィーンを後にして、インスブルックに2泊して、その後訪れたのがスイスのサン・モリッツである。この街で宿泊したホテルで買ったのが、今回写真でご紹介するTシャツである。「LA MARGNA」ホテル。受付のやや年配の女性は、飛び込みの私を優しい笑顔で迎えてくれた。そして案内してくれた部屋は、窓から正面に湖と山が見える見晴らしの良い所で、白木造りだったのも気に入ったし、清潔感のある落ち着いた雰囲気のホテルだった。ということで、3泊滞在した。サン・モリッツには湖と山があり、街自体も落ち着いたきれいなところだった。このTシャツを買った時は、色合いが気に入っていたのだが、次第にその色合いなどが自分に不似合いだと思うようになり、今では奥さんが着ている。

サン・モリッツの後は、ツェルマット、グリンデルワルトなど、日本人にお馴染みのスイス・アルプスの代表的な観光地を訪れた。ツェルマットを去る時には、宿のおばちゃんに「これからどこへ行くの?」と聞かれたので、「グリンデルワルトです」と答えると、おばちゃん「日本人はみんなそうだね」と笑っていた。確かに、グリンデルワルトでは日本人観光客が本当に多かった。みんなユングフラウヨッホが大好きなのだろうか。

時には孤高のマッターホルンを眺めながら、そしてある時にはアイガー北壁の圧倒されるような景色を目の前に、ビールを飲みながら食事をし、「なんて贅沢な空間と時間だろう」と思った。さらに、朝焼けのモンテローザや壮大な氷河も見ることができたし、一日中マッターホルンを仰ぎ見ながらハイキングを楽しむこともできた。こうして、アルプス造山の造形を楽しみながら、のんびりとした一人旅を満喫することができた。  


地名の由来

2007-10-10 11:37:53 | 田舎の歴史

ブログを始めて3ヶ月が経った。訪問してくださる方、ありがとうございます。そこで、今日は我が地区の地名の由来などを紹介したいと思います。

我が地区・集落は、「名取(なとり)」と言います。同じ地名が宮城県にあります。そう、仙台空港のある「名取市」です。実は、我が地区の名前は、この名取市にちなんでいるといわれています。 

江戸時代の元和元年(1615)、奥州伊達政宗の第一子、伊達秀宗が、徳川家の命令で伊予宇和島(当時は板島藩と呼ばれていた)に10万石の領主として、奥州の家臣とともに入部する。この年秀宗25歳。その時、馬数十頭の荷駄で、諸道具を運んできたといわれており、その馬をひいてきた人たち(百姓だろうか?)を居住させ、馬の放牧をさせた。そこで、この地に郷里の「名取」という地名をつけたといわれている。こうして宇和島藩は、名取を藩の軍馬育成の地にしたと伝えられている。

名取地区の東側海岸に、地元では「ウマノセ」と呼ばれている箇所がある。「馬の背(瀬?)」のことだろうと思われる。ここは、岩礁が沖合まで点在しており、干潮の時にそれらが海面上に顔をだす良い磯場である。子供の頃、そこに宇和島藩の馬を放牧していたと聞かされたような気がする。だから「馬の背(瀬?)」かと。 

しかしながら、馬を放牧させるなら、岩の多いところではなく、もっと平坦な砂地のほうが適しているのではないだろうかと思う。そのほうが草もたくさん生えているだろうし。それよりも、宇和島藩の軍馬を育成するのに、宇和島から遠いこの地をわざわざ選ぶだろうか?藩内には、もっと近くに適地があると思うし、この名取では、いざという時、宇和島まで馬を移動させるが大変ではないだろうか、と思ってしまう。なんだか、地名由来に関するせっかくのいい話に水を差すようになってしまいそうだが、軍馬育成には疑問が残る。それよりも、九州勢の侵攻にそなえての見張りの地にしたのではないかという説もあるようで、こちらのほうが説得力があるように思える。

 

この半島の宇和海側には、いくつもの集落があるが、海岸沿いではなく斜面の中腹にある集落は、この名取地区だけである。これはなぜだろう? ここ名取からは、半島、そして半島の付け根から宇和島方面が一望できる。残念ながら、宇和島市街地は湾入部にあり、その湾入り口には展望をさえぎるような島があるため、この地から宇和島市街地を直接望むことはできない。

とはいえ、江戸時代にあっての通信手段のひとつに、「のろし」があったはずだ。その「のろし」を使って、途中の島(例えば、戸島、日振島)や峠(例えば法華津峠)を経由すれば、宇和島城への情報伝達は可能だろう。まさにこの時代の高速インターネットだ。  

名取地区は、宇和島と九州を見渡した場合、絶妙の場所に位置していると思える。そのために、海岸沿いに平地がないながら、ある特殊目的のために名取地区が選ばれたのではないだろうか。「のろし」の発信場所としては、海岸沿いよりも、より標高が高く見晴らしの良いところを選ぶと思う。 

こうして、私はすっかり『見張り地説』に傾いてしまった。

こんなことを考えていたら、この地区のどこかに「のろし場」跡地があるのではないだろうかと思えてきた。でも、そういった話はこれまで地元の誰からも聞いたことはない。  探してみようかな。 


保険金不払い

2007-10-09 13:32:19 | 政治・社会

生命保険会社の保険金や給付金の不払いが、2001年度からの5年間で、合計約120万件、約910億円に上るという。請求がなければ支払わないという、全く理不尽なことがまかり通っている。全く腹立たしい。

保険金不払いの問題は、05年に某保険会社が支払いを拒否していたことがわかり表面化した。しかし、今回の調査により、某社だけでなくどの保険会社も同様のことをやっていたことがわかった。どの保険会社も、契約者軽視のあきれた経営をしていたということだ。 

しかも、その件数、金額は膨大だ。とにかく保険の約款は文字が小さい上に、特約などの条件が複雑でとてもわかりづらい。保険会社は、契約をとることにはとても熱心だけれど、支払に関してはほったらかしというケースが多く、「売ればおしまい」というのが当たり前のようだ。 

契約に沿って本来支払うべき保険金を、請求がないからといって支払わない姿勢・会社体質を早急に改善するべきだ。そして、保険商品をわかりやすくして、契約者がよく理解できるように丁寧に説明すべきだ。保険会社は、どうも自浄能力が欠落しているようだ。

 

会社勤めをしていた頃、会社に出入りしていた某保険会社の女性外交員が、阪神淡路大震災があった1・2年後、「我が社は大震災の時も、保険金を支払っても十分に資金が残っていた」と言っていた。彼女は、自社の資金力を自慢して、支払能力に問題がないことをアピールしたかったのだろうが、このセリフに私はとても違和感を覚えた。あのような未曾有の災害があったら、保険会社の資金が底をつくくらいになってもおかしくないと思うのだが、びくともしなかったと言う。それじゃあ、保険料を取りすぎなのではないかと思ってしまう。保険は、統計学理論の上に成り立っているのだから、事故率などの「○○率」の設定と保険料のバランスがおかしいのだろうと思う。

最近原発などで地震に対する安全率が問題になってきているが、保険会社は、自社が倒産しないための安全率をとんでもなく大きく設定しているのだろうと思わざるを得ない。それとも、不払いで儲けているだろうか。 

保険金は払わないは、年金はネコババするは、いったい、この国はどうなっているのだろう。


客神社

2007-10-07 12:41:21 | 田舎の歴史

神社は、我が家から直線距離で100mほど離れた場所にある。特段変わった神社ではなく、本殿、中殿、拝殿からなるごくフツーの神社だと思う。子供の頃は、ここでチャンバラごっこやかくれんぼなどをして遊んだものである。その頃は、この神社に名前があるなどとは考えもしなかったが、「客神社」という。『町誌』によると、寛永年間(1624~1644)の創立であるという。はじめは客大明神と称したが、明治維新の際、客神社と改称してその後、明治42年9月に天満神社を合祀した、とある。そして、祭神は、伊弉諾命、伊弉冊命、菊理姫命、速玉之男命、事解之男命、菅原命とのこと。(なお、伊弉冊命は「冊」ではなく「冉」の漢字が正しいようだ。)

最初の2神は、イザナギノミコトとイザナミノミコト、そして最後は天神様(菅原道真)だとわかったが、他の3神がわからなかったので、手持ちの本で調べてみた。すると、菊理姫命はククリヒメノカミ(ミコト)、速玉之男命はハヤタマノオノミコト、そして事解之男命はコトトケオノミコトだとわかった。そして、これらの神々のことを『日本書紀』などでみてみると、以下のようなことが書かれてある。

イザナミ命は、火の神を生んだ時のやけどがもとで死んでしまう。そしてその後、イザナギ命は、亡くなったイザナミ命を訪ねて黄泉の国へ行くのだが、イザナミ命の正体がわかり、驚いて黄泉の国から逃げ出そうとする。そして、逃げるイザナギ命とそれを追って来たイザナミ命が途中で言い争いとなる。そこに、黄泉の国に通じる道の番人とともに現れて、イザナギ、イザナミ両神の言い分を聞いてうまくとりなしたのが、菊理姫命とされている。そしてこの神は、白山信仰の主祭神であり、農業の神様である。

次に速玉之男命は、熊野三社のうちの一つの祭神“熊野速玉之男命”のことであり、イザナギ命が黄泉の国へ行って、イザナミ命の正体を知り、「離縁しよう」と決別の誓いをした時に生まれた神だとのことである(神様だから生まれるというより生じると言ったほうがよいのか)。そして、この時同じようにして事解之男命も生まれている。そのためか、速玉之男命と事解之男命は同一神とする説もあるようだ。ところで、その生まれ方がすごく、イザナギ命が誓約のために唾を吐いた時に生まれたのが、速玉之男命・事解之男命なのだそうだ。この二神の神徳は多岐にわたるが、漁業の神様でもある。

 

 『古事記』や『日本書紀』での神話に相当する箇所では、こういった風にとんでもない物やしぐさから神様ができてくるケースが多い。ちなみに、イザナギ命が先ほどの黄泉の国からこの世に逃げ帰って、禊の祓いを行う時、左目を洗った時に生まれたのが天照大神で、右目を洗った時に生まれたのが月読命(ツクヨミノミコト)、鼻を洗った時に生まれたのが須佐之男命(スサノオノミコト)なのである。天照大神や須佐之男命は、イザナギ命とイザナミ命の子供とされるが、そうするとイザナギ命一人(神様だから一神あるいは一柱か)で、しかも男神が生んだことになり、変だ。それよりも、唾や目から生まれるか?「そんな馬鹿な」と思わせるのが神話のすごいところなのである。そんなことを気にしていたら、神話は先に進まないのだ。神様の身につけている物・持ち物、何からだって神様は生まれるのだ。ワニからだって生まれるのだ。

こうしてみると、我が地区は、創造神農業神漁業神、そして学問の神様に守られていることになる。

               

太平洋戦争後、日本の教育では、古事記や日本書紀の記述を「科学的でない」とか、「天皇制の正当化だ」とかいって、ほとんどふれられなくなった。考古学者の森浩一さんは、そういった戦後教育・風潮に問題提起をし、「虚心に神話・伝説と考古学の接点を探るべき時期であろう」と言う。私も同感であり、そうすることによって、より豊かな歴史観や世界観・宗教観ができると思うのだが・・・。

私が小学校に入る前か小学校低学年の頃、学校の先生が神話の紙芝居を見せてくれた。「国生み」、「ヤマタノオロチ」、「海幸彦・山幸彦」、「因幡の白ウサギ」などなど、これらのお話は、その頃紙芝居で学んだ。その頃テレビなどなかったし、面白いなあと思った記憶がある。