かんじゃまのつぶやき(海の見えるチベットより)

日本一細長い四国佐田岬半島での慣れない田舎暮らしの日常や風景、
  そして感じたこと、思い出などをひとコマひとコマ

佐田岬灯台

2007-10-01 14:24:37 | 風景

今日は、両親を車でデイサービスに送った後、半島先端にある佐田岬灯台まで足を延ばしてみた。道路終点の駐車場は、地すべりの影響のため現在駐車禁止となっていた。すると、その近くの小屋から一人のおじさんが出てきたので、駐車できる場所を訪ねると教えてくれた。しかし、駐車料金は200円だという。多分、このおじさんは町の委託を受けているわけではなく、個人で勝手にやっているのだろうと思った。だから近くの道路わきに停めようかとも思ったが、まあカンパだと割り切って、おじさんの指示する場所に駐車した。近々地すべり対策工事をやるようだが、早く公共の無料駐車場を利用できるようにして欲しいものだ。 

ともかく、車を降りて灯台を目指し歩き始めた。トンネルのようになったウバメガシなどの樹林帯は気持ちよく、途中キャンプ場の脇を通り抜け、歩き始めて20分、灯台にたどり着いた。海の向こうには、意外に近く九州が見えており、灯台下の海は白く波立っている。旗をたなびかせて漁をしている漁船、そしてフェリーやタンカーなども頻繁に行き来している姿が見える。

佐田岬半島と九州の間にあるこの海は、地元では豊予海峡と呼ばれているが別名「速吸瀬戸」とも言われている。ここの海峡幅は約14kmで最大水深は約195mだそうで、関サバ・関アジ(四国側に水揚げされれば、「岬(はな)サバ」、「岬(はな)アジ」)で知られる漁場で、鳴門海峡ほど有名ではないが、ここでも潮の干満の時、渦ができる。今日見えた灯台下の白波は、潮流が勢いよく浅瀬をながれている箇所なのだろう。 

その後、灯台から少し引き返して少し高いところにある展望台に登ってみた。すると、さきほどの灯台と九州の山影が一望でき、なかなかの絶景であった(写真参照)。なお写真の左上に黒っぽく見えるのは高島で、その右側にうっすらと見えるのが佐賀関・大分である。

 

ところで、『日本書紀』によると、神武天皇東征の時、日向を出発した天皇たちの船団が「速吸之門(はやすいなと)」を通ったとの記述があり、現在の「速吸瀬戸=豊予海峡」だと考えられている。なお、『古事記』にも同じように「速吸門(はやすいのと)」を通ったとの記述があるが、こちらは、『日本書紀』とは旅程の地理的な順序が異なっており、『古事記』では現在の明石海峡に相当するようだ。しかしながら、研究者の間では、速吸之門あるいは速吸門は、豊予海峡を指しているというのが大勢のようだ。この神武東征の話は、『日本書紀』や『古事記』の全体の構成の中で、南九州にいた天皇家の先祖たちと、いわゆる大和朝廷とをつなぐ重要な事件・イベントである。

しかし、この話はあくまで神話なので、具体的な史実に基づいたものではないだろうが、いずれにせよ、日本書紀が編纂された時代に、都から離れた九州と四国の間に「潮流が吸い込まれて速くなる海峡(速吸之門)」がある、と都の人々が認識していたことに驚くのである。