サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

mini review 11543「ばかもの」★★★★★★★☆☆☆

2011年10月28日 | 座布団シネマ:は行

絲山秋子の小説を『DEATH NOTE デスノート』シリーズなどのヒットメーカー、金子修介監督が映画化したラブストーリー。10年にわたる男女の恋愛を軸に、就職や結婚や家族の関係などをさまざまな視点から描く。『ドロップ』の成宮寛貴が甘え上手な年下男を熱演。その運命の恋人を『踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!』の内田有紀が体当たりで演じている。傷つきながらも必死に生きようとする彼らの姿に胸が熱くなる。[もっと詳しく]

「ばかもの」をくぐることでしか、見えないものもある。

絲山 秋子は1966年生まれ。
90年にINAXに女子総合職として就職し、何度かの転勤も体験し、営業職として頼りになる才覚を発揮し、姉御肌で酒好きでという豪放な性格であったらしい。
そのあたりは、芥川賞を受賞した『沖で待つ』の同期の男性社員に対する、辛口のためぐちと同志意識ともよべる不思議な親密感などによく現れている。
男女雇用均等法のなかで女子の総合職制度が出来たのが1986年であるから、絲山 秋子の時代にはまだまだ総合職は少なかったはずだ。



しかし絲山 秋子は98年に躁鬱病を発症し、そこから入退院、休職などを繰り返し、01年に退職することになる。
その病気治療中の経験を元に書き上げたのが、『イッツ・オンリー・トーク』であり、廣木隆一監督により『やわらかい生活』(06年)として映画化もされている。
蒲田という街にひっそりと住みながら、躁鬱の症状を癒す関係を求めていく35歳の独身女性を寺島しのぶが好演しているが、絲山 秋子もある時期、蒲田で住んでいたことがある。
ちなみに十年以上の職業体験を持つ女性が芥川賞を獲った例は、絲山 秋子しかいない。



『ばかもの』
は08年に『新潮』で連載されていたが、絲山 秋子のファンである僕は、単行本が待ちきれずに、連載中から図書館で読んでいた。
とても面白い作品だったが、金子修介監督によって映画化されるという話を聞いた時、ちょっと心配になったものだ。
金子監督の出自は一方でロマンポルノ、そしてもう一方で怪獣オタクからくる『ガメラ』シリーズのような作品なのだが、その後の大ヒット作にはなったらしいが『デス・ノート』(06年)や『あづみ2』(05年)といった作品に、僕自身は辟易していたからだ。
金子監督に、ヒデと額子の崩壊と再生劇が、演出できるのだろうか?
群馬県を舞台にした大都会とは異なる粘着質の空気や、ラストの自然のなかでかすかに再生されるふたりの情感が描けるのだろうか?



そして絲山 秋子は、『やわらかい生活』で脚本家荒井晴彦の脚本出版をめぐる差し止めに対する1円訴訟で、もしかしたら映画化に対するアレルギーのようなものが発生しているのではないか、ということなど、も。
けれども、こんな心配は杞憂であった。
脚本の高橋美幸の原作に対するリスペクトもあるのだろうし、『蝉しぐれ』などで情感あふれるカメラワークをものした撮影監督の釘宮慎治の働きもあるのだろう。
また奥山和由ら東北新社の製作陣の熱心な取り組みもあっただろうし、地元高崎のフィルムコミッションなどの手慣れた協力もあっただろうし、もちろん成宮寛貴と内田有紀というキャスティングも成功したのだろう。
久しぶりに無理なく感情が、主人公たちに寄り添うことが出来る邦画作品に仕上がっていたように思う。
もちろん時代を2000年以降のリアルタイムな10年の物語にしたことや、公園の木に下半身のペニスを露出したまま縛り付けられて額子に置きざれにされるシーンがあっさり描かれすぎていることや、全体を通じて「性」への執着や気まずさ、愚かさのようなものを、もっと突っ込んで描いてもよかったのにという個人的な思いはあるとしても・・・。



19歳の「ばかもの」であるヒデの10年の成長物語と見ることも出来る。
偏差値の低い大学でろくに勉強もせずに、自宅通いでヘラヘラしている「ばかもの」のヒデは、殴ってやりたくもなるようなろくでなしである。
大学入学も推薦制度やAO入試で半分が決まる時代に、大学生の学力低下が著しく、授業にならないと言う嘆きをよく聞かされる。
中学程度の日本語もろくに出来ないんじゃないか。
リメディアルと呼ばれる補習事業に、頭を抱える大学人たちの話もよく聞く。
「ばかもの」であるヒデは、まさにそんなどうしようもない大学生の典型であるかもしれない。



ヒデは、額子と出会うなかで童貞を捨て、夢中になって性を貪り、その後突然のように額子に屈辱的な捨てられ方をして、なんとか卒業して家電販売会社に就職し、新しく真面目そうな女性教師と交際することになる。
最初は酒も飲めなかったのに次第にアルコール依存症となり、会社は無断欠勤で首にされ、姉の結婚式では泥酔してぶちこわし、ついには酒飲み運転で事故を起こしてしまう。
「ばかもの」であるヒデは、ゴミのような臭いを周囲に撒き散らす存在になってしまった。
つまりとことん「壊れた」わけである。
ヒデはアルコール依存症から脱するため、病院で治療を受け、近所の中華料理屋でまじめに働きだすのだが・・・。



19歳のヒデは29歳になっている。
27歳で拉致するように童貞を奪った額子は、事故で片腕をなくし、離婚後ひとりで父が残した山村の家に住む37歳の女性となっている。
そしてふたりは再会する。
たった10年だけれども、それはそれで長い10年。
額子もヒデの人生を狂わせたのは自分ではないかと罪悪感を持っている。
ヒデも額子に対し、「ばかもの」と言ってのけるぐらいの成長はした。
ふたりとも壊れたどん底の時間をかいくぐって、けれどもその中でようやく見えてきたものがある。



ふたりの「ばかもの」。
しかし「りこうもの」にも「ばかもの」にも、誰にも人生は等価である。
偏差値の低い馬鹿学生の成れの果てのアルコール依存症の青年であったとしても、エキセントリックな人生と引き換えのように「欠損」を持つことになった孤独な女性であったとしても、この世の中で不器用にしか生きられない者たちにも、等しく「再生」の契機は訪れる。
いやむしろそんな者たちだからこそ、「痛み」を持つ者同士の奇跡のような関係線を、他人からどんなに奇妙に見えようが、しっかりと引くことが出来るのではないか、と思いたくもなる。
それは「りこうもの」には持ちたくても持てない、関係線であるかもしれない。

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