喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

父の日 ~ 父の白髪 ~

2010-06-19 | ブログ
 三崎高校3年。私の夢は、教師でした。
そのためには、大学に進学する必要がありました。

 そんな私の夢を父・母・祖母・兄弟みんなで陰ながら応援してくれました。
 結局、福岡大学への進学を決めました。
その後、アパート選びのため、生まれて初めて、
父と2人で福岡への旅行をしました。
 
 博多駅に降り立ち、福岡大学行きのバスに乗ろうとしたときのことです。
父が乗車にとまどっていました。
理由は、車掌のいない自動改札が初めてで、どうしたらいいのかわからなかったようです。
「こうやって、切符を取って乗るんよ。」
と言ってやり方を説明し、無事バスに乗りました。

 このシーンは、私にとって衝撃的でした。
すべてにおいてすごい父が、バスに乗ることにとまどっていたということが。
 田舎にいれば、自分の車があり、バスに乗ることもないので、
あたりまえではあったのですが。

 そして、この後さらに衝撃を受けたことがあったのです。

 通路をはさんで、両側に座りました。
父の様子はどうだろうと向いたとき、横顔が見えました。
そしてもみあげから頭の上にかけて、多くの白髪が目についたのです。
 毎日、同じ屋根の下に暮らしていたのに、
父の白髪に気づいていませんでした。
しかも父に対して、老いのひとつである白髪を想像したこともありませんでした。

「ずいぶん、苦労をかけているなー」
やっと、そのことに気がついたのです。

 私が19歳の春のできごとでした。

 そして1ヶ月後、私がふるさとを離れる日がやってきます。
旅立ちの夜、想い出に残る父からの一言が…

                        岬人(はなんちゅう)

 

父の日 ~ きびしい父 ~

2010-06-19 | ブログ
 私の父は、一言でいうと実にきびしい父。
 特に、人に迷惑をかけるようなことに対しては、
容赦ありません。

 私も弟も幼い頃は、人さまの物を盗んだり、いたずらしたり、よくやったものです。
それが、いくら隠したつもりでも、すぐにわかってしまいます。
顔や頭をたたかれるのは、あたりまえ。
特にひどい場合は、ベルトやロープでたたかれることも。
ビール瓶を万歳して持たせられる罰は、数時間におよんだこともありました。
 
 しかし、私も弟も自分が悪かったということは、まちがいのないことなので、
涙ながらに謝るしかありませんでした。
「悪いことをすれば、きびしい罰を受ける」
ということは、あたりまえのことだったのです。

 そんな父ですから自分自身に対してもきびしく、
まちがったことをするとか人の道をはずれたことをするのが大嫌い。
みかん作り一筋に生きていました。
 また、話しかけれれば答えてくれますが、口数の少ない近寄りがたい父でした。
 時に相談したり、自分の考えを言おうものなら、
甘い考え方に対する指摘が、何倍にもなって返ってきました。

 今になって思うと、私自身いろいろな理由は取ってつけるものの、
自分のことだけしか考えていなかったり、自分の我を通そうとしたことが多く、
指摘されるのは当然だったのです。
 当時は、本気で叱ってもらえる父のありがたさなどを感じる、
心のゆとりはありませんでしたが。

 何をしても、何を考えても追いこせない存在が父でした。

 ところがそんな父を見る目が少しずつ変わっていったのです。

                     岬人(はなんちゅう)


父の幼き頃

2010-06-19 | ブログ
 6月20日は、父の日。
私の父について書いてみたいと思います。

 父武久は、金太郎とミチエの長男として昭和15年に生まれ、祖父鶴松からもたいへんかわいがられました。
 翌年1941(昭和16)年、12月8日の真珠湾攻撃で、太平洋戦争が始まります。
すでに始まっていた日中戦争は、泥沼化しており、日本はさらに苦難の道を歩むことになります。
 
 金太郎のもとにも召集令状(赤紙)が届き、出征することになりました。
生まれたばかりの娘(千鶴子)と3歳になった父、妻(ミチエ)そして体の弱い鶴松をのこしての出征は、
どんなに辛かったことでしょう。
 
 当時3歳の父には、自分の父金太郎の記憶はほとんどないそうですが、
出征の日の記憶が、断片的にあるというのです。

 出征の日、平礒の村をあげて高台にあるお墓の四辻(よっつじ)まで見送られました。
 親族や親交の深かった人たちは、さらに峠を越えて、
三崎の港まで行きます。
 幼き父は、肩車をされて三崎港まで見送りに連れて行ってもらったそうです。
沖には、八幡浜から九州別府行きの繁久丸が止まっており、
そこまでは、はしけという小舟に乗って行くのです。

 ほとんどは、港の岸壁から見送るところを、
父は、「いっしょに行く。いっしょに行く。」
と言ってきかず、はしけに乗らせてもらい、繁久丸まで連れて行ってもらいました。
 父の記憶には、この時のはしけから繁久丸に乗りこむ金太郎の姿がやきついているそうです。
 
 これが、親子の最後の別れとなりました。

 写真は、唯一残っていた家族写真です。
祖父金太郎が、父武久を抱いており、
祖母ミチエが、千鶴子おばちゃんを抱いています。

 父の日を祝えるということは、本当に幸せなことです。
                     
                       岬人(はなんちゅう)