しまなみ海道の日帰り旅行。
途中、父母と様々な話をすることができた。
その1つが、「捨てるということ」。
我が実家の倉庫や屋根裏には、もう使わないだろうという物が積み重ねられている。
母が、「いつか使うことがあるかもしれない」と、捨てずに残している物がたくさんある。
さらに、「もらっておいたらいいかもしれない」と、余分にと思うものまで、もらってくる。
とにかく捨てられないのだ。
それが、私たちからすると、そのような物があるせいで、置き場もないくらい物にあふれていて、
片付けをしづらい状況をつくっている。
「いらん物は、どんどん捨てようや。亡くなってから整理整頓するのは大変なんやけん。」
という合理的な理由を話す。
過去、母が入院している間に、姉妹に帰ってもらいかなりの物を捨てたことがある。事後承諾で。
そして、また同じようなことを計画している。
「月末にみんなでいらん物を捨てて、家を整理整頓しようや」
父母も理にかなう話なので、強く反対することもなかった。
でも、その反応に何となくすっきりしなかった。
何だろう。この、もやもや感は?
【お腹いっぱいだけど、捨てられない】
今日、姉からのメールで、そのもやもや感がどうしてか、分かった。
姉は檀家になっているお寺の婦人会に参加した。
参加者は、母と同じ年頃の人ばかり。
そこで、子どもが実家の断捨離をすることについて話をしたようだ。
すると多くの人から、「本心は、捨てられることがとても嫌でストレスになる。できることなら、自分たちが亡くなった後にしてほしい。」
という本音が出たらしい。
自分(たち)は、どれくらい父母の気持ちに寄り添い、捨てることを考えていただろう。
戦中戦後の物不足で生まれ育った父母たち。
全ての物には、それを作り出すまでの苦労があり、豊かさがあって初めて手に入るものだった。
大事に大事に使いきり、そのおかげで暮らしていくことができた。
だから決して物を粗末にできない。それは、身をもって感じていることだった。
高度経済成長時代に生まれた自分(たち)は、そんな経験をしていない。
どんどん物は作りだされ、生活にあふれていく。
消費することが、豊かさの象徴のような感覚。
だから、捨てるということに違和感を感じない。
いや生活しやすくするためには、捨てなければならないとさえ思うようになった。
父母たちの感覚と大きくずれている。
自分(たち)は、物を捨てない父母を問い詰めることができるのか。父母の気持ちをないがしろにして捨てることをしていいのか。
これが、もやもや感のもとだった。
本当の豊かさとは、何でも手に入る生活ではなく、父母たちの思いそのものではないだろうか。
物の裏側にそれを作った人の姿が見える、それを使った人の姿が見える、という。
捨てることについて、しっかりと父母の気持ちを聞いてみたいと思う。
そうして本当の意味で、豊かな暮らしをしていきたい。
岬人(はなんちゅう)
「時間がとれたら、日帰り旅行に連れて行ってくれんかい?」
80歳を回った父からそんなことを言われた。
三崎高校を卒業して、戦死した父親に代わり一家を支えてきた。
働いて、働いて。雨の日も休みなく働いて。
そんな家に嫁に来た母。山仕事なんてしたことはなかった。
それからというもの、父とともに働いて、働いて。
働くことは、生きることだと見て育った。
旅行なんて、夢のまた夢。
家族を持ち、親孝行のつもりで旅行に誘った。
中でも出雲大社への旅は、思い出深い。
子どもたちが成人してからは、みんなそろっての旅行はなくなったが、日帰り旅行に行っている。
コロナ禍、昨年は宇和のカフェ苔筵(こけむしろ)、小田、砥部、そして孫娘が通う大学へ。
今年も娘を誘ったら、一緒に行くことになった。
今年の行先は、しまなみ海道。
昼前、今治で昼食。B級グルメで有名になった焼き豚たまご丼の老舗に入った。
「うまい、うまい。」
そう言いながら、かなりの量を食べきった。
続いて、しまなみ海道がよく見える、大島の亀老山展望台へ。
「これは、きれいじゃのー」
と、大満足の声。
そして、思い出の大三島大山祇神社へ。
ここは、20年以上前、祖母も一緒に来た場所。
両親ともに、昨日のようによく覚えていた。
時間だけが流れた感じがする。
あのときは、まだ生まれていなかった娘が「じいちゃん、ばあちゃん」と言って、世話をしてくれた。
最後に予定外で回ったのが、伊東豊雄建築ミュージアム。
島の風景にコントラストをあたえている。
大三島の新たな動きであり、風景だ。
帰り道、大島大橋で夕日を見た。
これもまた忘れられない景色となった。
こんな旅もあと何度行けるか分からない。
数年後、今回の旅が思い出深いものになっているのは、まちがいないだろう。
岬人(はなんちゅう)
三崎高校生による聞き書き。
次の質問が空気を変えた。
「みかんづくりで一番大切にされてきたことは何ですか?」
口が重かった父がすぐに反応。
「それは、何といっても土づくり。」
平尾さんも重ねて
「まちがいなく、土づくりやな~」
父が熱を込めて、語り始める。
「除草剤。草刈りをせずに楽じゃが、畑が死んでしまう。使ってはいけん。」
様々な試行錯誤があり、自信を持って言えること。
その熱は高校生にも当然伝わり、目がさらに輝いていく。
話は深まり、広がっていく。
終わりの時間になっても、お互い盛り上がっている。
語り、伝えたい父や平尾さん。
それを聞きたい高校生たち。
年齢差65歳の違いを超えて、つながっていく。
聞き書きによる感動を目の当たりにした。
最後に、取材者が、高校生たちに今日の感想を聞いてみる。
3名とも実に素直で、力強い感想だった。
お互いに別れが名残りおしそうだった。
「分からないことがあったら、また聞きに来させてください。」
という高校生の投げ掛けに、
「それこそ、いつでもどうぞ。」
と応え、とてもうれしそうな父と平尾さん。
真っ暗になった外で、高校生たちを見送った後、
「本当にかわいい子らやったのー。たのもしいわい。」
二人の喜びの顔が、この聞き書きの大成功を物語っていた。
農業には、夢がある!
岬人(はなんちゅう)
愛媛県南予地方の柑橘農業システムが世界農業遺産に向けて動きだしている。
10月22日、平礒においてその取組の一つ「聞き書き」が行われた。
「聞き書き」とは、話し手の言葉を録音し、一字一句すべてを書き起こして、ひとつの文章にまとめる手法。
仕上がった文章からは、話し手の語り口や人柄が浮かび上がり、
「聞き書き」を通して、地域に住んでいる人たちの持つ知恵や技、その生き様やものの考え方を学び、受けとめることができる。
そうなのだ。このすばらしい愛媛県南予地方の柑橘農業システムやそれに携わってきた人たちの思いや技術・知恵などをしっかりと残していきたい。
そのために考えられたのが「聞き書き」。この取組を引き受けてくれたのが三崎高校、川之石高校、南宇和高校。
この日、三崎高校生3名が、私の父と二名津の平尾さんの話を聞きにやって来た。
その様子を記録として残しておくために南海放送の取材もあった。
場所は、我が家の倉庫。
コンテナに座り、車座になり、自己紹介から始まった。
お互い、緊張した様子。 撮影されているせいもあるのだろう。
父は、言葉足らず。平尾さんは、質問以外の様々な話に広がっていく。
高校生たちも考えてきた質問を次々としていくが、父や平尾さんがそんな様子だから表面だけを上滑りしていく感じ。
話を聞いて、それに対しての質問が出てこない。
傍で私は、柑橘農業一筋で生きてきた80歳の人生や思いをもっと聞いてほしい、と感じていた。
そして、ある質問から空気が変わった。
「みかんづくりで一番大切にされてきたことは何ですか?」
年の瀬12月30日から新年1月1日にかけて。
毎年の年末作業である注連縄作り。
若い頃は、あまり気にも留めず、父に任せきりだった。
ここ数年、ようやく意識し始め、それを受け継ごうとしている。
宇和町の妹の嫁ぎ先から稲藁をいただき、注連縄飾りの準備に入る。
倉庫で40本の注連縄作り。
「おー、だいぶん上手くなったのー。」
あまり褒めない父からの言葉に、うれしさと自覚が増す。
そして、こう返す。
「後は任せておきないよ。」
次に、父の口から出た言葉。
「おらは、これを高校のときからしよる。親父が戦死したけん、おらがせないけんかった。
もう65年になるかのー。」
この言葉に、返す言葉が出てこなかった。
先ほどの自信が吹き飛んでいく。
私が意識し、手伝い始めたのは、ほんの少しだ。
家のために、良い正月を迎えるために、まだ高校生の頃からやってきた父。
それを淡々と自分の役目として、65年。
そんな父に比べれば、歳はとってきたが、私はまだまだ「ひよこ」だ。
親とはこういうものだろうか。
40本の注連縄飾りは、家の中の神様が宿るところに全て、車やバイク、倉庫にいたるまで飾り付けられ、
感謝と家内の安全と繁栄を祈る。
注連縄作りが終わると、2本の大注連縄作りに取り掛かる。
しっかりと締めるために息子も加わり、3人がかり。
というよりも、その作り方をしっかりと学ぶための方が大きい。
こうして、親から子、そして孫へと受け継がれていく。
我が家にとって、このような作業はとても大切なもの。
お金を出して買った方が世話がないのであろうが、「priceless」なことの一つなのだ。
いよいよ門に飾り付け。
先日収穫された伊予柑も結びこむ。
年神様のお越しを歓迎する準備は整った。
そしてもう1か所。
屋敷の神である「地神様」と我が家を護る「鍾馗様」への門である鳥居に飾り付ける。
そこに母がやってきて、その出来栄えを二人で見つめている。
小さな幸せのひとときだ。
幸せは、こんな日常の中にこそ感じられる。
淡々と生きる大切さ。
そこには、幸せがつまっている。
岬人(はなんちゅう)
年の瀬、12月29日。大掃除や正月の準備で忙しい。
そんなときに、父が
「ちょっといいか。一緒に来てくれや。
新しい倉庫がほとんどできあがったけん、見に行こうや。」
我が家のハルサキに建てていた倉庫を、県道の拡張のためにソトガイチに移転させることになった。
県との用地買収交渉から業者との契約、そして施工等、大変困難を伴っていた。
父は、それを中心となって進めてきた。
ようやく前に進み始め、そして完成間近を迎えている。
倉庫の使い勝手を知り尽くした渾身の作。
これまで幾度となく、建設に対するその思いや利便性、そして将来的な可能性を聞いた。
頭だけで考え、経験が伴わない私たちのアイデアとは、比べものにならない。
したがって、全て賛成、応援してきた。
80歳を超えた父が、この倉庫を誰のために、どんな思いで建てたのか。
全ては、後を受け継ぐ者、未来の新たな可能性のためだ。
そのためなら、お金も、その苦労もいとわない生き方。
そんな考え方、生き方をしっかりと感じておきたい。
みかん畑を示しながら、ふるさと平礒の移り変わりと明るい未来についても語ってくれた。
こんな父との限りある時間を大切に思い、楽しんでいる。
岬人(はなんちゅう)
芸能人の岡江久美子さんが昨日4/23に亡くなった。
新型コロナウイルスは、私たちから多くのものを奪っていく。
そんな中、母校愛媛県立三崎高等学校の高校生たちが行動に移したこと。
all we can do ~私たちにできること~
南海放送テレビに10分間にわたって取り上げられた。
佐田岬の先端から、先端の一歩を踏み出す。
感動の番組を観てほしい。
シェアはOK。南海放送に承諾済。
【NEWS CH.4】[新型コロナ] コロナに負けたくない!(2020年4月22日放送)
新型コロナウイルス感染拡大が急増し、その対策に命を削って働かれている方々に
心から感謝している。
そんなとき、安倍総理が、1世帯2枚の布マスクを全世帯に配布すると発表した。
この対策に多くの人が違和感を覚えたことだろう。
しかし、その真の目的を元官僚の千正康裕さんが、自身のブログで語ってくれた内容をみて、感じ方が変わった。
是非、多くの人にも知ってほしい。
この政策について、政府マスクチームの浅野大介さんという官僚の方が真意を語られました。
浅野さんはFacebookで解説されています。
「使い捨てマスクは医療機関に優先的に回したい」
「そのため、国民一般は「布マスク」か「自作マスク」あたりでしのぎたい」
つまり、
不織布の使い捨てマスクを一般の人が買うんじゃなくて、医療機関の方に回したい
ということが、そもそもの目的なんですね。
したがって、別な書き方をすると次のようなものになります。
■医療従事者が感染すると、病院の外来閉めたりして国民が医療を受けられなくなってしまいます。
■マスクは頑張って増産しているけど、今日本中がマスクを必要としているので、生産が追い付かないのです。
■だから、みんなの命を救う医療を守るために、どうか今は医療機関への配布を優先させてください。
■もちろん国民の皆さんもマスクが手に入らないと困るし不安なのはよく分かります。
ベストじゃないけど、次善の策として布マスクを配ります。
しばらく使い捨てマスクが入手できなくなるかもしれませんが、不便をおかけしますが洗って布マスクを繰り返し使ってください。
ご協力をお願いします。
■ちなみに、日本の平均が1世帯2人くらいなので、取り急ぎ2枚配ることにしました。
もちろん家族の多い世帯もあると思います。
本当は十分な数を配りたいのですが、1世帯4枚~5枚配ったり、世帯の人数をきめ細かく把握して配ると、今度はすごく時間がかかってしまいます。
医療機関へのマスク配布が間に合わなくなってしまいます。
■まずは、上手に2枚を使ってください。
本当にお手間ですが、自作のマスクづくりもできる方はやってみてください。
独身の方は、余った1枚を家族の多い人にあげるとか工夫をしてもらえるととても助かります。
みんなで命を懸けて医療機関の最前線で働かれている方々の支援をしなければならない。
今こそ、日本がベクトルを同じくし、1つにならなければならない。
仕事で参列できないので、24日(日)のお通夜に足を運んだ。
お歳は95歳だった。
たまたま今日、5年前(2014年、平成26年)に書いたブログが表示されたので開いてみた。
以下がそのブログだ。
写真は、11月21日(金)の出勤途中に撮ったもの。
風もなく、おだやかな晩秋の二名津の海。
1つは、松方面。

そしてもう1つは、通ったばかりの平礒方面。

この道を毎朝、散歩する人が何人かいる。
あいさつを交わすのが、お互いにとってちょっとした元気のもと。
「おっちゃん、今日も元気に歩いちょるなー。」
おっちゃんは、手をあげてこたえてくれる。
写真のじいちゃんは、戦前生まれで、戦争を生きぬいてこられたらしい。
シベリアに抑留され生きて帰って来られた。

いつかじっくりとそんな話を聞いてみたい。
晩秋の海もいいものだ。
そう、この海を眺めるじいちゃんが亡くなられた方だ。
いつかじっくりと戦争の時代の話を聞いてみたいと思っていたが、
今となってはもう叶わなくなってしまった。
夕日が沈み、帰宅途中。
じいちゃんがいつも立っていた場所に車を停め、心を込めて手を合わせた。
岬人(はなんちゅう)
これに関わってきた思いをお尋ねしました。
すると次のようなことを語っていただきました。

「難病を抱える子どもたちにとって、夢を抱くことは、まさに生きる力となります。
病気と闘う子どもたちと関わってきて、人として何が大切かを肌で感じています。
何としてでも、子どもたちの夢を一緒にかなえたいと思うのです。
あきらめるわけにはいきません。
もたもたしているわけにはいきません。
なぜならこの子たちにはタイムリミットがあるからです。
だから時間との闘いなのです。
ボランティアは、一方通行ではありません。
お互いに響き合うこと、共に響くことだと感じています。
もっと多くの支援が必要です。
そのために大切なことは、メイク・ア・ウィッシュについて正しく知ってもらうこと。
そしてつながりを広げていくことだと思っています。
13年間もつながっていただいている三崎中学校に、心から感謝しています。」
本当にうれしいお言葉でした。
夢を持つこと、夢に向かって努力することは、人に勇気を与え、笑顔を輝かせます。
ひとつでも多くの夢と出会い、ひとりでも多くの笑顔に出会うために、
三崎中学生はこれからも活動していきます。
「メイク・ア・ウィッシュ」とは英語で「ねがいごとをする」という意味のボランティア団体です。
3歳から18歳未満の難病と闘っている子どもたちの夢をかなえ、
生きるちからや病気と闘う勇気を持ってもらいたいと願って設立されました。
メイク・ア・ウィッシュは独立した非営利のボランティア団体で、宗教的、政治的団体ではありません。

アリゾナで始まったメイク・ア・ウィッシュは、アメリカ全土に広がり、
現在アメリカ国内及び、プエルトリコ、グアムなどに62の拠点があります。
また、全世界では他の42か国(カナダ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、オランダ、
ベルギー、アイルランド、チリ、台湾、日本など)に支部を置いて活動しています。
メイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパンは、
メイク・ア・ウィッシュ・インターナショナルの正式な支部として、
1992年12月に設立されました。
★メイク・ア・ウィッシュの始まり
メイク・ア・ウィッシュは1980年にアメリカで発足しました。
アリゾナに住む、クリスという7歳の男の子は警察官になるのが夢でした。
しかし白血病にかかり、学校に行くこともできなくなってしまいました。
この少年の話を聞いた警察官たちは、本物そっくりの制服とヘルメットとバッジを用意し、
クリスを名誉警察官に任命することにしたのです。
小さな名誉警察官は規則に従って宣誓し、駐車違反の取り締まりもし、
またヘリコプターに乗って空からの監視もさせてもらいました。
ミニチュアのバイクのプレゼントされ、クリスは大喜びでした。
5日後、クリスは亡くなりました。
警察では、名誉警察官のための葬儀を執り行いました。
ほんの短い間でしたがクリスは夢がかなったのです。

5/20(月)、メイク・ア・ウィッシュ・ジャパン広島支部の方が、
三崎中に来られてこのような話をされました。
真剣な眼差しで聞き入る生徒たち。
生徒たちが、活動の原点にふれた瞬間でした。
スティーブ・ジョブズ氏の最後の言葉
私は、ビジネスの世界で、成功の頂点に君臨した。
他の人の目には、私の人生は、成功の典型的な縮図に見えるだろう。
しかし、いま思えば仕事をのぞくと、喜びが少ない人生だった。
人生の終わりには、お金と富など、私が積み上げてきた人生の単なる事実でしかない。
病気でベッドに寝ていると、人生が走馬灯のように思い出される。
私がずっとプライドを持っていたこと、認証(認められること)や富は、迫る死を目の前にして色あせていき、何も意味をなさなくなっている。
この暗闇の中で、生命維持装置のグリーンのライトが点滅するのを見つめ、機械的な音が耳に聞こえてくる。
神の息を感じる。死がだんだんと近づいている。。。。
今やっと理解したことがある。
人生において十分にやっていけるだけの富を積み上げた後は、
富とは関係のない他のことを追い求めた方が良い。
もっと大切な何か他のこと。
それは、人間関係や、芸術や、または若い頃からの夢かもしれない。
終わりを知らない富の追求は、人を歪ませてしまう。
私のようにね。
神は、誰もの心の中に、富みによってもたらされた幻想ではなく、愛を感じさせるための「感覚」というものを与えてくださった。
私が勝ち得た富は、私が死ぬ時に一緒に持っていけるものではない。
私があの世に持っていける物は、愛情にあふれた(ポジティブな)思い出だけだ。
これこそが本当の豊かさであり、あなたとずっと
一緒にいてくれるもの、あなたに力をあたえてくれるもの、あなたの道を照らしてくれるものだ。
愛とは、何千マイルも超えて旅をする。
人生には限界はない。
行きたいところに行きなさい。
望むところまで高峰を登りなさい。
全てはあなたの心の中にある、全てはあなたの手の中にあるのだから世の中で、一番犠牲を払うことになる。
「ベッド」は、何か知っているかい?シックベッド(病床)だよ。
あなたのために、ドライバーを誰か雇うこともできる。
お金を作ってもらうことも出来る。
だけれど、あなたの代わりに病気になってくれる人は見つけることは出来ない。
物質的な物はなくなっても、また見つけられる。
しかし、一つだけ、なくなってしまったら、再度見つけられない物がある。
人生だよ。
命だよ。
手術室に入る時、その病人は、まだ読み終えてない本が1冊あったことに気付くんだ。
「健康な生活を送る本」
あなたの人生がどのようなステージにあったとしても、誰もが、いつか、人生の幕を閉じる日がやってくる。
あなたの家族のために愛情を大切にしてください。
あなたのパートーナーのために
あなたの友人のために。
そして自分を丁寧に扱ってあげてください。
他の人を大切にしてください。
スティーブ・ジョブス
1955年2月24日 - 2011年10月5日

ジョブズが持っていたものを、私は持っていない。
ジョブズが持っていなかったものを、私は持っている。
岬人(はなんちゅう)
地域を自転車で回ってみようと思い、平礒から自転車で約8㎞ある三崎中学校を目指した。
自動車なら15分ほどだが、ゆっくりと30分ほどかけて。
とはいえ、立こぎしなければならない上り坂も。
三崎高校へ通っていたころ以来の自転車だ。
何と33年ぶり。
実は、先週も自転車で行った。
6年前、現在21歳の息子が高校生になるときに買った自転車。
息子が卒業した後は、娘が引き継いだ。
2年間乗ってバイク通を始めたので、乗られないまま倉庫で眠っていた。
さびや汚れが付いたものを磨き、動きが鈍くなったところに油を塗った。
先週は、試運転を兼ねていた。
我が子が乗った自転車を父が引き継いだ。
いいものだ。
思いがこもった親子の自転車。長く大切にしていきたい。
途中、瀬戸内海側から望む伽藍山。
三崎中学校の校歌の歌詞にも出てくる伽藍山。
そして二名津湾。

二名津に入った。旧二名津中学校。
当時、正門前であいさつ活動をしていた。

二名津中学校の側で、お大師様(弘法大師)のお接待をしていた。
私もお菓子をいただいた。
今もなお、信仰心厚い地域の人たちによって引き継がれている。
いろいろな話を平尾長さんや山西のおばちゃんから聞いた。


三崎トンネルを抜けると下り坂。
山桜の名所奥山は、今は葉桜がパッチワークのようにきれい。
手前には、地域の人たちによって育てられた芝桜が鮮やかなピンク色。

ついに三崎中学校に到着。
伽藍山をバックに、絵になる学校だ。

途中、多くの地域の人たちに出会い、話を聞いた。
言葉の端々に、三崎中学校への温かい気持ちが感じられた。
四国最西端の三崎中学校。
地域と共にある学校を目指したい。
岬人(はなんちゅう)
我が家は、すごく静か。
あの笑いに満ちた、騒々しさがない。
妻は、冷蔵庫の食材が減らないと驚いている。
朝、トイレを待つこともない。
妻と娘たちは毎日のようにライン電話で話をしているので、
寂しさは和らいでいる。
どんな気持ちで新しい生活を送っているのだろうか。
今、家にいたころを振り返って、どう感じているのだろうか。
気になるところだ。
そんなおり、フェイスブックに以下のようなことをアップしていた。
人は、思いを伝えあうことで、近づくことができる。

「岡山大学に入学しました。
「勉強だけが大学じゃないよ。」
とは言いますが、今の私は、過去最高に勉強するのだと意気込んでいます。
今の私は。
式典中、100回以上相槌を打ちました。
首が 寝違えたような状態です。
そして、背筋を伸ばしすぎて途中で つりました。
良い思い出です。
卒業式では、相槌200回を目指します🤤
グローバル・ディスカバリー・プログラムの同級生は、インスタにおいても英語で投稿していました。
今の私にはできません。
4年後には、Facebookの投稿が英語だらけになっているはずです。多分。
よろしくお願い致します。
妹のさやかに、毎日夜9時に安否確認のため連絡をするようにしています。
「おやすみ」でも「あ」でも「お」でも良いからメッセージを送り合おう!という決まりです。
安否確認とは言ったものの、本当は、1人では寂しいので妹に構ってもらいたいだけです。
「3日もすれば慣れるけん、大丈夫よ。」
と妹は言ってくれました。
その通り。
まだ3日も経っていませんが、妹に連絡するのが既に面倒です。
入学前後の週が、これほど忙しいとは思っていませんでした。

今になり、これまでいかに両親に頼り切っていたかということを痛感しています。
(痛感していますが、だからといって困っていることも特にないのでご安心ください。)
誰かが私が使用している家計簿アプリを覗くと、驚くでしょう。
かなり節約しています(自分としては)。
今の私は自分で稼いだ金で生きているわけではないので、
両親に頼っているのは今も同じです。
ありがとうございます。
父が人生で最も懸命に勉強に打ち込んだのは、大学生時らしいです。
高校でも、これでもかというほど勉強していたそうなのに(祖母は口を開けば父の勤勉さについて語ります)、
どんな勉強量だったんだろうと、私には想像もつきません(´-`).。oO
それにしても、家族に自分の投稿を見られるのって、気まずいというか何というか・・・普通に嫌。笑
玄関のチャイムが鳴ったので、この辺で止めます。
まぁ扉は開けませんが🤫😜」

「グローバル・ディスカバリー・プログラムのウェルカムパーティー」
親は子を思い、
子もあんがい親のことを思い。
離れてみて、分かることが多い。
ディスカバリーとは、「発見」すること。
大学生活で、新たな自分を発見してほしい。
多くの人との交わりの中で、新たな世界を発見してほしい。
それを通して、成長していける。
そんな時間は、とても大切だ。
岬人(はなんちゅう)

「グローバル・ディスカバリー・プログラムのウェルカムパーティー」