喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

家族でいっしょに働く

2013-11-29 | 田舎暮らし
 働くということで、農業や田舎の良さを感じることがある。
それは、家族でいっしょに働けるということ。
ゆったりと。

 写真は、ふるさと平礒での様子。



 弟の洋海と2人の娘たち、そして母。
6年ほど前のこと。
楽しそうに柑橘を選果。2・3歳の姪たちもお手伝いのつもり。
これがいいのだ。
親やばあちゃんら家族の働く姿を見て育つ。
どれほど大切なことか。

 

 これも6年ほど前の写真。
小学3年生の息子も喜久家ボランティアとして来てくれた
韓国のキリュウちゃんや埼玉のお姉さんたちといっしょにお手伝い。

 

 4年前、父と母の選果の様子。
父がこれほど笑顔で写真に写るのは、とてもめずらしい。
きっとよほど楽しかったのだろう。

 

 3年ほど前の収穫作業の様子。
娘がばあちゃんといっしょに汗を流す。
豊かな実りに感謝。


 働くということは、心豊かな人生を送るためにとても大切。
大切な人といっしょに働ける。
共働って、本当に幸せなことだと思う。

 そんな時間がふるさとには、流れている。

                      岬人(はなんちゅう)



14歳のハローワーク

2013-11-28 | ブログ
 11月27日(火)~今日29日(木)まで、四国最西端の三崎中学校では2年生が地域で職場体験を行った。
毎年のことながら、受け入れのお願いをすると、こころよく引き受けていただく。

 中学生にとっても、働くということを実感するきっかけとなる。



 三崎漁協の種苗場でパレットをきれいにしているところ。
このパレットにアワビが卵を産みつける。

 

 大分県佐賀関を結ぶ国道九四フェリーでの様子。
車の誘導を行っている。

 この3日間は気温も低く、強い北風が吹きつけ、とても寒かった。
そんななか、屋外での仕事や水を使った仕事はきつかった。

 

 消防署で、ロープワークを教わっているところ。
命と財産を守る最前線に立つ消防士。
かっこいいが、あまったれた気持ちではやっていけない。

 14歳のハローワーク。
働くとは、
① 自立すること
② 生きがいをもち、自分を成長させること
③ 誰かのために、自分を役立てること

 14歳の真剣な眼差し。
それを応援する地域の人の温かくて、きびしい眼差し。
明るい未来が見える。

 よし、今日は、もう少し仕事をがんばろう。

                 岬人(はなんちゅう)

世界最多の二宮金次郎(尊徳)像

2013-11-22 | ブログ
 二宮金次郎を調べていると次のようなブログを見つけた。

『金次郎の凄いところは、勉強していた事ではなく、何をしたのかにある

 というメッセージなのです。
 金次郎…名字帯刀してからの二宮尊徳は、多くの弟子たちを残し、後に一種のファンクラブを形成していく。
 そのメンバーは「報徳人」と呼ばれていくんですが、
面白いのは、彼らは良くみかける金次郎像の「薪を背負う姿」を必ずしも是としていないことなんですね。
 
 勉学をしていた金次郎を敬愛しているのではなく、理論と行動が一体となったその思想を尊敬しているんです。
 だから、氾濫を起こす酒匂川の堤防として「松の苗を植えた」エピソードを元に、
鍬を持った金次郎像を造っちゃったりするんですよ。

 さて、そんな金次郎は、そもそも何をした人なのでしょうか。
 実は、「ニノキン」は幕末の頃の農民なのでした。
 彼は農地改革や悪天候に強い作物を広め、藩の財政を建て直し、
幾多の村づくりなどに尽力して、後に武士の身分を許される。
 
 なので幼少のミギリは、苗字のない、天下の農民「金次郎」…のはず。
 像や史実を追っていくと、「二宮金次郎」という言い方をせず、
「二宮尊徳御幼少時」としている表記が数多くあります。
 
 そんな金次郎像は、同一人物としては世界で最多の数を誇ります。

               「日本の街角再発見 山ちゃんガハハより」 』

 
 二宮金次郎像の数は、何と世界一らしい。

 そこで思い出したのが、2年前ロサンゼルスに住んでいる後輩の、りえさんから送ってもらった写真。
ロサンゼルスのリトル東京にも、二宮金次郎像があるのだ。

 

 

 日本からアメリカに渡った人が作ったもの。

 中国でも持続可能な社会をつくるために、二宮金次郎の研究をする大学教授や学生もいるようだ。

 今、改めて注目されている二宮金次郎とはどんな人物なのか。

                             岬人(はなんちゅう)

 



二宮金次郎の子孫「中桐万里子」さんが伊方町に来る

2013-11-20 | ブログ
 昨日、11月19日(火)、二宮金治郎(尊徳)の7代目の子孫にあたる
中桐万里子さんが、伊方町に来られた。

 3年に1度の伊方町教育研究大会で講演。

 二宮金次郎は、1787~1856に生き、
江戸時代が終わる約10年前、70歳でその生涯を終えた。

 日本の多くの学校に建っている幼き頃の二宮金治郎の像。
成人してからは、身長182センチ。
体重94㎏。
小さくてかわいい子どもの頃とは比べものにもならないほど立派な体格。

 背中に薪を背負い、よく働き、
手には本を広げ、寸暇をおしんで勉強に励んでいる金治郎。
 多くの人にとってそんなイメージだろうか。

 というよりもそのイメージしかないかもしれない。

 でもさらなる二宮金治郎(尊徳)のすばらしさは、
成人してからのこと。

 そんな知られざる二宮金次郎を、
先祖だからこそ言い伝えられてきたお話を交えながら聞かせていただいた。

 ふるさと佐田岬にもピッタリとあてはまるものだった。

 詳しくは次回。

                岬人(はなんちゅう)

 

四国最西端の三崎中学校 文化祭

2013-11-18 | ブログ
 実りの秋。
この2ヶ月ほど、さまざまな活動があった。
充実していた。
バタバタしていた。
忙しかった。

 昨日、四国最西端の三崎中学校の文化祭があった。
大盛況に終わり、ようやく一息ついている。

 全校生徒81人の小さな学校は、温かく協力的な親や家族、地域のみなさんに愛されている。
昼休み企画、「おりづるの旅プロジェクト」
東日本大震災の被災地、気仙沼市の大谷中学校と交流が続いている。
今年もふるさとの秋の収穫「さつまいも」を贈る予定。
段ボール14箱の収穫。

 大谷中に届いて、持って帰りやすいようにビニール袋を入れる。
そしてそのビニール袋にメッセージを書いておくのだ。

 昼休み企画では、ビニール袋にメッセージを書く活動をした。
たくさんの人が、あたたかいメッセージを書いてくれた。

 そんななか、とても感動する場面があった。



 この女の子は、小学校低学年だろうか。
ていねいにゆっくりと思いをこめて書いてくれた。
「東北のみなさんへ みなさん、お元気ですか…」

 隣では、さらに幼い子がお母さんに見守られ、
隣のお姉ちゃんの様子をまねしながら、
心をこめて書いてくれた。



 なんて、すてきな親子だろう。
 人の痛みを自分のことのように感じながら、
自分にできる応援をする。

 子どもは、親や誰かのやることを見て育つ。

 ここ岬には、温かくて、自分らしい雰囲気が流れている。


                      岬人(はなんちゅう)

おもてなしの心

2013-11-15 | ブログ
 今週11月4日、喜久家が連携しているNPOナイス主催の
「アジア協働体をつくる・平和キャラバン 西日本編」があった。

 大洲市で歴史的にとても貴重な少彦名神社の修復作業を週末ワークキャンプとして実施。
本当に、すばらしい活動。

 九州にわたる貴重な時間をさいて、平礒にも6人が寄ってくれた。
また新たなつながりができ、平礒にも良き可能性が生まれただろう。



 私たち受け入れとしては、いつも喜んでいる。

 できるだけ良いもてなしをして、
来てくれた若者たちが、何かプラスになるものを手にして持って帰ってほしいと思っている。

 今回、6人が来てくれるということで、
いつものことだが、母が喜久家の掃除に行ってくれた。
 9月にベルギーのクラウディアが出発して2ヶ月経っている。

 クラウディアは、とてもきれいに掃除をしてくれて出発したが、
ほこりなどもあると思うので改めて掃除。
あわせて寝具のシーツかけなど。

 日曜日だったので、娘のひかるとさやかも手伝い。
 思いおこせば、7年前に喜久家に初めてボランティアの金吉純子ちゃんが来てくれることになり、
息子の武蔵、娘のひかるとさやか、姪のみゆとゆいも手伝ってくれた。
 幼いながらみんな荷物を背負い喜久家へ運び、ほうきやぞうきんを手にして掃除をした。
なつかしい思い出。

 妻は、夜、わが家でお茶でも飲んでもらためにそれらの準備。

 父は、外国の人が来られるということで、和風の母家の座敷を懇親会として使わせてくれた。

 そして弟の洋海は、いつものように律儀に送り迎え。

 家族みんなでそんなおもてなしの心。
うれしくなる。
これもまた田舎の良さ。

 喜久家に来てくれるボランティアを通して、
私の家族や地域の人たちのおもてなしの心が育まれている。

 
                      岬人(はなんちゅう)





つながるボランティア ~アジア協働体をつくる・平和キャラバン~

2013-11-12 | ブログ
 先日11月10日(日)。
久しぶりの再会にわくわくしていた。

 ふるさと平礒で、若者ボランティアとともに行う地域づくり「喜久家プロジェクト」。
今日この取組があるのは、東京に本部のあるNPO「NICE(ナイス)」のおかげ。
ここのスタッフが本当すばらしい。
今回、井口ヤスと宮岡のんちゃんとの再会があった。
2人とも何度か平礒に来てくれて、喜久家を支えてくれている。

 今回は、「アジア協働体をつくる・平和キャラバン 西日本編」ということで、
立ち寄ってくれた。
 これは、東・南・東南アジアがさらに関係を深め、豊かで平和な地域を創っていこうというもの。
その趣旨とそれに向けて1歩を踏み出す姿勢に感激。

 香港でボランティア団体を立ち上げているバード。
ベトナムで立ち上げているフック。
カンボジアで立ち上げているソパッド。
この3人もナイスとのつながりで来日し、この夢に向かい絆を深めている。

 さすがそれぞれの国の先駆けとなる3人。
とても意識が高く、そしてパワフル。
 そして愛媛から大洲でのワークキャンプに参加した宮岡あみちゃん。
語学が堪能で、グローバルな視野を持たれている。

 夜9:30分。到着してすぐに我が家で、喜久家プロジェクトを取材された録画番組を見た。



 アメリカのセーラと早川愛ちゃんがいたときのもの。
「ふるさと絶賛バラエティいーよ」



みなさんのこの真剣なまなざし。

 

我が家の家族と少しの時間話をして、記念撮影。
子どもたちにとって、いい刺激となった。

 この後、会場を母家の座敷に移し、和風のよさを感じてもらった。



 このあたりから、みなさんエンジン全開。
夜12時を過ぎて、次は弟の部屋に移動。
ゲームも入り、飲むほどに、しゃべるほどに盛りあがり、
楽しく熱い夜がふけていった。

 私は、午前2時をまわったところで、翌日の仕事にそなえた。
みなさんはまだまだ盛りあがっていたようだ。

 確かなことがある。
アジアの仲間は、すばらしいということ。
そしてボランティアには、何かを切り拓く夢があるということ。

 みなさんは、今日の昼前。
次の活動場所、九州の福岡へ出発。
 見送りには行けなかったが、佐田岬の尾根から九州へ向かうフェリーを見送った。

 岬には、夢がある。

                      岬人(はなんちゅう)

 
 

有田焼の祖  李参平

2013-11-10 | ブログ
 先週11月3日。
職場の旅行で佐賀県有田に立ち寄った。

 いつも旅でよくするように、まちなみ自由散策。
まずは、まちを一望できる高い場所をめざす。

 小高い場所にある陶山神社を参拝。
そしてそれよりもさらに高い所に足を進めた。

 

 写真が、最も高い場所からの眺め。
山あいの静かなまち、有田。
山あり、石あり、水あり。
ここから日本で最も有名な磁器「有田焼」が始まった。

 この場所には、記念碑が建っている。
すごくりっぱなものだ。

 

 近づいて見てみると、「李参平」と書いている。



 調べてみた。
 江戸時代初期、肥前の有田にて、日本で初めて磁器が焼かれた。
それまで、中国製磁器を購入していた日本人にとって、白く、硬く、
そのうえ中国製品よりは安価な国産の磁器の出現は、驚異的な出来事だったことだろう。

 有田焼の誕生は17世紀始めのこと。
 豊臣秀吉の時代、戦乱に明け暮れた武将たちの間で茶の湯が流行っていた。
茶の湯の指導的茶人であった千利休はわびさびの茶に導き、高麗茶碗を珍重していた。
秀吉は、そんな高麗茶碗を作り出していた朝鮮半島へとても関心を深めていたようだ。

 秀吉の朝鮮出兵の際、佐賀藩主の鍋島直茂は朝鮮から撤退する時に何千という朝鮮陶工たちを日本に連れて帰った。
そうした陶工の中の一人に、李参平(りさんぺい)がいた。
日本名を金ヶ江三兵衛(かねがえさんべえ)と呼んだ。

 李参平は、最初のうちは佐賀の多久にて陶器を焼いていたが、
なかなか納得のいくものができず、良質の原料、すなわち磁器を作るための陶石を見つけるために、旅に出る。

 多久から伊万里の地を経て有田に入る。
そして、1616年、ついに有田の泉山(いずみやま)にて、良質の磁石を発見。
山の磁石は磁器原料・質量ともに条件を満たすものだった。
そこから有田の窯業は急速に発展し始めた。

 李参平は、日本で初めて白磁を焼いた有田焼の祖と言われている。

 初期の有田焼は白い素地に藍色一色の模様が多かったが、
磁器発見から約30年後の1640年代に初代・柿右衛門が赤を基調とした「赤絵(色絵磁器)」を生み出す。

 1650年代からは、有田焼はオランダの東インド会社によりヨーロッパの国々に輸出されはじめる。
ヨーロッパに渡った有田焼は「IMARI」と呼ばれ、豪華な金襴手の品々は当時、純金と同じ価値で取引されていた。
ヨーロッパの王侯貴族の中には熱狂的なコレクターが非常に多かったと言われている。

 白い素地に描かれた赤・黄・緑・青などの美しい絵柄は、有田焼の代表的なもので今も世界中で愛されている。
あの有名な磁器「マイセン」も有田焼の影響を強く受けている。

 現在の美しくすばらしい日本の磁器は、朝鮮半島からもたらされたもの。
ちなみに土器は、日本の縄文土器が世界最古のものといわれている。

 新しいものを取り入れ、その土地、土地の風習や文化に取り入れる。
ちがいは、豊かさのもと。

 ふるさとを見つめる視点の重要な一つだろう。

                      岬人


 


日本の磁器発祥の地、有田  陶山神社

2013-11-08 | ブログ
 先日11月3日、佐賀県有田町に立ち寄った。
わずか1時間の自由時間。
さてどこを散策しようか。

 見知らぬ町へ行くと、つい裏通りなど趣のある場所を歩いてみたくなる。
その前に、できるだけ高い場所に行き、町を見下ろす。
山口県周防大島出身の人類学者宮本常一もそうしたらしい。

 神社や寺も興味深い。
陶山神社という看板が目につき、足はそちらへ進み始める。
急な階段を上って行くと一息つけるのだが、信じられない光景。
なんと線路が走っているのだ。
 
 1つ目の鳥居をくぐりすぐに2つ目の鳥居、さらに上にある3つ目の鳥居をめざす。



 あの上には何があるんだろう。
わくわくする。
 3つ目の鳥居は、何と白磁に淡いブルーの唐草文様が描かれた美しい磁器製鳥居。
これは、明治21年に陶工達が寄進したもので、いまや有田のシンボル的存在のようだ。



 このほか境内には有田焼の技術の粋を集めて焼成された磁器製の狛犬や、大水甕、灯篭などが奉納され、
窯業にたずさわる地元の人々の信仰心のあつさがしのばれる。




 
 何と太鼓まで有田焼。

 ここ陶山神社は、八幡宮で江戸時代(1658)に建立され、「有田焼陶祖の神」といわれている。
応神天皇(八幡神)を主祭神に、鍋島直茂公と李参平公を配祀する。
 有田の町を見下ろせる高台から、有田焼の窯元・商人および有田住民をお護りする社。

 霧雨が降っていて、私以外は誰もいない。
一人でお参りする由緒ある神社。
 わずかだったが、幸せな時間だった。

                  岬人(はなんちゅう)

有田の町並み ~ドンバイ塀のある風景~

2013-11-04 | ブログ
 昨日11月3日、雨。
職員旅行で佐賀県有田に立ち寄った。

 歴史的な古い町並みが好き。
何十年も変わらないような。
どこからか当時の人の足音が聞こえてきそうな、
そんな哀愁ただよう町並みに心惹かれる。

 有田といえば、有田焼で有名。
山あいの静かなたたずまい。
霧雨が降っていたが、ひとり散策してみた。



 窯業の町、有田ならではの『トンバイ塀』
有田の町には「トンバイ塀」と称する塀がある。
 
 トンバイとは窯を築くときに使う耐火レンガのことで、
使わなくなった窯をこわしたときにいらなくなった古いトンバイがたくさんでる。
 このトンパイを使って不要となった陶石などと赤土に混ぜて固めて塀を作った、
いわばリサイクルの塀。

 中には有田焼の破片も混じっていて、古美術に触れることもできるようだ。
 江戸時代、商人が町すじに店を構えていたのに対し、
窯焼は本通りからはずれた人通りの少ない場所に住み、
屋敷と仕事場をトンバイ塀で囲み製陶技術の秘密を守ろうとした塀なのだ。



 赤土とその焼粉を混ぜて固めた土塀の為、もろく一時姿を消しつつあったようだ。
 昔からの「トンバイ塀」と赤絵師や陶工達職人の歴史の重みを感じられる町並みは
有田町の上有田地区の泉山のいちょうの木から大樽の陶磁美術館(商工会議所横)までの通りにあり、
「トンバイ塀のある裏通り」と呼ばれている。



 ふるさと平礒の石垣でできた小道が頭に浮かんだ。
これもまた、未来に残したい風景。

                    岬人(はなんちゅう)