喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

2014 三崎高校物語   ~体育祭での感動の校歌斉唱~

2014-08-31 | ブログ
 8月30日、母校愛媛県立三崎高等学校の体育祭。
若者たちの情熱と汗、涙に勇気をもらった。

 閉会式での校歌斉唱もそうだった。
吹奏楽部の演奏で始まった、久しぶりに聞く母校の校歌。

 歌い始めから、顔をくしゃくしゃにして、声がかれそうになるくらい大声で歌う高校生たちの姿。
そんななかでも、一人の少女の姿が感動的だった。
体全身で母校を歌い上げた。
彼女の母校三崎高校を大好きな気持ちが、胸にぐっとせまる。



 うれしい。
こんな高校生が、母校の後輩にいること。

 卒業生のみなさんに知ってほしい。
私たちの母校三崎高校が、後輩たちのがんばりでこんなにも輝いているということを。

 彼女につらされて、校歌を口ずさんだ。


三崎高等学校 校歌

 作詞 末廣重之
 作曲 清家嘉壽惠


1 瀬戸の内海 宇和の灘
  歴史も深き 速水の
  渦にただよう 香あり
  花橘や 花橘や三崎校

2 誠集翁の 眠る地に
  慈愛の光 照りはえて
  真理の道を 一筋に
  希望あふるる 希望あふるる三崎校

3 伽藍の嶺を 仰ぎつつ
  ゆるがぬ誓 永久に
  平和を守る 礎と
  理想は高し 理想は高し三崎校

4 三崎の夜明 ほのぼのと
  文化の鐘は 高なりて
  若き生命は のび行かむ
  三崎高校 三崎高校栄えあれ



希望あふるる 希望あふるる三崎高校 
栄えあれ

         岬人(はなんちゅう)

2014 三崎高校物語   ~体育祭での少女の涙~

2014-08-31 | ブログ
 8月30日、愛媛県立三崎高等学校の体育祭。

 息子が三崎高校2年なので、体育祭を見に行った。
いくつかの感動のシーンがあった。

 圧巻は、集団行動。
指揮は、高校3年生の女子生徒。
体育の先生から、指揮をやってみないかと言われ、
「やらせてください。」
ととても難しい役割を自ら受け持った。
わずかな準備期間で的確な指示を出し、全体を統率できるようたいへんな苦労があっただろう。

 全体がまとまったみごとな集団行動だった。







集団行動終了後、ひと声かけた。
「すごくよかったよ。」

 それに対して、「ありがとうございます。」と
やりきった感の笑顔と涙がこぼれた。
きれいな涙。

 閉会式での成績発表。
生徒たちが最も力を入れた応援とダンス。
彼女の所属する白虎に勝利の女神は微笑まなかった。

 そのアナウンスを聞いた後、
うつむき必死で涙をこらえていた彼女だが、ときおりほほを流れる涙をぬぐった。



 心の底からわき上がる思い。
そして流れる美しい涙。

 若者には、夢がある。
三崎高校には、夢がある。
ふるさと佐田岬には夢がある。

                岬人(はなんちゅう)


 

愛媛県立三崎高等学校 体育祭 2014(H26)

2014-08-31 | ブログ
 愛媛県立三崎高等学校 体育祭 2014(H26)



 
 「三崎高校を大切に!」
の学校スローガンのもと、昔も今も変わらない若者たちの汗と涙。

 息子も高校2年。
私の父から始まり、わが家はみんな三崎高校へ通った。

 四国最西端の小さな小さな高校。

「 Small is beautiful! 」

 

教師という仕事

2014-08-30 | ブログ
 昨日、教え子が訪ねて来てくれた。
この夏休みは、今回で3人目。



 今から14年前。
彼女たちは伊方中学校に入学してきた。
良美は、バレー部。
理恵は、転校してきてバスケ部に。

 2人とも笑顔がとてもいい少女。
彼女たちのまわりは、いつも笑い声が絶えなかった。

 その後、保育士をめざした彼女たちは、ふるさとに帰り念願の保育士に。
やさしく、たよれる先生として園児たちにしたわれていることだろう。

 久しぶりに会った彼女たちは、輝いていた。
少女ではなく、すてきな大人として。
ときおり見せるはにかんだ表情が、昔を思い出させてくれた。

 教師という仕事は、本当にすばらしい。
夢のある仕事。
子どもたちの夢に乗っかって、いっしょに夢をみさせてもらえる。
 もちろんいい関係の時ばかりではなく、衝突することもある。
でもそれがあって乗り越えて、互いを信じられる。

 彼女たちとの久しぶりの再会に、改めて教師という仕事のすばらしさを感じた。

 ふるさとづくりは、人づくり。




                岬人(はなんちゅう)




岡山シーガルズ 2014 in IKATA

2014-08-28 | ブログ
 昨日8月27日と本日28日、毎年恒例の岡山シーガルズによるバレーボール教室や紅白戦、サイン会、交流会が開かれた。

 昨夜の交流会に参加し、すてきな出会いと再会があった。
詳しくは後日。




               岬人(はなんちゅう)

佐田岬 夏の風物詩

2014-08-27 | ブログ
 今夜、大洲からの帰り。
大久から名取にかけての海にあやしげな光。



 これぞ佐田岬、宇和海の夏の風物詩。
イカ釣り漁のための灯り。




 その綺麗さにイカならぬ私までも引き寄せられそうだった。
しばらく夜風に吹かれながらながめていた。
 
 秋を思わせるような涼しさ。

 そして聞こえてくるのは、秋の虫たちの声。
鈴虫、コオロギなど。

 未来に残したいふるさと佐田岬の風景。




               岬人(はなんちゅう)
 

22年ぶりの友との再会

2014-08-26 | ブログ
 今日はとてもうれしいことがあった。

 平成2年、大学を卒業し最初の職場が、愛媛県の野村中学校。
「シルクとミルクのまち 野村」
または酒をたくさん飲むので、「のむら」とも言われていた。
社会人をスタートし、情熱をかたむけた場所として私の原点となっている。

 2年目の平成3年、1人の少女が入学してきた。
おっとりとしていたが、大きな瞳はキラキラしていた。
 バレー部に入部してきたが、
「こんなはずじゃなかったのに。」
という厳しいトレーニングや練習が待っていた。
毎朝のトレーニングは、ナイロン袋に砂を入れ、それを両手に持ち1000㍍を走った。
冬の寒い朝などは、まつ毛が白くなった。
それでも彼女は弱音をはかず、黙々と取り組んだ。
思い出に残る一人だった。

 彼女たちとはわずか1年のつきあいだった。
転勤をし、卒業の姿を見られないまま別れることになった。

 あれから22年。
今年の春、フェイスブックで1通のメッセージと友だち申請があった。
あの時の少女。
 お互いのいろいろな話をするうちに、鹿児島で家庭生活を送っているにもかかわらず、
わが家のデコポンを素材に田村菓子舗が作ってくれた「浅野さんちのデコポンろーる」
をネット販売で購入し味わってくれるなど、理解を示してくれている。

 今ふるさとに帰省しているということで、今日わざわざ会いに来てくれた。
途中でご両親を亀ガ池温泉におろし、間もなく2歳になる娘といっしょに。
 
 予定通り午後2時に三崎に到着したという連絡が入った。
急いでかけつけると、娘を抱いて立っていた。
あの時の少女が、すてきな女性に成長し、子育てを頑張っている、楽しんでいる。
特徴ある大きな瞳は今でもキラキラしていた。

 暑さがしのげて、子どもが動き回っても安全な場所ということで、
二名津の田村菓子舗前の芝生公園に行くことにした。
 日陰になっている店の前のベンチに座ると、浜風が路地を伝って流れてきた。
そんな心地よさのなか、昔の話や大人になってからの話、今の思いなど次々と話がわいてくる。
娘は、お母さんの胸に抱かれているのがいいらしく、ずっと抱っこをせがんだ。
その時は、やさしく、大らかに包みこむ母となっていた。
少女だったり、大人の女性だったり、母だったり。







 楽しい時間はあっという間に過ぎ、帰ることになった。
友は、おめあての「浅野さんちのデコポンろーる」を買って、持って帰ることにしたようだ。
せっかくなので、田村菓子舗の他のお菓子もお土産に贈った。
わが家の「清見ジュース」といっしょに。

 友からも野村ホワイトファームのおいしいアイスクリームをお土産にもらった。
今夜わが家では、取り合いになるかも。



「今度は、もっとゆっくりとお話ししましょう。」
友と約束した。

 出会いは、人を変える。
出会いは、宝物。

                   岬人(はなんちゅう)

 


盆踊り

2014-08-25 | ブログ
 盆踊りをふり返っている。
父に昔の平礒の盆踊りの様子を聞いたり。
 今は、お寺で行っているが、かつて父が若い頃は「下の川」の
現在は柑橘園になっている場所で行っていたとのこと。
 今のように電気提灯もないので必ず満月の夜に行われていたようだ。
もちろんレコードといった物はないので、口説きにあわせて踊っていたとのこと。

 そういったことを初めて聞いて、盆踊りについて調べていたら、
産経新聞に以下のような興味深い記事があった。



                               「今年の平礒の盆踊り」

『盆踊りは歴史が長く、無形文化財から近年の新作までじつに
多様な音曲と踊りが、同じ「盆踊り」という言葉で呼ばれている。
 地方によっては、念仏踊りや踊り念仏、風流踊りなどの古い名前や形が残っている。

 盆踊りの歴史の中で、明治を境にした変化は甚大だ。
明治期には「盆踊りは風紀を乱す」とたびたび盆踊り禁止令が出され、
それでも踊ろうとする人々と、取り締まる警察のぶつかり合いが繰り返された。

 その後大正、昭和には炭坑節や東京音頭などの新たな踊りが作られ、
近代の盆踊りへと様変わりした地方は多い。

 盆踊りの源流は、平安時代の空也が創始し、鎌倉時代の一遍(愛媛県松山市道後生まれ)が各地に広めた踊り念仏だといわれている。
一遍や同行の僧尼たちは、念仏で救われる歓喜に服もはだけて激しく踊躍(ゆやく)し、
法悦境に庶民を巻きこんで大ブームを起こした。
 その後、宗教性よりも芸能に重きがある念仏踊りが生まれ、
人々は華やかな衣装や道具、振りつけや音曲を競って盛んに踊った。

 芸能が百花繚乱(りょうらん)となったこの時代、
経済力や自治力を強めた民衆は、次々と新奇な趣向に旺盛な創造力を発揮していった。
 江戸時代の初めには盆踊りは絶頂を極め、ある年の江戸では7月から盆踊りが始まって、
連日踊り明かして10月になっても止む気配がなかったという。

さて、この盆踊りが明治以降、取り締まられるようになった理由の「風紀を乱す」とはどういうことだろうか。
明治以前の日本では、通い婚の伝統のためもあり、婚外性交への規制は、武士以外はきわめて緩かった。
未婚の男女が出会ったり、既婚者たちが一時的な関係をもったりする機会も数々あった。

 万葉集にも「人妻に我も交わらん 我が妻に人も言問へ…」という筑波山の歌垣(かがい)を詠んだ歌がある。
歌垣は各地で行われ、盆踊りと結びついた例も多い。

 ざこ寝という、男女が一堂に泊まって乱交を行う風習も起こり、盆踊りとも結びついた。

 民俗学者の赤松啓介氏は、昭和初めに自分でざこ寝を体験したと述べ、
またざこ寝堂は近世の農村にはほとんどあったとみてよいと言っている。

 日本では性は神聖なものとされ、盆踊りのほか、念仏講、御詠歌講、神社の祭礼など民衆の宗教的な行事の
中心には、日常的な営みとは違う聖なるセックスがあるべきだと考えられていたようだ。

 風俗史家の下川耿史氏が詳述しているように、盆踊りは性的な乱交の交わりだったのだ。
そして日本中を熱狂で揺るがすようだったかつての盆踊りの隆盛は、性が解放されるエネルギーをこそ原動力にしていた。

 盆踊りの歌詞も、もとは性的な表現にあふれていた。』


 風習というのはおもしろい。
暮らしの中から生まれ、または消えていく。
 先人たちのそんな足跡を見ていくことはおもしろい。

               岬人(はなんちゅう)


 

   

もう霊  文化庁「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」を記録撮影

2014-08-23 | ブログ
 平成22年、佐田岬半島(伊方町)の初盆行事が、
文化庁の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に指定された。

これを受けて、13日におしょろい棚の記録作成のため東京から株式会社「桜映画社」のスタッフ3名が来られた。
そして翌日14日には、再び平礒を訪れ、もう霊を撮影された。

 これもあってか今年のもう霊は、人が多かった。
30人はいたと思う。
これほどの人が集まったのは、記憶にない。
初盆の家はもちろん、先祖は喜んでいるだろう。

 フクロイ瀬に着くとまず笹舟を作り、海に流す。
おしょろい船だ。
初めて来た人、幼い子どもにその作り方を教える場面がそこここに見られる。




 次に今年新調した鉦(カネ)や太鼓に合わせ、円を描いて歩く。
鉦は私の父。太鼓は前を春おっちゃん、後ろを亀おっちゃんがかつぎ、亀おっちゃんが太鼓をたたく。

 鉦をたたく人が、
「氏神さま、お受け取りなされ」
「氏仏さま、お受け取りなされ」
「そうたん殿、お受け取りなされ」
そして、この1年で亡くなった2名の方
「○○殿、お受け取りなされ」
と言って、合図を出す。

 それに合わせて、周りの人が
「な~もみどう~」と言う。
この言葉は、「南無阿弥陀仏」という言葉が変化したもので、
これをとなえながら時計回りで歩く。





 これが終わると、父がそれぞれみなさんが持っていた笹を集め束にして、海に流す。

 そして最後は、天神崎の方へ向かい、まなご石を自分の歳の数だけ拾い、 神様に捧げる。



 若い人は数えやすいが、歳をとった人はたいへんだ。



 行事はこれで終わりとなる。
初盆を迎えた家の方からお酒、お菓子の接待を受け、帰って行く。
昔は、くずしなどを炊いて持って来て、ここでしばらく飲んだらしい。



 平礒のもう霊は、華やかさは全くないが、
その素朴さに先祖供養の原風景があるような気がする。

 未来に残したいふるさとの風景だ。

                    岬人(はなんちゅう)






お盆をふり返る  お寺参り

2014-08-23 | ブログ
 お盆14日午前中、わが家の本寺である三崎の傳宗寺をお参りする。

今年も父、私、息子、娘たち2人で傳宗寺を訪ねる。

 本堂でお祈りし、奥にある位牌堂へ向かう。
正面向かって右端にわが家の位牌がある。

 父が床に正座し、手を合わせる。
私も子どもたちもそれを見習う。
 そして父の口から流ちょうな般若心経が唱えられる。
私も全部は覚えていないが、ところどころ知っているところは声を合わせ唱える。

 

 先祖という目に見えないものをどれほど感じられるか。
そう、それは心で感じるしかない。
生かされている自分を感じる。

 そして、これから未来の子孫のためにも自分を生かしたい。

 心静かに感謝の気持ちで手を合わせる。
こんな時間を大切にしたい。

                   岬人(はなんちゅう)

 

お盆をふり返る  14日朝、盆踊りの準備

2014-08-23 | ブログ
 ふるさとのお盆をふり返っておきたい。

 13日午後、おしょろい棚を組み立て、先祖をお迎えする。

 14日朝7:30。盆踊りの準備のためお寺にあがる。
準備を担当するのは、消防団員。

 ここ3年ほど息子も
「お父さん、僕も盆踊りの準備にいっていい?」
と言い、準備に参加している。
 地域を盛り上げるために積極的に参加しようという気持ちは大切なこと。

 準備としては、お寺の掃除、盆踊りの曲を流す機器の準備、太鼓や提灯の準備など。
今年は、天気が悪そうだったので、太鼓と提灯は夜の盆踊り直前に準備することになった。

 私は、お寺への上がり口を掃き掃除。





 30分ほどで準備も終わった。
小さいながらほどよくまとまっている、このこぢんまり感がいい。

 昔と変わらないお盆14日朝の活動だ。

                    岬人(はなんちゅう)

 



わが家ライブ 2014  ~夜~

2014-08-17 | ブログ
わが家ライブ 2014  ~夜~



 
 夕方6時から始まった「わが家ライブ」
あたりもしだいに薄暗くなり、涼しい浜風も吹き始めた。

 芝生公園のライブ会場も隣の屋台会場も最高潮。

 最後は、増田克仁さんの感動のあいさつと歌「上を向いて歩こう」
を会場全員で歌う。


 二名津のすばらしい地域力。

2014(H26) ふるさと平礒のお盆  おしょろい棚

2014-08-17 | ブログ
 佐田岬半島には、古いお盆行事がそこここで遺っていて、
受けつがれている。

 平成22年、佐田岬半島(伊方町)の初盆行事が、
文化庁の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に指定された。

 これを受けて、記録作成のため東京から株式会社「桜映画社」のスタッフ3名が来られた。
桜映画社は、1955年創業。
ETV特集、新日本風土記、NHKハートネットTV、カンブリア宮殿、ガイアの夜明け、美の壺など
信念を持った数多くの作品を製作されている。

 13日、お盆ということで先祖を迎える。
 おしょろい(御精霊)様つまりご先祖を迎えるために棚を組み立て、
仏壇から位牌を移し、夏野菜や料理お供え物を供える。



 今では、平礒の中でもおしょろい棚を組み立てる家は少なくなったと聞く。
そこで、未だに引き継いでいるわが家のおしょろい棚と
初盆(みぼん)を迎える河野一郎さんの家のおしょろい棚を撮影。

 あととりの私も父から教えを受け一緒に組み立てているが、
数年前から息子にも引き継いでおきたいと思い、
手伝いをさせている。
 祖父から孫へのバトンリレー。







 
 おしょろい棚を組み立てた後、父と息子が縁側に腰かけ、
何やら話していた。
 父は、物心もつかないうちに、自分の父親を太平洋戦争で亡くしたため、自分の祖父を父親の代わりとして育った。
まさにそんな光景を想像させる。



 将来、息子が祖父を良き先祖として語りついでくれることだろう。
ふるさとのお盆には、大切なものが残っている。

             岬人(はなんちゅう)