昨年秋、伊方町町見郷土館からすばらしい図書が発行されました。
それは、「佐田岬民俗ノート」。
佐田岬半島は、豊かな自然と独特の地形によって、四国と九州の往来をつなぐ橋となり、
瀬戸内海と外の海をつなぐ港となって、はるか昔からさまざまな人々が行き交いました。
そして、この半島ならではの歴史を刻み、この地で何代も前から受け継がれてきた、
私たちの暮らしや文化がありました。
「民俗」とは、代々伝承されてきた私たちの暮らしのことです。
衣食住や、各地区の行事・信仰、農業や漁業、職人さんの技、子どもの遊びなど。
この本を通じて、ふるさと佐田岬半島に興味を持ち、その多面的で奥深い魅力を再発見していきたいと思います。
【国の天然記念物 あこう樹】
岬人(はなんちゅう)
神社の数は全国に約8万社もあるんです!
文化庁文化部宗務課「宗教年鑑」の平成30年版によると、神社本庁などに属する被包括法人が8万2677、
明治神宮や靖国神社のようにいずれの団体にも属さない単立法人が2056とあります。合計8万4862です。
これが神社の数に近いと見てよさそうです。
少なく見積もっても全国に8万社以上ですよ!
仮に全ての神社で御朱印をいただいたとすると大変ですよ。御朱印帳の両面を使って紙の厚さを0.1mmとしても4mの厚さになります!
お賽銭を100円ずつとしても800万円!
そして、1日に10社参拝したとしても22年もかかります!
文部科学省の平成30年度学校基本調査によると、全国の小学校の数は1万9892校、中学校は1万270校、高等学校は4867校、大学は782校。
そのほか、幼稚園や専修学校などもろもろ合わせて5万5654校です。
コンビニの数は、2019年1月時点での店舗数は5万5779店です。
お寺さんは、神社と同じくらいといってもいい約7万7000寺なんだそうです。 〈はぶてんブログより〉
ふるさと平礒の神社も、全国8万4862の一つ。
日本の神様は自然崇拝による。
山、そこにある豊かな森。神様はそこに宿っているが、拝む場所としてその入り口に神社が作られたという。
【鎮守の森 椋の樹】
娘たちと初詣に行った。
プラス、忠犬のボン。
以下、「ハッケン ジャパン」を参照にした。
まずは、左側の
手水舎(ちょうずや/てみずや)
参拝の前に、手や口をすすぐための水場が手水舎。
日本の神様がもっとも大事にされるのは「清浄」であること。そのため、古くは参拝の前に川に入り心身を清めていたのだ。
手水舎で手などをすすぐのは、それを簡略化したもの。心のけがれも水に流す気持ちで行いたい。
鳥居(とりい)
神社は神様のいらっしゃるご神域。鳥居はその「聖域」と、私たちが暮らす「俗界」を隔てるもの。
鳥居から先は神様のいらっしゃる場所であることを示している。
鳥居をくぐる時はその前で一度立ち止まり、「失礼いたします」という気持ちでお辞儀をする。
狛犬(こまいぬ)
社殿や参道の両脇に置かれている狛犬の像。神域に魔物が侵入しないように見張り、神様を守護する役目を持つ。
狛犬ではなく狐や牛、猿など別の動物の像が狛犬の代わりになっている神社もある。
参道(さんどう)
入口にある鳥居からつづく道。神社によっては玉砂利(たまじゃり)が敷いてある。
参道を歩くということは、一歩ずつ神様の世界に近づいていくということ。玉砂利を踏むシャリシャリという音は身を清めるともいわれている。
参道の中央は「神様の通り道」とされているので、脇を歩くようにしよう。
御社殿(ごしゃでん)
神社の中心になる建物。手前から順に、お参りのために参拝者が並ぶ「拝殿(はいでん)」、お供え物を並べる「幣殿(へいでん)」、
さらに神様のいらっしゃる「本殿(ほんでん)」という構造になっているところが多い。
本殿の扉は固く閉ざされ、中を見ることはできない。でも、神様の側からは参拝者がよく見えている。
平礒には、御社殿の奥に、鳥居そして社がある。
父に聞くと恵比須神社とのこと。
平礒の旧組頭が浜で祀っていたものをここに移したというのだ。
【旧組頭が、浜から移した恵比須神社】
そしてその脇には、6つの境内社がある。
境内社(けいだいしゃ)
中心となる御社殿とは別に、境内にいくつかの小ぶりなお社を見かけることもある。
これらは摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)と呼ばれるもので、総称して境内社という。
摂社はその神社のご祭神とゆかりのある神様、末社はご祭神より古くからその地でまつられていた神様のお社である場合が多い。
昨年令和元年、平礒出身の梶原道徳さんが、この境内社の修復にお金を寄進してくれた。
その修復作業を中心となって行ったのが父である。
それまで木造であったため朽ちてしまい、どのような神様が祀られているか不明なものもあった。
様々な調査をし、これから永く平礒を見護っていただけるよう石造りの社へと変わった。
手前から
このような話も娘たちに伝えながら、お参りをした。
過去の歴史や、そのときに生きた先人たちの足跡が少し見えた気がする。
どんなに小さなふるさとにも、まちがいなく歴史があり、今につながっている。
そんなことを感じようとする気持ちを持ち続けていきたい。
岬人(はなんちゅう)
今では、随分と簡素化されてきた年末年始の正月に関すること。
伝統や文化を大切にする父の考えで、我が家ではそういうわけにはいかない。
したがってかなりの手間がかかる。
最近父は、孫娘に頼ったり、引き継いでいくことも多い。
それを自分の役目のように担っている娘。
〈神々へのお供え〉
【年神様】
【屋敷の神様】
【床の間 天照大御神様】
【左:お大師様 右:お不動様 】
【恵比須様】
【荒神様】
【左:鍾馗様 右:地神様】
【鳥居】
これら全てに手を合わし、感謝する。
双子の姉は、一人暮らしでも毎日手を合わしているようで、様になっている。
そしてようやく、お下がりのお餅で、お雑煮をいただく。
とりたてて、珍しいお雑煮でもないが、薄味で食べやすい。
庭に咲く椿に、初春を感じた。
未来に残していきたい我が家の風景だ。
岬人(はなんちゅう)
年の瀬12月30日から新年1月1日にかけて。
毎年の年末作業である注連縄作り。
若い頃は、あまり気にも留めず、父に任せきりだった。
ここ数年、ようやく意識し始め、それを受け継ごうとしている。
宇和町の妹の嫁ぎ先から稲藁をいただき、注連縄飾りの準備に入る。
倉庫で40本の注連縄作り。
「おー、だいぶん上手くなったのー。」
あまり褒めない父からの言葉に、うれしさと自覚が増す。
そして、こう返す。
「後は任せておきないよ。」
次に、父の口から出た言葉。
「おらは、これを高校のときからしよる。親父が戦死したけん、おらがせないけんかった。
もう65年になるかのー。」
この言葉に、返す言葉が出てこなかった。
先ほどの自信が吹き飛んでいく。
私が意識し、手伝い始めたのは、ほんの少しだ。
家のために、良い正月を迎えるために、まだ高校生の頃からやってきた父。
それを淡々と自分の役目として、65年。
そんな父に比べれば、歳はとってきたが、私はまだまだ「ひよこ」だ。
親とはこういうものだろうか。
40本の注連縄飾りは、家の中の神様が宿るところに全て、車やバイク、倉庫にいたるまで飾り付けられ、
感謝と家内の安全と繁栄を祈る。
注連縄作りが終わると、2本の大注連縄作りに取り掛かる。
しっかりと締めるために息子も加わり、3人がかり。
というよりも、その作り方をしっかりと学ぶための方が大きい。
こうして、親から子、そして孫へと受け継がれていく。
我が家にとって、このような作業はとても大切なもの。
お金を出して買った方が世話がないのであろうが、「priceless」なことの一つなのだ。
いよいよ門に飾り付け。
先日収穫された伊予柑も結びこむ。
年神様のお越しを歓迎する準備は整った。
そしてもう1か所。
屋敷の神である「地神様」と我が家を護る「鍾馗様」への門である鳥居に飾り付ける。
そこに母がやってきて、その出来栄えを二人で見つめている。
小さな幸せのひとときだ。
幸せは、こんな日常の中にこそ感じられる。
淡々と生きる大切さ。
そこには、幸せがつまっている。
岬人(はなんちゅう)
年の瀬、12月29日。大掃除や正月の準備で忙しい。
そんなときに、父が
「ちょっといいか。一緒に来てくれや。
新しい倉庫がほとんどできあがったけん、見に行こうや。」
我が家のハルサキに建てていた倉庫を、県道の拡張のためにソトガイチに移転させることになった。
県との用地買収交渉から業者との契約、そして施工等、大変困難を伴っていた。
父は、それを中心となって進めてきた。
ようやく前に進み始め、そして完成間近を迎えている。
倉庫の使い勝手を知り尽くした渾身の作。
これまで幾度となく、建設に対するその思いや利便性、そして将来的な可能性を聞いた。
頭だけで考え、経験が伴わない私たちのアイデアとは、比べものにならない。
したがって、全て賛成、応援してきた。
80歳を超えた父が、この倉庫を誰のために、どんな思いで建てたのか。
全ては、後を受け継ぐ者、未来の新たな可能性のためだ。
そのためなら、お金も、その苦労もいとわない生き方。
そんな考え方、生き方をしっかりと感じておきたい。
みかん畑を示しながら、ふるさと平礒の移り変わりと明るい未来についても語ってくれた。
こんな父との限りある時間を大切に思い、楽しんでいる。
岬人(はなんちゅう)
1月23日(土)13時開会、文部科学省主催の「令和2年度全国いじめ問題子供サミット」に、
三崎中学校が愛媛県の代表として参加します。
参加児童生徒数は、47自治体(都道府県・指定都市)/ 71校
小学生22名、中学生171名、計193名
三崎中学校からは、3年生1名、2年生2名、計3名の参加。
昨年度までは、東京の文部科学省にて行われていましたが、今年度はコロナ禍のため、
オンライン開催です。
【教室に掲示されている三崎中生徒会宣言: いじめゼロに向けての思いが込められている】
〈目的〉
いじめは、どの子供にも、どの学校でも、起こり得る問題である。
子供たちの中でいじめに関する意識を高め、自らいじめの問題に取り組んでいくことが、
いじめの未然防止、早期発見に効果的である。
子供自身の主体的な活動に積極的に取り組んだ地域や学校の児童生徒が集い、交流する機会を設けること
により、このような活動の中心となるリーダーを育成するとともに、全国各地で創意工夫を凝らした多様な
取組を一層推進する。
〈令和元年度 全国いじめ問題子供サミット〉
岬人(はなんちゅう)
本日、1月19日は、53回目の誕生日。
母家の両親にそのことを伝えに行く。
そして感謝を伝える。
同時に、自分が生まれる直前のことから生まれた後のこと、
そのときの親の気持ちを根掘り葉掘り聞いた。
初めて聞く話もあった。
それを聞いて熱くなった。
いくつになっても親であり、子である。
その話を記しておきたいのだが、息子と呑み過ぎて、今は記すことができない状態。
多くの知り合いのみなさんから、お祝いのメッセージをいただいた。
本当にありがたい。
心が、喜びと幸せに満ちている。
お礼をお伝えしたいのだが、今夜はできそうにない。
せめて、ありがとうございました。
岬人(はなんちゅう)
1月16日(土)、ウジナのデコポンを収穫。
1週間前の大雪で雪害が心配されていた。
でも、デコポンはたくましかった。
皮をむいて食べてみたが、味は上々。
天気も良く、岬の空の青さと柑橘のオレンジ色が、喜びを高めてくれた。
猫の手も借りたいくらい忙しかったので、我が家の犬もついて来た。
佐田岬は、1年中で最も忙しく、喜びのある収穫のときを迎えている。
近くにお越しの折は、声を掛けてくれたら、一つご馳走いたしましょう。
岬人(はなんちゅう)
1月11日、7日午後から降り始めた雪は、5日目に入り、雪どけが進んでいる。
道路もほぼ通れるようになった。
西予市宇和町に住む妹や松山市に住む姉から、心配の連絡が何度もあった。
ようやく胸をなで下ろしたことだろう。
1月11日午前中
1月8日夕方
雪の様子の変化。
1月9日
1月10日
1月11日
みかんの樹の雪は、ほぼない。
1月11日
心配していただいたみなさん、ありがとうございました。
必ず乗り越えていきます。
岬人(はなんちゅう)
1月10日、7日午後から降り始めた雪は、記録的な大雪となった。
そしてようやく4日目の10日、陽が照り始め、雪どけが徐々に進んでいる。
写真は、夕方、西に傾く太陽。
凍結していた水道も破裂することなく、水が出始めた。
窓からの景色も少しづつ変化し、みかんの樹や実が見えてきた。
大雪の峠は越えたようだ。
多くの方から、雪害の心配をする連絡が届いた。
ありがたい。そして温かい。
外にも出られないので、今回の大雪の記録を残しておこうとブログを書いている。
記録と記憶。
生涯、この年のことは忘れないだろう。
岬人(はなんちゅう)
1月9日午後、時折太陽が顔をのぞかせるものの、雪は降り止まず。
両親から昭和42年や昭和52年の豪雪の話を聞いた。
そのとき、新たな事実も知ることができた。
父曰く、「豪雪と干害は、一緒に起こった。」
昭和42年・52年の豪雪の年は、夏場は雨が降らない干害にみまわれたようだ。
伊方では、柑橘への潅水のため、水をめぐって傷害事件まで起こったことを聞いたという。
また、昼間は農作業をし、潅水は夜に行われるので、疲労のため健康を損なったり、事故を起こす人もいた。
父母は、当時を振り返り、「あの年は、本当、大変やった。」
と、まるで人ごとのようにサラッと言った。
たくましい。
「土と共に生きる」「土を愛する」とは、このような姿勢を言うのだろう。
両親の話を聞いて、インターネットで検索してみた。
「四国災害アーカイブス」という各市町が編纂した市町誌をまとめた、すばらしいサイトを見つけた。
〈昭和42年(1967)〉
〇6月~9月:干ばつ。被害状況は不明。 (旧瀬戸町)
〇7月20日~9月12日:総降水量は5.2ミリの大干ばつで、伊方八幡神社及び九町八幡神社で大雨乞いが行われた。(旧伊方町)
〇12月30日:大雪。伊方中学校観測所の最深積雪25cm、30日の最低気温-2℃。(旧伊方町)
〇大雪により、三崎町で雪害。(旧三崎町)
〈昭和52年(1977)〉
〇7月20日~8月14日:干ばつにより、果樹の落果、葉巻き、枝枯れが多かった。(旧伊方町)
〇2月18日:寒気のなだれ込みにより、三崎町で-6℃を記録した。(旧三崎町)
〇2月17日~19日:大雪、低温。伊方中学校観測所の最深積雪18cm、最低気温17日に-5.4℃。(旧伊方町)
まさに父母が語った話と一致する。
あれから54年または44年がたつ。
それ以降、雪害については、地球規模での暖冬ということもあり壊滅的な被害はなかったという。
まさに今回、災害は忘れたころにやってきた。
それを踏まえて父は、自然災害に対するいくつかのことを農業経営のポイントとしてあげた。
①柑橘の木全体を網で覆うことが、鳥害・雪害には効果的であり、費用対効果がある。
➁現在は清見タンゴールが主な品種だが、適地適作を考えた、越冬しなくてもよい新たな品種を探る。
農業経営の第一線を退いた父母だが、考え方は常に先を見据えている。
歴史や先人・お年寄りから学ぶことは多い。
岬人(はなんちゅう)
1月9日午後、時折太陽が顔をのぞかせるものの、雪は降り止まず。
両親から昭和42年や昭和52年の豪雪の話を聞いた。
父曰く、「自然相手でどうしようもないことはあるが、何とかなることもある。」。
最悪の事態で最善を尽くす、ということ。
どういうことかというと、大雪が降り続き、それでも何とかしたいという思いで、甘夏の収穫に出かけたということ。
膝にとどきそうな積雪の中、二人でみかん畑に入って行った。
下枝の甘夏だけでも収穫し、摘み取ったものは、そのまま雪の中に置いたらしい。
収穫袋やコンテナは、なかなか使えず、雪の中に置いたほうが寒さをしのげると考えたようだ。
やがて雪が溶け、拾って回った。
両親の何とかしたいという思いと、雪が降る中での収穫を想像したとき、改めて尊敬と感謝の念がわきおこる。
こんな話を聞けてよかった。
子どもたちに語り継いでいきたい。
家やふるさとは、このような物語があって引き継がれてきたのだから。
岬人(はなんちゅう)
大雪の様子を写真に撮っていた。
深く積もった雪の中、杖を付きながら歩くあばちゃん(77歳)がいた。
後ろ姿からヨシエおばちゃんと分かり、声をかけると、こちらを振り返った。
私: すごい雪やなー
おばちゃん: がいな雪やなー。 平礒へ嫁に来て、こんな雪、見たことないなー。みかんが心配やなー。
私: 本当そうやな。 滑らんように気を付けてな。
おばちゃん: はーい! ありがとう。
ヨシエおばちゃんが言っていたみかんへの雪害。
母屋の両親から話を聞いてみた。
私: こんな大雪は今まであったかな。
父: こんな大雪は2度あった。
昭和42年と10年後の昭和52年やった。全国的には昭和38年の「サンパチ豪雪」がすごかったけど、
このへんは、それよりも昭和42年がすごかった。何日も雪が降り続いた。
私: みかんはどうなったん?
父: 全滅よ。あの頃は橙やったが、糖分が低いけん寒さに弱い。
雪にやられて、苦くなり、商品にはならんなった。
雪が溶けて、収穫し、全部、ヤマンダキに捨てた。その年は収入ゼロやった。
昭和42年。これは、私が生まれるちょうど1年前の大惨事。
2回目の昭和53年のときはのことは、強烈な出来事として鮮明に覚えている。
同じようにトラックいっぱいに積んだ甘夏を、父母はヤマンダキから次々に捨てていた。
その1つを剥いて食べて、とても苦かったことをはっきりと覚えている。
その時には、はっきり分からなかったことがある。
1年かけ汗を流し育てた甘夏を、涙ながらに捨てる両親の心境。
自然を相手にする農家にとって、自然はどうすることもできない。
それでも、生きるため、引き継ぐために、あきらめず工夫や努力をしながら立ち上がっていく。
そんな話を聞きながら父母の顔を見ると、熱いものがこみ上げてくる。
尊敬と感謝。
語り継いでいきたい話だ。
岬人(はなんちゅう)