喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

~人はいつまでもふるさとを身につけている~ より思う

2012-04-30 | ブログ


 写真は、ふるさと平礒の春祭りの幟。
私は、昨年家族で引っ越して帰り、両親や弟と一緒に暮らしています。
 したがって、これからは春祭りの幟も見ることができるのです。
それが幸せの一つなのだと、思えてきました。

 姉は、高校を卒業と同時に愛知県一宮市にある短大に進学しました。
ソニーの工場で働きながらの勉学でした。
 
 そんな姉がふるさとを旅立つときのことをはっきりと覚えています。
 当時は、今のメロディーラインは開通しておらず、
海岸沿いの道をくねくねと曲がりながらバスで八幡浜まで出ていました。
今でこそ50分くらいで行けるのですが、当時は、その2倍以上も時間がかかりました。
 
 もう一つの方法は、船で八幡浜へ出る方法。
後に高速船に変わりましたが、ポイントとなる浦々へ立ち寄らなければいけないので、
やはり時間がかかるのです。

 姉は、三崎から船で旅立ちました。
バッグを両手に波戸から船へと乗りこみます。
ふるさとの地を離れた最後の足は、波で揺れる不安定な船の甲板へと。
泣いていました。

 心も同じように揺れていたことでしょう。
ふるさとに帰れるのは、お盆とお正月だけ。
見知らぬ土地へ、見知らぬ人たちのなかへ。

 波戸にくくりつけているロープをほどいた船は、
バックで陸から離れていきます。
その時に船のスピーカーから「ほたるの光」が流れてきました。
2度目の卒業式のようでした。
見送りの人たちも涙を流しながら、方向転換しスピードをあげた船に大きく手を振り、
見えなくなるまで見送りました。



 あれから25年ほど時が流れました。
姉は、県内松山の人と結婚し、今は西条に住んでいます。
年に4回くらいは帰って来ます。
ふるさとは落ち着くのでしょう。

 人の数ほど、ふるさとへの思いもあり、さまざまです。
その人たちが大切に思っているふるさとに、
私は今暮らしているのです。

 それは、それは幸せなことだと思っています。


 

人はいつまでもふるさとを身につけている (ラ・フォンテーヌ)

2012-04-30 | ふるさと

 日課である若松進一さんのブログを開く。
心にとまる言葉が入ってきた。
「ふるさと」という言葉に敏感になった。

 今日の若松さんのブログを読んで、
自分や姉の旅立ちの日の様子がよみがえってきた。


『○人はいつまでもふるさとを身につけている

 私の同級生が死んだということを風の便りで聞きました。
自分ではまだまだ若いと思って暮らしているのに、いつの間にか同級生がひとりまた一人死ぬと、
自分もその歳になったのかと、いいようのない寂しさがこみ上げてきます。

 その同級生は中学校を出ると間もなく集団就職列車に乗って中部地方へ就職して行きました。
 京阪神なら修学旅行で行ったこともあるし、瀬戸内海には大阪~松山~別府の関西汽船が走っていて、
帰ろうと思えば直ぐにでも帰れたのでしょうが、
当時の名古屋のある中部地方など、地球の果てではないかと思うほど、遠い所だと思っていました。

 終着駅で始発駅だった宇和島発の集団就職列車は、
田舎の駅々でオカッパや丸刈りの昨日中学校を卒業したばかりの子どもたちを乗せ、大都会を目指したのです。

 家業を継ぐか進学するか直前まで迷った私は、すれすれで運よく高校へ進学することができ、
旅立つ同級生を見送りに下灘駅へ行きました。
 駅のプラットホームで列車が来るのを待つ間は、打ち沈んだ沈黙が続き、同級生は目に涙を一杯ためていました。
「お前はいいなあ」
とポツリ言った彼の言葉は、今も私の脳裏にはっきりと残っているのです。

 やがて列車が駅のプラットホームに入り、同級生は座席に着くと大きな荷物を網棚の上に乗せ、
直ぐに窓ガラスを一杯開け、身を乗り出して私や家族と手を取り合いました。
 発車を知らせる「ボー」という汽笛と、駅員さんの「次はかみなだ~、かみなだ~」
という声も蒸気機関車のゴォーという声にかき消され、列車の赤い尾燈は日喰のカーブを曲がって闇夜の中に消えて行きました。

 同級生は毎年開かれる盆や正月の同級会に顔を見せていました。
帰る度に都会的センスを見につけ、都会の香りを漂わせていましたが、いつの間にかその姿も見せなくなっていたのです。
 60歳の還暦記念同窓会の幹事を務めた私の元へ返信が寄せられ、
「同窓会には帰る。先日ラジオ深夜便、心の時代であなたのハーモニカの音色を懐かしく聞いた。あなたに送ってもらって下灘駅を出発した時のことが思い出され、涙が出て止まらなかった。同窓会にはハーモニカを持ってきて欲しい」と書いていました。

 同窓会はいつになく盛り上がりました。
同窓会が佳境に入った時、彼が手を挙げて「若松さんにハーモニカを吹いてほしい」と言うのです。
 訳も分からぬままマイクの前に立った私は、彼の話を聞きました。
 聞けば集団就職列車に乗って降り立った名古屋の駅で、井沢八郎の「ああ上野駅」という曲が流れていたそうです。
「あの歌はいわば私の応援歌です。ハーモニカで吹いて欲しい」とリクエストがありました。
 言われて直ぐに吹けるほどハーモニカが堪能なわけではなく一瞬困りましたが、
それでも体感音楽とでも言うのでしょうか、一度歌った歌は体に染み付いて、何とか吹けたのです。
 そして私のハーモニカで「ああ上野駅」をみんなで肩を組み大合唱しながら涙を流しました。
 
 あれから7年が過ぎました。
同窓会が終って帰る時、その同級生が
「お前はいいなあ、生まれたところで死ねるのだから」とポツリ言いました。
40数年前、集団就職列車で分かれる時彼が追った同じような言葉を思い出しました。

 「人はいつまでもふるさとを身につけている」
とは、フランスの詩人ラ・フォンテーヌの言葉ですが、
風の便りで聞いた同級生の訃報に、同級生の霊よ安らかにと祈りました。』


朝日のある風景

2012-04-28 | ブログ


 朝6時過ぎ。
今日は休みなのに朝早く目が覚めた。

 昇る朝日を見たいから。
釜木の山の稜線が少しずつはっきりとしてくる。
山の紺色と朝日のオレンジ色とのコントラスト。

 光は釜木湾をも照らし、
銀盤のように跳ね返り、まぶしくて目を細める。



 毎日見えるふつうの風景だが、
なぜか見たくなる。
 田舎の楽しみの1つ。

 体が朝日が昇るのと同じスピードで、
少しずつ起きてくる。

 今日もいい1日になりそうだ。

消防団についての声

2012-04-27 | ブログ
 伊方町消防団に入団し、防災・災害救助・地域づくりとの関わりについて
関心が高まっている。
 そこで消防団について、コメントをお願いしたところ3人の方から書きこみをいただいた。



双海町の冨田さんから。
「昨年の夏まで住んでいた東京の城東エリア。
もちろん消防団はありましたがスーパーの駐車場借りて、おとなしくひっそり訓練してましたね~。
 ところがここ双海町では、消防団は相当にリスペクトもらっているな~、と感じています。
ぜんぜん違う。」

 田舎では、尊敬の眼差しですね。


 山口県の県職員、河野さんから。
「命をはった地域ボランティアは凄いと思います。
地縁を基本に地域のいろいろ危険、危機から住民を守るという信念に共感します。
 私は山口市の新興団地に住んでいますので、自ら申し込めば別でしょうがそのような情報すらありません。
皆、それが当たり前と思っています。」

 ちょっとしたまちでは、知る人ぞ知る消防団。
知らない人は全く知らない存在なのでしょうか。



 西予市野村町の荻野さんから。
「おいら4月から副部長という立場になりましたが(-_-;)
法被着ると重み感じますね。
消防は縦社会で厳しいところもありますが…
がんばってください(^-^)v
 野村は5月20日に操法大会があるんでそれに向けて練習してます。
選手は大変ですが、がんばってもらいたいな…」

 30歳過ぎの消防団リーダーですね。

 職務については、気持ちよりも先に、体が反応する
といった方が多いようです。
 すごいです。


伊方町消防団 第10分団

2012-04-25 | ブログ


 写真は、今日初めて袖を通した伊方町消防団の法被。
この時代にあり、未だに制服が法被ということに、
たまらなく歴史を感じる。

 今夜は7時から9時まで新入団員の研修が三机であった。
顔見知りの人も多い。
中には、15年前の教え子たちも何人もいた。
懐かしい思い出話に花が咲く。

「部長ですか? 分団長ですか?」
と問われて、
「新入団員、ルーキーよ。」
とこたえる。

 何ともいえない不思議な感じ。

 どなたかが、「消防団は地域ボランティア」
と言われた。
あってはならないが、命をはったボランティア。
 襟元を正す思いがした。

 このブログを読まれた方で、どなたか消防団についての思いを聞かせてほしい。

 研修は、正しい服装、集団行動、小型ポンプの出し入れ、
消防ホースの扱い方など、基本的なものだった。
「習うより慣れろ!」
とはまさにこのこと。

 帰りにスナック由里に立ち寄り、チャーハンとラーメンをごちそうになった。

 生活に新しいスパイスが加わった。





 

田舎の消防団新入団員の研修

2012-04-25 | ブログ
 今年度から平礒地区の消防団に入団。
4月1日はポンプ等点検の日。
終了後、新役員決定、退団する団員の慰労会を行った。

 その他平礒地区の自治活動に関することも話し合った。
今まで自分の見えないところで、こんなにも大切な活動をされていたことを知った。



 今夜は、新入団員の研修が瀬戸である。
分団長の河野万平さんに連れられて行き、私とたかみつ君が研修を受ける。

 ルーキーらしく、はりきっていきたい。

ばあちゃんの法事

2012-04-23 | ブログ
 21日の土曜日は、妻の実家のばあちゃんの一周忌が行われた。
99歳の大往生。
もの静かなとても優しいおばあちゃんだった。



 法要とは故人を供養するという意味の仏教用語で追善供養ともいう。
法要は故人を偲び冥福を祈るために営む。
冥福とは冥途の幸福のことで、故人があの世でよい報いを受けてもらうために、この世に残された者が供養をするもの。

 年忌法要は一般に法事と呼ばれているもので、亡くなった翌年が一周忌、その翌年の2年後が三回忌。
一周忌と三回忌は四十九日法要に次いで大切な法要。

 法要は命日の当日に行うのが理想だが、必ず命日より早めの日に行うのが慣わし。
おばあちゃんも命日よりも早めに行うことになった。
一周忌までが喪中で、この日をもって喪が明けることになる。



 法要は、亡くなった方を偲(しの)ぶためにとてもいいものだと思う。
あわせて、普段はなかなか顔をあわさない親戚などが集い、
つながりを感じるためにもいいものだと思う。



 やさしく微笑むおばあちゃんの顔が思い出された。

二宮金次郎から学ぶ復興・再建のヒント

2012-04-22 | ブログ
「出会いが人を変える」
と常々思っている。

 そんなすばらしい出会いが昨年あった。
その人は、中桐万里子さん。
知る人ぞ知る二宮金次郎(尊徳)の7代目の孫にあたる。

 年輪塾主催の講演会で、二宮金次郎の血を引く身内として、
おばあちゃんから伝え聞いた金次郎の興味深い話を聞かせていただいた。
 それはまさに人間味ある二宮金次郎像であった。
 歴史上の偉大な雲の上の存在であった二宮金次郎が、
少し身近な存在に感じられた。

 今回は、大洲市田処地区の大杉年輪塾の開塾にあたり、
再び中桐さんのお話を聞くことができた。
1回目よりも金次郎のことがストン、ストンと自分の中に落ちていった気がする。

 あまりの感激にお礼のメールを送ったところ、
次のようなすてきな返信があった。 



『わたしの力など小さなちいさなものですが、
金次郎や大好きだったおばあちゃんが、わたしを守り、
わたしを佳いご縁へとつないでくれているのだなぁ・

とつよく感じる日々です。

 子どもたちも、そして村の仲間たちも、
一人ひとりがもつ小さな力が目覚め、主体性に火が灯されるとき、
きっとそこには途方もない大きな動きが生まれるのだろうと

少なくともわたしはそう信じています。

 今回の大杉年輪塾生の方々が160名ものひとを集め、
あの夜学を開催したことなども、その一例ではないでしょうか?

 金次郎が向き合った農民たちも、わたしたちが向き合う子どもたちも、
一見すると小さき者たちにみえる彼らも、実のところ、
決して教えてあげなければいけない小さな対象ではなく、
ともに手をとり、協力をしてゆく偉大なる仲間なのだと思うのです。


 そうでなければ金次郎もまた600もの村の再建にかかわるなど
なし得ることではなかった気がするのです。

 教育も子育ても、どうしたら子どもたちに眠っている
力や主体性を覚醒させることができるか
、にかかっていると思います。

 ほんとうは、新しいものを「教える」「与える」必要はなく、
いまここにいる子どもたちを「活かす(生かす)」こと、
そのために眠っているものを呼び覚ますこと
、そんな作業ではないかと・・。

 そして、そのなかで自分もまた気づきや発見とともに「活きる(生きる)」こと
それが水車のモデルような、楽しくハッピーな活かし合いの構図かな・・
なんて思ったりもしています。』

 何と洗練された言葉だろう。
大切なことがストレートに伝わってくる。

 今あるもの、今ある人を活かす(生かす)ことを考え、
まだ埋もれているものを呼び覚ますことが最も大切なこと。
そんな取組をとおして、新たな気づきや発見があり、
自分もまた活きる(生きる)ことにつながる。


 まさに地域づくり・人づくりの根源。
 新たな希望の光が見えてくる。



                     岬人


田舎の夜の生き物

2012-04-19 | ブログ
 昨夜9時頃、帰宅していた時のことである。
道路横に茶色い固まり。



 動いた!
 いつもお目にかかるタヌキかと思ったところ、
鼻筋に白いライン。
 どうやらハクビシンのようだ。

 こちらを警戒するわけでもなく、急いで逃げるわけでもなく。
柑橘運搬のモノレールのレールの上を渡ったかと思うと、
また引き返し道をとことこと進み出す。

 カメラを取り出し、撮影する時間さえあった。

 そのうち道路下へ向けて下りていった。



 何とものどかな光景。
この夜が珍しいのではなく、田舎の夜はさまざまな生き物が見られる。
 帰り道の楽しみの1つだ。

天空の村 大洲市田処の魅力

2012-04-18 | ブログ

 
 先日、大洲市田処に行った。
訪れるのは、今回で2度目になる。
 
 昨年は、ほたる祭りに家族で参加。
 無形文化財の藤縄神楽も夜神楽として見ることができ、
その舞に田舎の山村の歴史と伝統を感じることができた。

 その後初めて見るほたるの乱舞には、
家族ともどもその神秘さに心を奪われた。
やはり自然の美しさに勝るものはない。

 今回は、大杉年輪塾の開塾そしてその第1回夜学に参加するためだった。  
会場の外は、満開を少し過ぎた桜が、旧田処小学校を取り囲んでいた。
何10年も前に学校を大切に思う地域の人々が植えた桜なのだろう。

 夜学が終わった頃には、夜の帳(とばり)もおり、
あたりは真っ暗闇に包まれていた。
それだけに、見上げれば星の輝きがキラキラと見える。

 足元には、行燈(あんどん)が歩く道をほんのりと照らしてくれていた。
大杉年輪塾のみなさんの心配りが、心の奥底まで染みわたる。



 その後の懇親会でも大杉年輪塾のみなさんが
昨日採りにいったという山菜づくしの料理が並んだ。
たいへんなお骨折りだったと思う。
おかげで私たちのお腹と心までも満たしてくれた。

 そんな気持ちを田処のみなさんに伝えたときのひかえめな表情もさわやかだった。

 さらにお土産までもいただいた。
新聞紙をリサイクルし、実にしっかりと作られた手作りバックに入れられて。
捨てることを減らす。
あるものから新しい何かを生み出す、そんなお手本のようなもの。



 家に持ち帰り、お土産の五穀米や桜餅を家族で分け合っていただいた。
娘たちの第一声が耳に残る。
「おいしいーーーーーーーーー。」

 田処の魅力は自然であり、人であり、風土であり、歴史であり…。
 その魅力を感じるために家族でまた足を運びたい。

 私のふるさと佐田岬半島、平礒もそんなすてきなところにしていきたい。

 追伸
 大杉年輪塾の立役者亀本さんのキャッチコピーが耳に残っている。
「フランスは、シャンソン。 コンビニは、ローソン。 田処は、山村(サンソン)」

天空の村、大洲市田処 ~大杉年輪塾の始まり~

2012-04-17 | ブログ
大洲市田処 ~大杉年輪塾の始まり~


 全国観光カリスマに選ばれている双海町の若松進一を塾長とする年輪塾。
「自らの進むべき道を探求し、年輪を刻むが如く、常に己の輪を広げるよう進化・自立の気風を養う」
ことをめざしている。  

 そんな私塾である年輪塾にも「あらし山年輪塾」そして今回「大杉年輪塾」
というのれん分けのようなそれぞれの塾生の住む地域に根ざした塾ができた。

 その開塾に向けて中心となって取り組まれたのが、西田さんと亀本さん。
自分のふるさとに誇りをもち、将来にわたってすばらしいふるさとを残していきたい
という熱い気持ちが感じられる。
開塾にあたり現在13名の塾生がおられると聞いた。

 大洲市田処という天空の村。
風土もそこに住む人々も山村らしいあたたかさとねばり強さのあるすばらしい地域。

 今回の開塾にあたり第1回の夜学を開かれた。
その内容は、実に個性的なもの。
 まず、二宮尊徳の7代目子孫にあたる中桐万里子さんが、
「祖母から伝わる尊徳の教え」と題した講話をされた。
会場に集まった人もほとんど知っている二宮金次郎。
でもよく知らない二宮金次郎。
興味津々な様子で講話に聞き入っていた。

 次に塾長若松進一(夕日亭大根心)さんの落伍、楽語、落語。
一気に聴衆の心をつかみ笑いの渦に引きこんでいく。
しかも随所に大きな学びが散りばめられている。

 最後は、「唱歌 二宮金次郎」を指揮西田和子さん、
バイオリン近藤さん、ギター清水さん・大西さん、オカリナ青木さんの伴奏で合唱。
 会場のみなさんも一緒に合唱。

 興奮冷めやらぬなか、交流会がもたれた。
わかせたのは、高知県馬路村の塾生木下さんのマジックショー。
そして地元田処の藤縄神楽の舞の体験。

 参加者のお腹を満たしたのは、
山村田処の幸をふんだんにつかった料理の数々。

 心もお腹も満たされた。
交流会が終わり、外に出ると、真っ暗な空にたくさんの星がキラキラと輝いていた。
そして足元をてらす行燈(あんどん)の並び。

 天空の村田処。
まだまだ全然語り尽くせない。
 ぜひこの続きを伝えたい。
 

ふるさと平礒の春祭り

2012-04-15 | ブログ
ふるさと平礒の春祭り


 今日、4月15日はふるさと平礒の春祭り。
父の誕生日でもある。

 幟を立て、神社で神事をするだけの静かで素朴なもの。
 三社神社での神事を終えると、我が家でも神事を行った。

 春の陽気につつまれた心地よい1日だった。

佐田岬の山桜

2012-04-14 | ブログ
 佐田岬の山桜もずいぶんと散りましたが、この土日は何とか見られそうです。

 そのときのために、少し山桜についてお話しします。
 本居宣長の和歌
「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」
「しきしまの やまとごごろを ひととわば あさひににおう やまざくらばな」

 本居宣長は、江戸時代後期の国学者でした。
したがってこの教えが、幕末の「尊皇攘夷」という考えにつながっていきます。
 昭和の時代、太平洋戦争。
昭和19年10月25日に神風特攻隊が始まり、終戦の昭和20年8月15日にいたるまで、出撃機数2,367機、乗員2,530名を数えました。

 その最初の出撃で戦果を上げ、軍神と讃えられたのが、
愛媛県西条市出身で霞ケ浦海軍航空隊教官でもあった、「関行男中佐」率いる五機からなる「特攻敷島隊」だったのです。

 この敷島隊という名は、実は本居宣長の和歌からとったものです。
その後も和歌の名詞から、
「大和隊」、「朝日隊」、「山桜隊」という特別攻撃隊がつくられたようです。



 映画「男たちの大和」の中で良寛の歌が出てきます。
「散る桜、残る桜も散る桜」

 というわけで、桜と言えば「散りゆく美学」のようなイメージが
強くなっているようです。
 
 しかし、散るということは、「いかに生きたか」、という生き方を大切にしていると
思うのです。

 そんな思いももちながら、
佐田岬の山桜をごらんください。

 ちょっと、しんみりしましたね。

                           岬人 

佐田岬の山桜と鳥たち

2012-04-14 | ブログ


 写真は、平礒から東方の釜木の山桜を見たものです。

 釜木の山々には、山桜がたくさんあり、みごとです。
愛媛新聞社発行の「日本列島 鳥の旅」で佐田岬は、次のように紹介されています。

「緑の中に点々と霞むヤマザクラの花の群れ。
微妙に異なるさまざまな緑と薄紅色が、
モザイク模様になって山をひときわ輝かせています。
こんなに美しい配色を誰が考え出したのでしょうか。」
 
 佐田岬半島は、知る人ぞ知る渡り鳥のルートとして、全国的に有名なポイントです。
圧巻は秋、数百羽のヒヨドリが群れなす渡り。
そして春、やがてツバメが帰ってきます。

 「美しく咲いているヤマザクラや緑の木々は、
半島に渡って来た小鳥たちが落とした種から育ってきたのではないか。
ハヤブサの鋭い爪から逃れ、
生き続けた鳥たちが落とした無数の種から…。
その小さな種が土にもぐり、雨をうけて伸びたのだ。
そして、いつの間にか葉を茂らせ、花を咲かせて実を結んだにちがいない。
 鳥たちはその実を食べて命をつなぎ、その鳥たちをハヤブサがねらう。
ヤマザクラが咲いて、ハヤブサにヒナが生まれ、花が散って緑が萌える頃には、
ヒナは力強く巣立っていく。

 何千年、何万年をかけて自然は黙々とその営みをくり返している。
海と空の間を悠久の時が流れていく。
生命が生命に受けつがれていく。」

 わが家のベランダに立ち、ふとっ、こんなことを思いました。

                        岬人(花んちゅう)