喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

みかん畑の移り変わり ~世の中の動きにあわせて~

2017-05-28 | ふるさと
 5月13日(土)、両親と息子とヒラバヤのみかん畑に行ったとき、
サツマイモを作っている人の畑をのぞいた。


 広い。みごと。


 苗植えの前の畑起こしだ。
この後、畝が作られ、苗が植えられる。

 この畑は、かつて喜久家の持ち主である喜久雄さんの柑橘畑だったが、
耕作放棄園となってしまっていた。

 こんな写真のような状態が悪化していく。


 それを保内のホテル経営者が借り受け、サツマイモを作っている。
全ての柑橘をチェーンソーで切りたおし、根っこをユンボで掘り起こす作業はたいへんなものだった。

 そんな過程を経て、今の状態がある。
ところが、柑橘畑の前は、佐田岬の畑は麦とサツマイモ畑だったと、
父が語ってくれた。


 そう考えると、元の畑に戻ったことになる。
おもしろい。
数十年の時を経て、再び始まる。


 田舎の暮らしは、地に足がついたたくましいものだ。
世の中の動きに逆らうのではなく、世の中の動きにあわせていく。
新しいものを付け加えながら。


       岬人(はなんちゅう)


ふるさとの農業の未来を創る

2017-05-28 | 感動
 5月13日(土)。
息子が松山から帰ってきた。

 ある目的があった。
それは、父より2歳年上の79歳になる亀おっちゃんが今年で柑橘農家をやめたことによる。
もう十分働いた、子どもたちへの心配もなくなったので、余生をのんびりと過ごしたいとのこと。
働き者の亀おっちゃんの気持ちがよくわかった。

 そこで亀おっちゃんが今まで作っていたヒラバヤのみかん山を
来年、ふるさとに帰って農業を継ごうとしている息子に託してくれたのだ。

 父母と息子と私の4人でその山の下見に行った。
特にそれを喜ぶ父は意気揚々としている。


 真正面に伽藍山を見上げる、日当たりのいいみかん畑だ。


 しかも段々畑ではなく、広い一段。
作業もしやすい。


 息子は、父からみかん作りの実践的な話を聞きながら、あれこれ質問をしている。


 世代を超えて、柑橘栽培が受け継がれていく。
未来を創っていく。
 77歳になった父だが、その経験と知恵に期待されることが多い。
息子もそれをどんどん学びたいようだ。


 さあ、自分はどんな役目を果たすか。
それを考えることもおもしろい。

 ふるさとの未来は明るい。

       
            岬人(はなんちゅう)

ヒラバヤの緑のトンネル

2017-05-13 | 佐田岬の風景
 午前中は霧雨だったが、午後からはさわやかな五月晴れ。
マイナスイオンが吹き出している感じ。
 若葉特有の匂いもする。

 午後からヒラバヤへ行った。
途中道路に覆いかぶさるように青々とした木々のトンネルをくぐる。


 田舎の楽しみの一つだ。


           岬人(はなんちゅう)


伊方、湊浦をぶらり

2017-05-12 | 佐田岬の風景
 5月12日、伊方の湊浦をぶらり。
中心を流れる大川。
見た目は良くないが、この水草のおかげで川の水は浄化されるのだろう。
大切な存在。


 四国電力の寮の花壇で見つけた野いちご。


 子どもが摘んで、食べていた。


 港を歩くと、今が旬のひじきが天日干しされていた。
ふるさとの風景だ。


 緑の少年隊の活動として、花いっぱい運動をしている伊方中学校の校門。


 町見中学校と伊方中学校が統合したときの記念碑。
「進取」の文字が未来を輝かせる。


 歩くたびに地域のおもしろさが発見できる。
さあ、次はどこを歩こうか。

             岬人(はなんちゅう)

 

3年ぶりの郷帰り  名児邪くん

2017-05-10 | 喜久家ボランティア


 5月10日、3年ぶりに郷帰りした東京出身の名児邪くん。
今は黒川温泉の旅館で働いているとのこと。

 わずか1泊2日の休みを利用してだったけれど、
それでもここ平礒に帰って来てくれることがうれしくてたまらない。

 積もる話、佐田岬、平礒の魅力、移住の話など
いろいろな話を遅くまでした。

 名児邪くんのような平礒を第二のふるさとと思ってくれる人が一人ずつ増えている。

 また会いたい。


        岬人(はなんちゅう)


平家谷そうめん流しを楽しむ

2017-05-01 | 佐田岬の風景
 今日から5月。
伊方中学校は、平家谷へ遠足。

 平家谷と言えば、そうめん流し。


 「平家谷の由来は、文治元年(1185)壇の浦の源平の戦に敗れた、平家一族は、 
瀬戸内海を東西南北に落ちのびていきました。

 そのうち、平有盛系一族8人が、愛媛県佐田岬半島の瀬戸内海沿いに流れつきました。
一族が、良き場所を求めて逃げ落ちた場所が、平家谷であるとされています。

 その当時、この地は昼夜の区別がつかないほどの入らず森でした。
逃げ落ちた彼らは、此処へ身を隠して、百姓になりました。

 その後、東・西へ見張所を造り毎日見張りをしながら500m位下の、現在のハザマ谷の荒地を毎日開墾しました。
 そして、3年の月日がたったある日のこと、見張人が白サギ鳥が海岸近くに群れ飛ぶ様子を、
敵の白旗と見誤ってしまいました。
 そして、今、敵らしい白旗が海岸の方より押し寄せて来ると皆に知らせてしまったのです。

 それを聞いた一同は、逃れる術もなく、捕らえられて憂目を見るよりはと相談の結果、
平家の子孫を跡へ残したいと話し合い、2人を残して6人の者は、ハザマ谷の田の中で切腹してしまいました。

 残された2人は、6人の死体を平家谷の入らずの森の岩穴へ埋め、その後は両家で生き続けました。

 そして、平家谷へは一切近づけなくなり両家の方々が切腹された方々の霊を慰める為、
旧暦の11月初申の日に中が集まり、毎年田で取れた米で酒を造りお祭りをすることにし、
お祭りの日には、弓の稽古、神楽、その他の行事を行うようになったそうです。」 by 愛姫


 この森や谷を守る平家神社。


 清らかな川では、伊方中学生たちが大勢で無邪気に水遊び。
何とものんびりとした光景。
 田舎の子どもたちはいい。




            岬人(はなんちゅう)