喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

鹿児島の思い出

2012-12-29 | ブログ
 昨年の今頃、家族で鹿児島を旅していた。
写真は、その時のもの。

 子どもたちに見せたいもの、感じさせたいものがあった。

 それは、写真の雄大な桜島。
朝日をみんなで拝んだ。

 幕末から明治を切り拓いていった薩摩隼人たちの生まれ、育った風土。

 そして、祖国日本を守るために命をかけた若者たちのことを知るために、
知覧特攻記念館へ足を運んだ。

 わが家の旅は、いつもこんな旅。
雄大な自然を体いっぱいで感じたり、歴史や風土を感じたり。

 ますます日本が好きになる。
そして、世界をのぞいてみたくなる。

                    岬人


核兵器をなくし、平和な世界を築くために ~中沢啓治さんと芳村思風さん~

2012-12-28 | ブログ


 今月19日に「はだしのゲン」の作者中沢啓二さんが亡くなられた。
被爆者としての体験から核兵器の廃絶を漫画そして講演会を通して訴え続けてこられた。
訴えは、オブラートに包まれたものではなく、はっきりとしている。
 あの時広島で何が起こったのか、その後どうなっていったのか。
その姿勢に人としての誇りを感じた。

 昨年の8月6日。
息子と一緒に広島平和記念式典に出席した。
その時、NPOアント・ヒロシマの代表渡部朋子さんとトモコーポレーションの渡部久仁子さんの
つながりで中沢啓二さんとお話をすることができた。
 中沢さんは、特に息子に身近な話からはだしのゲンについてまで、さまざまな話をしてくださった。
まるで若者に日本の将来、世界の将来をたくされているかのように。

 

 

 別なつながりで感性哲学論者の芳村思風さんとお話しすることがあった。
芳村さんは、戦争をなくすために次のようなことを言われている。 

☆☆☆☆☆☆☆
心の中に平和のとりでを築く
☆☆☆☆☆☆☆
 核兵器の廃絶では、戦争は、なくならない。
核兵器があると、大量殺戮に至る戦争への不安は大きい。
すでに核兵器を作る能力を持った人類において、今核兵器を廃絶したら
必ずや誰かが核兵器を作って、世界を支配しようとする人間が出てくる。

 核兵器があることよりももっと恐ろしいのは、人間どうしがお互いに疑心暗鬼におちいることである。
疑う心を持てば、たとえ核兵器がなくなったとしても戦争は起こる。

 戦争のない平和な世界を実現するための究極の原理は、ユネスコ憲章前文にある。

「戦争は、人間の心の中で生まれるものであるから人間の心の中に平和の砦を築かなければならない。」

「人間の心の中の平和の砦」とはなにか。
1.謙虚な理性の確立。
2.勝つことより、もっと素晴らしいことは、力を合わせて共に成長すること。
3.対立とは、学びである。
 自分が成長するために、学び取らなければならないものを、誰が持っているのかを教えてくれる現象である。

この3つの意識改革が、心の中の平和の砦となる。」

 
 さあ、自分に何ができるか。
小さくてもいい、積み重ねていきたい。

                   岬人(はなんちゅう)

 

12月23日は、17回目の結婚記念日

2012-12-24 | ブログ
 昨日12月23日は、天皇誕生日。
そして私たち夫婦の17回目の結婚記念日。

 結婚してから早17年経つのかと思うくらい、
あっという間の気がする。

 でもよくふり返ってみると、
子どもが生まれ、成長、身内の死、同居など
さまざまなことがあった。

 喜びもあり、けんかもあり。
次のような言葉を耳にしたことがある。

 20代は、ラブラブ、熱々
 30代は、けんかばかり
 40代は、我慢
 50代は、諦め(あきらめ)
 60代は、労り(いたわり)

 今年の6月、亡くなった義父。
昨日義母と話していたら、生きていれば今月で金婚式(50年)をむかえることになっていたとのこと。
生前、お互いを思う労りと感謝の姿をよく目にした。

 お互いに我慢をすることも多い40代の夫婦生活だが、
両親のように労りと感謝に満ちた夫婦になりたいものだ。

                            岬人

佐田岬メロディー駅伝

2012-12-24 | ブログ


 昨日12月23日、天皇誕生日。
日本一長い佐田岬半島では、メロディー駅伝が開催された。



 もともとは豊予海峡エリアの交流、活性化をめざし、開かれた歴史ある駅伝大会。
かつてほどのにぎわいはないが、地元伊方町がそれを引きつぎ、
毎年12月23日に実施している。



 三崎中学校からも男女1チームずつが参加。
男子3年生チームと女子ソフトテニス部チーム。
息子も走った。

 

 走ることは、人生に似ている。
襷(たすき)をつなぐことは、歴史に似ている。

 だから私も走ることは好き。
駅伝は、感動する。

 一本の襷を、できるだけ良い条件で、責任を持って次の人につなぐ。
三崎中学校の子どもたちは、こんな気持ちを大切にして佐田岬の風のようにかけぬけていった。
 結果がすべてではない。

 故郷を盛り上げるために汗してくれた子どもたちから大きな感動をもらった。


 

二名津湾に鯵(アジ)がわく

2012-12-22 | ブログ


 最近、二名津湾に今までに見たことのない光景が見うけられる。
たくさんの漁船がかたまりとなって集まっている。

 もちろん何かが釣れるのだろう。

 漁船に給油する水本石油さんからの情報によると、
40~50㎝くらいの鯵(アジ)がものすごくわいているとのこと。
おそらくイルカに追われて逃げこんでいるのだろうと。

 一人40~50㎏の水揚げはあたりまえ。
漁協もさばくのにてんやわんやだとか。

 ここ佐田岬のアジは、岬(はな)アジと呼ばれ、岬サバとともに人気が高い。


 

 昨日も朝から、多くの船が入り乱れていた。
また陸(おか)からもたくさんの釣り人が糸をたれていた。

 自分で釣った魚を新鮮なうちに、食べる。
これほどのぜいたくな食があるだろうか。

 故郷は豊かな海とともにある。

                岬人(はなんちゅう)
 

  
 

田舎で観る双子座流星群

2012-12-18 | ブログ
 最近、猛烈な忙しさのため、ブログが後回しになっていた。
書くネタがないのではなく、たくさんある。
だから過ぎ去ったことを、ふり返りながらのものとなる。

 先週、双子座流星群がよく観えるという予想があった。
もともと星好きであり、感動好きなもので、とても楽しみにしていた。

 夕食時、子どもたち3人に、
「今夜は、双子座流星群の流れ星がものすごく観えるらしいぞ。起きて観ようや。」
「うん、寝とったら、起こしてくれん?」

 そんな約束をして、最も観える深夜を待った。
1時過ぎ、ベランダに出てみた。
1分も経たないうちに、スーッと長い尾をひっぱり、大きな流れ星が流れた。
そしてこちらからも、あちらにも…
これは、すごい!

 すぐに3人の子どもたちを起こした。
防寒の銀マットを2枚しき、毛布を持ち出し、夜空が観えるように4人で寝転んだ。
まるで漫画であるような光景。

 そしてオリオン座、双子座あたりに目を向け、流れ星を待った。
「あっ、流れた!」
「私も観た、観た。」
「あっ、また流れた。」
「3つ目、…10個目 …20個目、… 」
1時間のうちに100個ほどを数えることができた。

 そのうち体もずいぶん冷えてきたので、終了。

 娘たちにとっては、初めての流れ星。
そしてシャワーのような流れ星。
とても感動していた。

 親子で寝転んで観た思い出は、きっと忘れることのない一生の思い出となるだろう。

つながる心 2  ~ 32回全国中学生人権作文コンテスト 愛媛県大会 ~

2012-12-12 | ブログ
つながる心1のつづき


「そして感動の音楽発表会から二ヶ月が経った今年の夏、父とともに東北へ行くことになった。
ニュースや新聞で見るより、自分の目に焼き付けたいと思ったからだ。
「今行かなければもう行くことはないだろう。被災地の現実を知ろう。」
という父の言葉も背中を押した。



小高い丘を越え、山道をぬけるとそこには、更地になった気仙沼の町が広がっていた。
ところどころにガレキの山があり、その側では、何十台もの重機が作業をしていた。
この現実を見て、僕は、あ然とした。
最近はテレビなどで被災地に関する放送は少なくなり、復興が進んでいると思っていたからだ。
しかし町には、仮設の店が建てられ気仙沼の人たちの希望の光になっていると感じた。



気仙沼市立大谷中学校のグラウンドには、仮設住宅が二百棟という大きな規模で建てられていた。
ついに遠い友のいるこの地に来ることができた。
三崎中学校生徒会全員で作ったビデオレターと四千羽の折り鶴を大谷中学校生徒会の人たちに手渡すことができた。
どの人も明るく元気な表情だった。



しかし、そんな中に今も仮設住宅で暮らしている中学生が十数名いるということを聞いて驚いた。
厳しい状況にも関わらず前向きな考えで物事を見ている姿に尊敬の気持ちすらわいてきた。
話をされていた中で、
「津波の訓練はしていたが予想以上のものがきてどうすることもできなかった。」
という言葉が印象に残っている。
まさに津波のすさまじさを感じる言葉だった。



大谷中学校との交流で、人とのつながりについて深く考えることができた。
人は決して一人では生きていけない。
お互いが相手のことを思い、支え合って生きている。
遠く離れた友から生きる喜びと勇気を学んだ。
これからもがんばっている友のために僕にできることをしていきたい。」

 
 百聞は、一見にしかず。
私と息子たちは、被災地の様子を体全体で受け止め、感じた。
 
 自分にできることをしていきたい。
「ハチドリのひとしずく」である。


                 岬人(はなんちゅう)



つながる心 1  ~ 32回全国中学生人権作文コンテスト 愛媛県大会 ~

2012-12-12 | ブログ
 この冬一番の寒波が押しよせ、南国四国愛媛でもずいぶんと冷えこんでいる。
寒い寒いと感じながら、夏に行った東北被災地のことを思っていた。
 先日、気仙沼市立大谷中学校の校長先生と電話でお話をした。
「夏にはあった海に近い道の駅も今は取り壊され、さら地になっています。」
その道の駅は、駅もかねている3階建て。
建物すべてが津波に飲みこまれた。
そして少し1㎞ほど奥の高台にある大谷中学校のグランドにも到達し、
1階部分まで流れこんだ。

 当時のそんな様子を想像しながら、その場所に立ったとき、
この事実を伝えなくてはと思ったのは、私だけではなかった。
一緒に旅した息子と双子の娘たちも同じことを思い、
中3の息子はそのことを人権作文に書いた。

 これが、32回全国中学生人権作文コンテスト 愛媛県大会で
優秀賞(NHK松山放送局賞)となり、多くの人に伝えることができている。


『 「つながる心」

 昨年三月十一日に起こった東日本大震災。
学校で待機していた僕は、その後の未曽有の大災害をまだ知るよしもなかった。
いつもなら家に帰る時刻をすでに過ぎ、やっと帰ったのは夜の七時半頃だった。
「これはただごとではない。」
と思い、テレビの電源を入れたその瞬間、画面にくぎ付けになった。




黒い波が壁のように高くなって町をものすごい速さで飲みこんでいた。
画面の向こう側のニュースキャスターが混乱した様子で今現在の状況を伝えている。
この映像は現実なのか、最初は信じられなかった。
毎日ニュースから流れる被災地の痛々しい景色、二万人近くの死者や行方不明の人々。



混乱している被災地に何かできないかという思いで、生徒会が中心となり、
生徒一人ひとりの家から、布団や毛布、文房具などを集めて送った。

宮城県気仙沼市の大谷中学校と交流が始まったのは、その頃からだ。
学校にお礼の手紙が届いて、友達とその手紙に見入った。
手紙には、「文房具ありがとうございました。大切に使わせてもらっています。」
との心温まる一文もあった。
他にも津波の信じられないような被害についてふれられていた。



「おりづるの旅プロジェクト」は、自分たちでそんな遠い友を励まそうと発足した。
千羽折れば願いがかなうといわれる鶴に、一刻も早く復興するよう生徒全員が思いを込めて大谷中学校に届けようと取り組んだ。

そんな活動を続けて半年、地元特産のサツマイモを掘り、
それを送ることになったのは、昨年の秋のことだった。
地元の人たちが、三崎中学校の活動を知り、連携して被災地を支援していこうと持ちかけてくれた。
そのように育てられた大切なサツマイモを一つひとつ手作業で慎重に掘り起こしていく。
僕は、食卓に並んでおいしく食べてもらえれば何よりもうれしかった。



学校に持ち帰り、また一つひとつ手で泥を落としながらイモを磨いた。
こんな手間のかかる作業もおいしく食べてもらっている様子を思い浮かべれば、
しんどいと感じることもなく、やる気がわいた。
全て終わった時には、ものすごく達成感を味わえた。
自分の中でもこの体験は、一年が経った今でも忘れられない思い出だ。
それに、人の役に立つことができたとき、すがすがしい気持ちになる。



今年の六月には、町の音楽発表会で大谷中学校との交流で得たことをもとにして歌をつくり、それを歌った。
この歌もまた、地元出身の歌手が、僕たちの取組と思いに共感し、歌にしてくれたもの。
音楽発表会後の反響は、新聞にも載るほどのもので、
自分たちの力でこれほど人の心を動かせられたのかと思うと感動した。
この誇れる活動を少しでも多くの人に知ってもらい、被災地でがんばっている友にその思いが届くとき、
取り組んでよかったと実感できるだろう。』

 2につづく


みんなで働くということ

2012-12-10 | ブログ
みんなで働くということ


 楽しかったインドネシア留学生たちとの思い出。
名カメラマン、ふさだ君の写真でふり返る。



 慣れないきつい仕事でありながら、みんなのこの笑顔。
仕事を楽しんでいる。

 それにつられて田舎のおっちゃんやおばちゃんたちもニコニコ。



 みかん畑での休憩時間のひとときがまたいい。

 みんなでいっしょに働くってすばらしい。



 

実りの季節

2012-12-08 | ブログ
実りの季節


 深まりゆく秋。
初冬の時期、佐田岬は実りの季節。



 喜久家ボランティアのフッサことふさだ君が、
すばらしい視点で撮影してくれた。

 私にとっては、見慣れたものばかり。
でもこうして見ると、いいものだ。






 今も昔も変わらない風景。

 これからも残していきたい風景。

 

佐田岬の豊かさ

2012-12-08 | ブログ
佐田岬の豊かさ
 喜久家ボランティアのフッサが撮影






 知り合いに伊予市双海町に住んでいる冨田さんがいる。
地域おこし協力隊として、家族で都会から来られた。

 とてもバイタリティーあふれる方で、
すっかり田舎にとけこまれている。

 フェイスブックもていねいに更新され、新たな情報を発信し続けられている。
そんな冨田さんの3日前の内容で、とても感激したものがあった。


「愛媛にきて、双海町に住んでみてつくづく思うのは、
ちいちゃい子どもから90歳のおじいちゃんまで、すべての世代と接して暮らせるということ。


 都市の生活もモチロン充実していたけども、この世界はなかったなあ~。

 恵まれつつも苦しい都会の生活、
 
 きびしいながらも豊かな田舎の暮らし・・。

 人が少ない分だけ人が映える。

 人が見えるから人を思える。

ええですな(^^)」


 きびしいながらも豊かな田舎の暮らし。
まさに故郷佐田岬にもあてはまること。

 新たな出逢いと交流の風が吹き、
ますます豊かな暮らしになっていく。

 
 お気に入りの1枚。



 地元のおばちゃん、都会の若者、そして海外インドネシアの人。
みんなそろっていい顔をされている。


 

インドネシア留学生、感動物語3

2012-12-05 | ブログ


 良あんちゃんは、クリスティーナとエロックにはさまれて、両手に花。
 
 最後の夜、2人は感謝とおもてなしの気持ちをこめて、
バリ島の伝統舞踊を踊ってくれた。
2羽の鳥がはなやかに舞った。

 感激した。
バリ島の伝統舞踊を平礒喜久家でまじかで観る。
踊りこそ違えど、その気持ちは通ずるものがある。
そんな2人の気持ちがうれしかった。

 そう感じていたのは、私だけではない。
30人ほどいたのだが、みんな踊りに見入った。
 中でも浅野良あんちゃんの感激ぶりはすごかった。

 今回のグループワークキャンプでは、おおぜいの留学生たちをこころよく受け入れてくれた。
作業をしながら交流し、お互いの良さに気づいた。
普段は、口数の少ない良あんちゃんが楽しげに話している。
 別れを惜しみ、話はつきない。

 そんな良あんちゃんのうれしそうな様子や
変わりぶりをみていると、
人はきっかけさえあれば、いつだって変われるのだと感じた。

 このすばらしい宴は、夜遅くまで続いた。
 

インドネシア留学生、感動物語2

2012-12-02 | ブログ
喜久家プロジェクトを始めて、平磯がどう変わってきたか
ある日、作業が早く終わったということで、夕方、二名津の谷さんがインドネシアの二人を魚釣りに連れていってくれた。
ゼンゴがたくさん釣れて大喜び。 それを妹の河野和美さんがすぐにフライにしてくれて、夕食に持たせてくれた。
また和美さんは、出発の朝、喜久家を訪れ、インドネシアのみなさんにおいしい和食を作ってくれた。
インドネシアのみなさんの人柄が、地域の人たちを動かしたのだ。
おもてなしの心が息づいている。

インドネシア留学生、ワークキャンプの感動物語1

2012-12-01 | ブログ
 人が交わるって、大きな化学変化のようなものをひきおこす
インドネシア留学生の柑橘作業初日、恒あんちゃんの感動物語。

 留学生のみなさんがここに来た目的はなんですか?
「いろいろな日本を知りたいということと、ふるさとをまもり、
盛り上げていこうとする人たちの力になりたい
とのこたえ。

 その働きぶりは、一生懸命

 そして、お祈りの時間となり、ミカン畑で膝をつき、ひれ伏しお祈りをする彼女たち
その後ろ姿を見て恒あんちゃんは、涙が止まらなかったという
その純粋さと敬けんさに心打たれたのだ
私たち日本人が失いかけている姿かもしれない

それに気づかせてくれたインドネシアの人たちだった

人が人をよぶ

2012-12-01 | 喜久家ボランティア
平磯、喜久家にインドネシアの留学生たちがくることで、たくさんの人たちがかかわり、訪れた。
まず愛媛大学の担当事務局のルース先生。アメリカ生まれのとてもおおらかな女性。
コーディネーターのNice職員、山口沙矢香さん。明るくて、かわいくて、かしこくて、今回の活動が大成功したのは、彼女がいたからこそ。
常に寄りそい、絶大な信頼を得ていた、愛媛大学四回生のふさだ君。途中、お別れの時は、みんなを涙でぬらした。もちろん、それ以上に彼の涙は多かった
お別れパーティーに再び来てくれて、再会の喜びを感じさせてくれた
後半から参加してくれた愛媛大学大学院生、やない君。インドネシアに一年間留学し、インドネシア語ぺらぺら 楽しくムードを盛り上げてくれた このやない君を慕っているのが、愛媛大学一回生、ちさとちゃん 後半最後に参加し、授業を休んで最後までいてくれた今を大切にするエネルギッシュなルーキー
この他、愛媛大学農学部、笠松先生率いる学生さん六人。

まさにすてきなインドネシアのみなさんが、すてきな人たちを呼び寄せた

人のつながりは、おもしろい
そして、すごい力を生み出す