喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

給食を知らない子どもたち

2015-01-30 | ブログ
 私が育った旧三崎町(現伊方町)では、愛媛県内でも最後まで給食がない町の1つだった。
まさに給食を知らない子ども。
したがって、小・中、そしてもちろん高校まで全て母が作ってくれた弁当を食べて育った。

 隣の友だちのおいしそうなフライ物や肉・ハンバーグのおかず。
それに比べて、弁当箱のふたを開けると、こーこ(たくあん)の臭いが広がる恥ずかしさ。
 おかずは、くずし(ちくわやかまぼこ)や塩サバ、いも、だいこんなどが多く、
何か恥ずかしさを感じながら、さっさと食べたこともある。

 でも大人になった今なら、それがどれだけありがたいものかわかる。
心にぐっとくる思い出に変わる。


                             「4年前の選果作業の様子」 

 我が家は、4人兄弟姉妹。
母は、毎日4つの弁当を朝食を作りながら、朝早くから準備する。
 
 両親は忙しく農業をしていたから、みかん山に弁当を持って行くこともある。
すると机の上には、6つの弁当箱が並ぶ。
それが、どれほどたいへんな家事なのかわかる。
 まさに食べることをとおして、心を育ててもらった。

 母の後ろ姿を見ながら、包丁の音を聞きながら、味噌汁の臭いを感じながら育った。
食の豊かさとは、料理そのものだけではないと思う。

 そんな昔話を我が子たちにしてあげると、いくらかは心に響くようだ。
そして息子は、私の妻が作ってくれる弁当を毎日食べている。

 給食であろうが、手づくり弁当であろうが、共通するものは多い。
それを大切にしたい。

                 岬人(はなんちゅう)
 

全国学校給食週間 1/24~1/30

2015-01-29 | ブログ
1月24日から30日の1週間は「全国学校給食週間」。

 学校給食の歴史は、

 明治22(1889)年、山形県の私立忠愛小学校で日本初の学校給食が行われた。
その後、全国各地で給食が実施。
しかし、太平洋戦争で一時中断。

 敗戦後の昭和21(1946)年12月24、アメリカの援助団体ララからの支援物資により、再開。
この日を「学校給食感謝の日」と定めた。

 昭和25(1950)年、学校給食が戦後再出発した意義を考え、
冬休みと重ならない1月24日から30日の1週間を「全国学校給食週間」とした。
 
 昭和29(1954)年、学校給食法が制定。
学校給食を教育活動のひとつに位置づけ。

 平成17(2005)年、食育基本法が制定。
学校給食も食育推進の中心的な役割を担っている。



 太平洋戦争・日中戦争に負けた日本では、国民の困窮状態はたいへんなもので、餓死者まで出るありまさ。
「腹を空かせ、病に苦しむ日本の子供たちを救おう」と死にものぐるいで動きまわったのが、
かつて郷土(岩手県盛岡)の先輩である原敬首相の手伝いをしていたことがある、
サンフランシスコ在住(日系人)のジャーナリスト浅野七之助氏。
 
 浅野氏が中心となって設立した「日本難民救済会」を母体に、
多くのアメリカ人もまきこみ、食料品、日用品等の救援物資が集められ「ララ物資」として日本へ届けられた。

 これにより、戦後昭和21(1946)年、学校給食(コッペパンや脱脂粉乳ミルク)が始まり、
多くの日本人・子どもたちが救われた。

 給食の意義も時代とともに変わってきました。
過去は、貧しい生活からくる栄養状態を解消するために。
 そして現在は、偏りがちな栄養バランスをとるために。
また、地域の産物を取り入れたり、メニューができるまでに関わる人たちの仕事や思いを知るための学びとなったり。

 ちなみに伊方町の給食は、とてもおいしい。
地域でとれた食材と調理に関わる人たちの気持ちがつまっている。

              岬人(はなんちゅう)
  

大寒  実りの季節

2015-01-27 | ブログ
 大寒とは、旧暦の二十四節気の一つ。

 小寒から立春までの間で、
1月20日~2月4日までの15日間。

 2015年の小寒は、1月6日。
小寒とは、寒さが加わるという意味で、寒中見舞いはこの時期から始められる。

また、小寒から大寒が終わるまでの30日間のことを、寒の内とも言う。


 大寒は、一年で一番寒い時期。
しかし、日本の季節にあてはめると少しズレている。

 日本で一番寒い時期は、1月26日~2月4日の期間。

 と言うことは、今が寒い時期のはずだが、昨日から降った雨のせいで、
大きな寒さは感じられない。
 一雨ごとに春が近づいているようだ。


 今朝、わが家の前から海を見下ろし、写真を1枚。
柑橘が今まさに実りの季節をむかえている。
 手前に、みかん色に見えるのが、サンフルーツ。
その周りに、白いサンテ(布)をかぶせているのが、清見タンゴール。



 年末から始まった収穫は、伊予柑、ポンカン、デコポンと続き、
今は、サンフルーツの収穫が最盛期。
1ヶ月後には、最後の清見タンゴールの収穫が始まる。

 寒い季節の豊かな実り。
おかげで、心は、あたたかい。

                岬人(はなんちゅう)

               

国立大洲青少年交流の家 「子どもゆめ基金体験の風リレーションシップ事業 中学生ソフトテニス教室」

2015-01-25 | ブログ
 昨日1月24日、国立大洲青少年交流の家主催の、
「子どもゆめ基金体験の風リレーションシップ事業 中学生ソフトテニス教室」
に三崎中学校も参加した。

 講師は、ヨネックスの田中ちひろ選手。
田中選手は、石川県出身で、ヨネックスチームのリーダーとして活躍されてきた。
残念ながら、昨年暮れの全日本リーグを最後に現役を引退。

 次のようなコメントを発表されている。



「12月12日から14日まで行われました日本リーグにおきまして、女子チームは5勝2敗で3位という結果に終わりました。
結果としては悔しさの残るものとなりましたが、それぞれに収穫と課題の見つかる良い大会になりました。

 そして私事ではありますが、日本リーグを持ちまして5年間の、実業団としての選手生活を終えました。
ヨネックスに入社してからの5年間で、本当に沢山の方に出会いました。
そこで皆様に、がんばってね!と声をかけて頂けることが私にとって一番の力になりました。

 その出会いと、そこから学び得たものが私にとって一生の財産であり、
私のテニス人生において最も誇れるものだと思っています。

 今後も、これまでとは違う形になりますが、ソフトテニスに携わり、
ソフトテニスを愛好する人間として少しでも恩返しが出来ればと思います。」




 ソフトテニスを愛し、ソフトテニスを通して、人生を豊かなものされている田中選手。
スポーツの競技性とは別のすばらしさ。
 子どもたちには、そのことをしっかりと感じてほしい。

 歯切れよく、ユニークで、ポイントを押さえた田中選手の説明や実践を、真剣に見るキラキラとしたまなざし。
それを見ていて、本当うれしくなる。
将来が楽しみになる。





 大人や社会がどれくらいそんな体験をさせてあげられるか。
何をめざして子どもたちを育てているか。
 大切にしていきたい視点。



 このようなすばらしい事業を開催された国立大洲青少年交流の家、そのスタッフ、
指導していただいたヨネックスの田中ちひろ選手、そしてそれをしっかりと受け止め、
真剣に活動した子どもたち。



 さわやかな春の訪れを感じることができた1日だった。

                岬人(はなんちゅう)









幼き日の思い出

2015-01-24 | ブログ
 松集落の話題が続いている。
コメントを送っていただく人がいるからだ。
 
 私の尊敬するかつての上司から、次のようなコメントを送っていただいた。

『夏休み、松へ到着した数日後、
買い物に上がった母が聞いた話は、防波堤に火の玉が飛んでいるから住宅の先生らは気をつけてや、とのことでした!!

 母と我々三人の子供達は恐怖を感じましたが、
父親は腹を抱えて笑い転げているので、何故だろうか?不思議でした。

 流石は父親、肝が据わっているなとも思っていました!
結論は、その頃まだ珍しかった「電池浮き」を、集落から見ていた人が、火の玉と勘違いしたことからでした!!

 写真の防波堤を見ていると、その当時を思い出します!』




 幼き頃のできごとは、全てがかけがえのない思い出。
そんな玉虫色の思い出が、ふるさとにはたくさん残っている。

              岬人(はなんちゅう)

 

誕生日に感謝

2015-01-20 | ブログ
 昨日、1月19日は、47回目の誕生日。
国内外70名をこす、多くの知り合いからのお祝いメッセージをいただき、感激。

 海外からのメッセージには、時差のせいで届く時間がまちまち。
それがまたおもしろい。
そしてうれしい。
 世界は、つながっている。

 メッセージをもらった人たちの顔が思い浮かぶ。
みんな、私にとって、大切な人。
 少なくても、顔がはっきりと見える関係。
思いが感じあえる関係。
そんなつきあいができていることに、心から感謝の気持ちがわきおこる。

「みなさま、本当にありがとうございます。」

 いつものように、母家の両親に
「今日、47歳になったよ。今あるのも、父ちゃん・母ちゃんのおかげ。ありがとう。」

 両親は、柑橘の収穫で忙しく、忘れていたようで、
「あー、今日が誕生日やったかの~。はや47歳になったかい。」

 そんな会話ができることもうれしい。

 子どもたちからは、腰痛によく効く体操の本をプレゼントされた。
よく見ているものだ。気をつかってもらっていることに感謝。
 妻からは、ちょっとしたロールケーキのおもてなし。
みんなでおいしく、楽しくいただけることに感謝。

 47歳になっても、やりたいことがどんどんでてきて、迷いっぱなし。
それもまた自分らしくて、しょうがない。

 今年もがんばります。

 下の似顔絵は、爆笑似顔絵商店【カリカチュア・ジャパン 京都清水の二寧坂店】のさつさんが描いてくれたもの。
いいねー。



            岬人(はなんちゅう)
 

セピア色の夕日と魚釣り ~松集落の思い出~

2015-01-18 | 佐田岬の風景
 私がかつてたいへんお世話になった上司がいる。
定年を迎えられ、年に1度の年賀状のやりとりだけになっていた。

 そんな昨年末、フェイスブックを始められたようで、友だちリクエストが届いた。
それからというものの、お互いの様子がよく分かるようになり、コメントまでいただいている。

 尊敬する上司からのコメントは、とてもうれしいもので、心に響く。
10日ほど前からシリーズで書いてきた「松集落のブログ」。

 これに対して、次のようなうれしいコメントがあった。



『半世紀前、父親が勤務したので、母と弟が松へ一緒に行きました。
夏休みに妹と行ってスズキ等の大物を沢山釣った覚えが鮮明に残っています!

 写真のような夕日と夜釣りでの鶴見岳のロープウェイの明かりを見たことも記憶されています。
最も印象的だったのは、冬場の北西の風と防波堤をはるかに越える大波でした…!!



 弟の後輩がサスケ兄弟で、亡父の仏壇に手を合わせに来てくれたことも、松との縁の深さを感じます!
長くなりましたが、この素晴らしい写真を仏壇の遺影に見せます!

 どうも有難うございました!!!』



 上司からのコメントを読んでいると、松集落の防波堤での景色が、
セピア色となって思い浮かぶ。

 松集落とこのようなご縁があったとは、初めて知った。

 まぶたを閉じれば、まぶたの裏側に浮かんでくるさまざまな景色。

いつまでも、いつまでも、大切なふるさと。

              岬人(はなんちゅう)

ふるさと「松集落」を離れた同級生からの便り 4 ~村をみんなでまもっていく~

2015-01-16 | ふるさと
 ふるさと佐田岬には、貴重なしきたり・習慣・行事等が残っている。
その年に亡くなった人を供養する初盆行事も、その1つ。

お盆の期間にそんな初盆行事が、浦々で行われる。
「モウナの人形回し」「おしょろ船」「モウリョウ」の3行事は、文化庁の選択無形民俗文化財に2010年春に選ばれた。
でも過疎高齢化で行事を担う人は減っている。
それでも地域の人たちは、手間をかけて静かに供養を行う。
 
 松集落に伝わる「モウナの人形回し」は、佐田岬半島の中でも特徴ある供養だ。
高さ約4メートルの竹の先に取り付けた人形が身につけているのは子どものいない女性の着物。
「モーナ、モーナ、モミドブ」の掛け声とともに男性たちが新仏の数だけ回す。



 私は、平礒のモウリョウに出なければならないので、松集落のモウナの人形回しを詳しくは知らない。
どなたかに、教えていただきたいものだ。


 昨日のブログに対して、「松集落」を離れた同級生から次のようなコメントが寄せられた。

『モウナのレアな画像をありがとう。
あー未だに、続けているんだね。
昔から流通のないどん詰まりの半島ならではだからこそ、残っているんだね。

 人形が生け贄のようでちょっと不気味だけど、お盆で先祖の霊が迎え火を目印にそれぞれのお宅に戻るでしょ。
当然、その年に亡くなった人も戻って来られる。
居心地いいだろうけど、この後、あの世へ帰ってよーっていう意味かな?
「モウナ」の語源は、「もう来るな」から来ているのかな?
今、思いついた(笑)
 今度お年寄りにインタビューしてみてください。



 田舎って業者さんいないから、みんなで助け合って冠婚葬祭するよね。
気持ちを1つにして物事をなしとげる。
それは今でも、どの社会でも感動を呼びますね。

 自由、合理化、個人主義、自己研鑽、個の尊重など、
それはそれでどれも大切な要素だけれど、スリムでかっこいいけど、それだけでは人生つまんないね。

 幼い頃、「男性は、なんで青年になったら、消防団に入るんやろー」
って思ってたけど、消防署があるわけじゃないから、村のみんなで消火しなきゃなんない。
常日頃、年上の人を団長に、火事がおこった時のために訓練していたんだね。

 お葬式も、おばあちゃんたちが集まってお料理を作ってたね。
お念仏なんかは、我流で誰かがやってたね。
自然に役割分担されてて、本当は尊いすてきなことですね。

 村中のみんなが誰かのために集まり、今回はモウナ。
誰もが真剣なまなざし、死者と交信している時間というか?
死を悲しみ、ご遺族をいたわり、なぐさめる?
そんな写真をありがとう。
見るだけで、まるで、そこにいるかのようなメッセージが伝わってきました。



 3年前に亡くなった父を思い出します。』


 人はみんな、ふるさとを抱いて生きている。
その人たちの思いを知ると、もっとふるさとを大切にしていきたいと思う。

 住んでいるところは違えども、ふるさとに対してそれぞれができることはある。
過疎のふるさとに住んでいる人だけではなく、離れた人みんなで盛り上げていかなければならない時代になっている。

 大切なふるさと。

 盛り上げよう、ふるさと。

                 岬人(はなんちゅう) 


 

ふるさと「松地区」を離れた同級生からの便り 3

2015-01-15 | ブログ
 ふるさとを離れた同級生に、
「離れてもふるさとを大切に思ってくれてありがとう。
そんな気持ちに感動しています。」
という返事をしたら、次のような返事が返ってきた。

『えー、こちらこそ感動してます。
守り続けてくれている人がいて~。本当にありがとう。

 二名津中学校まで閉校。
ふるさとの松地区は、ゴーストタウン。
漁に出ても釣れず、獲れずでしょ。
里へ行くにも獣道でしょ。
 
 年寄りが、みーんな順番にいなくなり、いつのまにか、子どもも減って。

 やっぱり寂しくなるよ。
自分の歴史がなくなるようでね。

 そんな中、まだ、田舎を守ってくれている人って貴重です。
ふと一人になって、辛いとき、悲しい時に、思い出すのはやっぱりふるさとよ。
苦しい時、思い出すのはふるさと松地区での生活だよ。
だから、都会でふんばれます。

 あっ、「Nのために」というドラマ見てる?
そこの三崎の生活を思い出してたわ。
だから、これからもよろしくお願いします。』


 彼女のふるさと松地区には、「もうな」という独特な初盆行事がある。
亡くなった人の人形送り。





 この貴重な伝統行事を絶やすことなく、受けついでいる人たち。
なくするのは、簡単。
でも復活させるのは、ものすごい力が必要だろう。

 先祖や伝統、歴史を大切にするふるさとの人たち。



 私もそんな一人でありたい。

        岬人(はなんちゅう)


ふるさと「松地区」を離れた同級生からの便り 2

2015-01-09 | ブログ
 ふるさと「松地区」を離れた同級生の便りをこのブログに載せさせてもらった。
そして彼女に事後承諾の連絡をし、ブログを見てみてほしいと連絡した。

 すると彼女からまた次のようなすてきなメールが送られてきた。

『 懐かしすぎて涙が出てきたじゃん。
なんで松地区の写真を撮っているの。
詩人だね~。
一言一言がグッと心に染みるわ。
これからも、時々、松地区の景色見せてね。

 あっ、夏でいいから、天の川が見たい。
冬もオリオン座がハッキリ見える。
何せ、電柱も自動販売機もないからな~(笑)
明かりと言えばたまに通り過ぎていく車のライトのみ。(笑)

 夜空は最高、だからよろしくね。
流れ星の流れた瞬間もいいな~。(笑)
私、半円を描くようにゆっくり流れていく流れ星を見たことあるんよ。(笑)

「事後承諾」のお返しにリクエストしておきます(笑)
倍返しだ~~。

 平礒に行ったことないんよ。
坂が多いのね。
素敵な写真がいっぱいだね。
写真コンテストに応募したら~。

 本当に勤勉な民族、日本人の鏡で頭が下がります。
おばあちゃんたちの働きの礎に都会の生活が成り立っています。

 西宇和産みかん、最近は、こちらにもすごく出回っています。 

(追伸)
 今年は、実家がなくなりましたので、より恋しいのかもしれません。
どうもありがと~。』


 彼女からの夜空のリクエストには、私のカメラでは応えられないが、
できるだけ、ふるさとを感じることができる写真は、撮ってみたいと思う。

 あの頃、私も彼女も自転車通学で、彼女の松地区からは、
二名津中学校まで5㎞。
三崎高校までは、8㎞の上ったり下ったりの坂道。
 しかも冬場は、海岸沿いはものすごい強風で、
防波堤を越えた波しぶきが雨のように降ってくることもあった。
今思えば、そんな苦労さえなつかしい。

見舞崎の上に建つ松灯台。


見舞崎の下の奇岩。


松地区から平礒方面の長崎鼻を望む。


 ひとまず、こんな写真を載せておこう。

 でもすばらしい彼女の自然体験。
夜空の思い出を聞いていると、目の前に広がるようだ。
 
 田舎をふるさとにもっている人は、都会の夜空を見上げ、何を思うのだろうか。
彼女の思い出の中にしかない夜空を、毎日見ることができる私たち田舎者は、
実はとても、とても幸せなひとかけらを手にしている。

 さまざまな場面を「幸せと思うことが幸せ」だとも
思わせてもらった彼女の便りだった。

              岬人(はなんちゅう)

 

 

ふるさと「松地区」を離れた同級生からの便り

2015-01-08 | ブログ
 二名津小学校から二名津中学校、三崎高校までいっしょだった同級生がいる。
彼女は、今、結婚して神奈川県に住んでいる。

 同窓会の案内などで連絡をたまにとることがある。
先日も正月同窓会の案内と私が書いているふるさとブログを紹介したところ、次のようなメールが返ってきた。

「ブログ、愛あふれるものでした。
思考が大人!(笑)
いつの間に大人になったの~(笑)

 サスケ、隣の人だよ。
私の弟は、こっちでコンサートにも行っている。
 タカさんが亡くなって寂しくなったね。
でもこうして三崎でもコンサートをやってたなんて、知らなかったわ~。
 サスケの曲も三崎を歌ったやつ多いよね。
段々だ~ん畑~。

 三崎の景色最高。
何ともいえない潮の香り。
真っ青な大空と海にミカン畑。

 ブログの一言一言に癒されます。

 じゃあまた時々読ませていただきます。
ありがと~。」


 まさに同級生らしいメッセージ。
とても明るくて、感性豊かな彼女。

 今は、子育てが忙しく同窓会には参加できていないが、落ち着いたらぜひ参加したいと言っている。

 彼女が子どもの頃に暮らした松地区の実家は、今はもうない。
一昨年の秋、お母さんはふるさとを出て、都会に住む彼女の妹たちと一緒に暮らし始めた。

 彼女が、これほどまでにふるさとをなつかしく思い、心を寄せているのがよくわかる。
みんなふるさとを抱いて生きている。

 だからこそ、そんな彼女たちのためにも、ふるさとの様子をお知らせするこのブログは、
書きつづけていきたい。

 彼女のすばらしいふるさとの写真を撮っていたので紹介したい。
 
 松灯台。海の安全とふるさとの未来を照らす。


 漁船。


 湾と船蔵。


 たくさんの釣り人でにぎわう。 夕日は九州大分県へ沈んでいく。


 秋の夕暮れのうろこ雲。


 旧松小学校跡に立っている二宮尊徳(二宮金次郎)の像。


 住む人がいなくなった家も多く見られる。 


 土地に根を下ろし、住む人の家から煙があがる。


 佐田岬に柑橘を持ちこんだ宇都宮誠集のふるさと。


 初盆行事「もうな」が行われるお寺周辺の家々。


 すばらしいふるさと、松地区。

 先人から受けついだ、大切なふるさとを護る人たち。
ふるさとを離れた遠くからふるさとを応援する人たち。
 関わり方は違えども、その人だからできることがある。

 いつまでも、いつまでも、私たちと共に歩む。
いつまでも、いつまでも、大切なふるさと。

               岬人(はなんちゅう)

「実家」  ヒロシの思い

2015-01-08 | ふるさと
 1月6日、いとこの広が次のような思いを、ふるさと平礒の風景写真12枚と一緒にブログにのせていた。
とてもグッとくるものがあった。



「実家」
 お正月、約二ヶ月ぶりに実家の平礒に帰った。
 人口50人に満たないこの村には、かつての天才たちが夢見た未来、2015年になっても、
スマホを持っている人が一割も居ない。

 そもそも未成年者を含めれば、携帯電話を持っている人の方が少ない、かもしれない。
流行に流されない、クールな村だ^ ^

 アインシュタインは、世界の”最後”を想像の中で見てベロを出したと言うが、
きっと、2015年の平礒をアインシュタインが見たら、ベロを引っ込めて息を呑むだろう(≧∇≦)

 もしも明日、世界が終わるなら、僕は最後の一日を、故郷、平礒で過ごしたい☆




このブログにコメントをして、次のようなやりとりがあった。
 
(私)「ヒロ、いいね。 この小径のある風景、よく撮れているな。」



(ヒロシ)「ありがとう!写真に撮ると、改めて石垣の多さに驚く!
また、今はもう居ない人たちが、写真の中にだけ浮かび上がってくる様な気がする。
ほぼろを背負って杖をつく、ふぅ婆ちゃんの姿が見えるなぁ^ ^

 

(私)「そう、平礒は、石垣の郷。 
ヒロには、見えるかい。
思い出の中に生きている人たちが。 
すごいことやね。 それが、生き続けるということかな。」



(ヒロシ)「確かに!生きている人の記憶の中で、みんな生きているんやろなぁ^ ^」



(私)「そうやね。 生きている。 みんな生きている。 
平磯での暮らしは、幸せな暮らしやね。」



 ふるさとを大切に思う気持ち、ふるさとをなつかしく思う気持ち。
そんな気持ちは、誰の中にもあるようだ。

               岬人(はなんちゅう)


 

スキーは、まるで人生  Life is good!

2015-01-06 | ブログ
 平成26年12月暮れのふり返りブログ。

 人生には、上り坂がある。


 頂上に立った達成感。




 だが上ったら、下り坂がある。




 途中、ま坂のこんなこともある。
派手に転ぶ。
転んだら、起き上がる。
手助けする。
そして、また進めばいい。






 時には、立ち止まり、ひと息ついて




 また進む。


 そのくり返し。


 おつかれさま。
楽しい滑りだった。


 Life is good!
 人生は、楽しい!

 翌日、12月29日(木)朝6時に妙高高原を出発し、
ふるさと愛媛の家路につく。
 夜9時に無事到着。
15時間の長旅。
天気もよく、問題もなく、いい旅だった。

       岬人(はなんちゅう)

 

 



 

 

私をスキーに連れて行って!

2015-01-06 | ブログ
 平成26年12月27・28日のふり返りブログ。

 青春時代に志賀高原を舞台にした「私をスキーに連れて行って!」という映画が流行った。
かっこいいな-、男女のすてきな恋愛だなー、と思う反面、
雪が降らない南国愛媛には、別世界のことのように思っていた。

 それでも2年に1度くらい久万スキーランドに行って滑ったことを思い出す。
もちろん映画のようなことは1度もなかった。

 今回の妙高スキー旅は、
私が、「久しぶりに、スキーに行くかい?」
と子どもたちに投げかけたところ、3人とも
「行く、行く。」
と乗ってきたことから始まった。

「どうせ行くなら、城川の義兄家族も誘ってみよう。」
ということで、高校1年の甥っ子だけがいっしょに行くことになった。

 まさに子どもたちからの
「私たちをスキーに連れて行って!」
というラブコールだったのだ。

 これまでの道中のように、雪をめったに見ない者が、
雪の銀世界を見るだけでも感動。

 ゲレンデに行くと、高い山から見る景色が最高。
この2日間は、シーズンでも何度もないというくらい、すばらしい天気に恵まれた。

 甥っ子は、初めて乗るゴンドラ。


 妙高山をかけ上がって行く。
真っ青に晴れわたった空と地上の真っ白な雪。


 ゴンドラを降りると、次は高速リフトでさらに高い所を登っていく。
空中散歩と言ったところ。


 リフトを降りた最高地点1855mから見おろすと、下に長野県の野尻湖、真正面に斑尾高原が見える。




 そして、28日の午前中には、遠く富士山が見えた。
この景色には、みんなビックリ。


 そうしてこの後の滑りは、というと。
楽しくもあり、激しくもあり。


 特に、ほとんど初心者の甥っ子には、感動の体験だった。

                岬人(はなんちゅう)