喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

娘に似てる ~しずくちゃん/Shizuku-Chan GREEN DA・KA・RA 3~

2019-12-26 | 家族
 おもしろいCMを見つけた。
登場する女の子が、幼い頃の娘によく似ている。

 あっけらかんとしているところ。
 豪快な飲みっぷり。




 
 他の人にも聞いてみたい。

 そんな娘も今は19歳。
 ふと、思った。
親にとって我が子は、いつまで経っても子ども。
幼き頃がすぐによみがえってくる。

 年末、娘が岡山から帰省したら聞いてみよう。




しずくちゃん/Shizuku-Chan GREEN DA・KA・RA 3

子どもたちがいないクリスマス

2019-12-25 | 家族
 クリスマスに対する感じ方が、状況とともに変わってきた。
独身の頃は、すてきな女性と過ごすことにあこがれ。
結婚し、子どもができてからは、子どもたちの喜びとともに。
そして、二人の娘たちがいなくなった今年のクリスマス。

 昨日のクリスマスイブ、特に準備する気持ちもなく、ふだんどおりの時間が過ぎようとしていた。
街に出たついでに妻に電話。
「何か買って帰ろうか?」
妻からのリクエストは、「ショートケーキとスパークリングワイン」

 やはり子どもがいなくても、雰囲気を味わうことはいいかも。

 つくづく感じる。
やはり、子どもの存在は大きい。

 二人の娘たちに連絡したら、返事が返ってきた。
「今夜はクリスマスイブやけど、何しよるの?」
二人とも
「サークルの友達とクリスマスパーティーしよるよ。楽しい。」

 12月23日、24回目の結婚記念日を迎えた夫婦。
これまでとは違った喜びを創り出していきたいものだ。

 ※ 画像をクリック
   2年前のすてきなクリスマスの様子。

 


ルシアンからのクリスマスの贈り物 - 喜久家プロジェクト

昨日12月24日は、クリスマスイブ。数年前、高校1年の娘たちに我が家のサンタクロースが見つかって以来、我が家にはサンタが来ない。子どもにとっ...

ルシアンからのクリスマスの贈り物 - 喜久家プロジェクト

 

5年前、2014年に娘たちと行った広島「原爆の日」

2019-08-07 | 家族
 8年前の2011年、息子と行った広島「原爆の日」。
それから3年後の2014年、今度は双子の娘たちと広島「原爆の日」を訪れた。
その時の様子をブログでふり返ってみる。


「69回 広島平和記念式典に娘たちと参加」

被爆地、広島は6日、69回目の原爆忌を迎えた。
ぜひ娘たちを連れて参加したいと思った。

 と言うのは、中2になる娘たちが7月上旬に広島で平和学習を行った。
その思いや学びを深めてほしい、広げてほしいと思った。

 5日午後1:30に実家を出発し、車を広島へ走らせた。
父と娘2人の3人旅。
 午後7:30に広島駅近くの宿ゲストハウスに到着。

 小雨が降っていたが、前日にひかえた夜の広島平和公園を訪れた。

 そして今朝も小雨が降るなか、平和記念式典が始まった。
約4万5000人の参列者が犠牲者を悼んだ。

 くわしくはまた記したいと思う。


 広島松井市長の平和宣言


 安倍首相の取組の誓い


 感動の子ども代表「平和への誓い」


原爆が投下された8時15分に黙祷



 原爆ドーム前で娘たちと核廃絶を祈る

 広島のことを、原爆をもっと知らなければ。
戦争を知らない私たちが。

                   岬人(はなんちゅう)


8年前、2011年に息子と行った広島「原爆の日」

2019-08-07 | 家族
 昨日8/6は、被爆から74年の広島「原爆の日」を迎えた。
8年前の2011年、息子と行った「原爆の日」を思い出す。
その時の様子をブログでふり返ってみる。


「父と息子の広島の旅」

父と息子だけの二人旅もいいものです。
 息子がおむつをしていた二歳の頃、別府高崎山へ猿を見に行きました。
息子は生で見る猿に大はしゃぎ。

 あれ以来の二人旅。
我が家の旅行は、登山やスキーなど自然体験がほとんどで、
レジャー施設やショッピングなどはありません。

 ある程度子どもが成長したら、社会を考えさせることを目的とした旅行に出かけることを考えていました。
 今回は、明日8月6日の広島平和記念式典を見に行きます。
少し強めの刺激を受けることで、社会についての意識が芽生えていくと思います。
学校がこういったところへ連れて行くことはむずかしく、
家庭の役割だと考えています。



 息子は、今中学2年生で、7月には学校の平和学習で、
広島に行きました。
 三崎中学校の平和学習は、とても充実しています。
被爆証言を聞いたり、平和資料館・原爆ドーム・慰霊碑を見て回ったり、
原爆の子の像に千羽鶴を捧げたり、滋君の弁当を再現したものを昼食で食べたり、
佐々木貞子さんの折り鶴について学んだり、学校に帰ってからも被爆アオギリ2世を
植樹したりと、たいへんすばらしい学びをしました。

 したがって、息子の意識はとても高まっている状態です。
今夜は前夜ということで、平和公園内ではさまざまな集まりがあります。
明日は、平和記念式典、「はだしのゲン」作者の中沢さんの出身小学校、元町小学校でのワークショップ、午後からは子どもたちによる平和創作劇「I PRAY ~子どもたちの祈り~」、夜は灯籠流しを見る予定です。

 これらのすばらしい内容を企画してくれたのは、
尊敬する渡部朋子さん(NPOアント・ヒロシマの代表)。

 息子は、今回の旅でいったい何を感じることになるのでしょう。
そんなことについても帰りの船や車の中で語り合いたいと思っています。

                    岬人(はなんちゅう)

平成31年、新年の誓い ~孫娘から祖父への思い~

2019-01-04 | 家族
しばらくインターネットを触っていなかった。
久しぶりにフェイスブックもチェックしてみると、娘が以下のような記事をあげていた。
うれしくなるような内容だったので、記録しておきたい。


「明けましておめでとうございます。☀️
2019年は、何よりも人との繋がりを大切にし、謙虚に学習に取り組みます。
1月1日、祖父について語りますので、最後まで読んでいただけると幸いです。



 例年同様、祖父と共に初詣に行きました。
神社、お墓、お寺の順番でお参りをし、全ての場所で祖父は般若心経を唱えます。
その時、まるで祖父が別世界にいるように思えるため、私はその最中には決して声をかけないようにしています。
(私も祖父の後に続いて唱えてみたものの、ブレスのタイミングが掴めず息切れした)

 毎年、盆と正月には、妹のさやかさんを含め3人で墓掃除をし、一緒に手を合わせに行きます。
私が幼い頃は、祖父の作業を見ているだけでしたが、今では私たちも多くのことを手伝えるようになりました。
 今日、ロウソクの火を隣の墓石の線香に移した時、ふと気が付きました。
幼い頃は、火傷をするのが怖くて火は扱わないようにしていたのに、いつの間にか火を移せるようになったんだなぁ。
こんなに小さなことでも、祖父の役に立てると思うと嬉しい気持ちになります。

 毎年、お寺の参拝が終わったら「じゃあ先に帰っとくね~👋🏻」と言って早く帰っていました。
しかし今年は、少しでも祖父と過ごす時間を増やしたいと思い、祖父の歩幅に合わせてゆっくり帰りました。
 帰宅途中は、我が家の家紋やら、三崎高校の公営塾やら、神松名地域に多い苗字やらの話で盛り上がりました。
(ほぼ祖父が一方的に喋った)。
私は始終、「ふ~ん」の一言しか発しませんでしたが、その「ふ~ん」が去年の今頃より増えたことは間違いありません。



 あと3ヶ月で、大学進学のため、しばらくの間 祖父ともお別れしなければなりません。
毎日の「行ってきます」と「ただいま」に祖父が応えてくれることもなくなると思うと、寂しいです。
 朝補習に遅れそうな朝や、塾で疲れて帰宅した夜は、
正直この一言のために祖父母のもとに顔を出すのが億劫な時もありました。
(今思えば面倒くさがりもいいところ。祖父母宅まで7メートル)
それでも、特に高3になってからは、毎日欠かさず声をかけています。
その方が祖父母も嬉しいやろうし👍←上から目線



 祖父と話していると、自分が情けなくなる時があります。
最近はますますそうです。

 高2の春に言われた、「じいちゃんは、わがままなあんたらに、腹が立って腹が立って仕方ないんよ。」
という言葉が、ずっと心に引っかかっています。
祖父は何気なく言っただけだったのでしょうが、私はこの言葉を一生忘れないと思います。

 当時の祖父の目には、私はどんな風に映っとったんやろう……。
 今でも考えを巡らせますが、祖父がよく私たちにしてくれる昔の話を聞く限りでも、
そう言われるのも無理はないなぁと痛感します。

 私には想像もつかない程、祖父はたいへんな思いをしてきたということです。
 もっと頑張らんといけん、私は様々なことに恵まれ過ぎて、
努力することや 当たり前のことを当たり前にすることができなく(しなく)なったり、
人に感謝する気持ちが薄れたりと、とにかく周囲に甘えすぎているのだと大反省しました。
 それからは、少しでも ましな人間になれるようにと意識して生活してきました。


 あの時、祖父が例の言葉を言ってくれたおかげで、その時の傲慢な自分はいなくなった!
とまではいかないかも知れませんが、とりあえず私はあの言葉を言われた後の、今の自分の方が好きです。
 
 私が祖父ほどの苦労を味わうことは、おそらくこの先もないと思いますが、
今 自分の目の前にあることに、ただひたすら一生懸命に向き合いたいです。
 いつか、祖父の気持ちがほんの少しでも理解できる時がくると信じて、誠実に生きようと決めました。
大袈裟に聞こえるかも知れませんが、人間にとって最も大切な部分は その点だと私は考えています。




 大学生になり、追い詰められることが必ずあると思います。
そんな時は、まず祖父に電話をしようと思います。
情けない私に喝を入れてくれるはずです。

 両親や友だちに助けを求めてしまったら、きっと皆優しく励ましてくれると思います。
その優しさに再び甘えすぎてしまうと、私はどんどん弱い人間になってしまいます。
辛くなった際、泣いたところでどうにもなりません。
泣く暇があれば、次にどうするかを考えたいと思います。
(とか言いつつ必ず泣くことになるんやろうなぁ笑笑)

 祖父は、言葉の表現こそ厳しいものの、私にとって最も効果的な方法で私を鼓舞してくれます。

 『祖父のように、自立した強く優しい人間になる。』
もしかすると、私の一生の目標となるかも知れません。
ありがとう。


 18歳。あと少しで家を離れる。
 改めて、祖父と向き合った正月。
大学卒業後、少しでも成長し、祖父に認めてもらえるように今から頑張ります。


 今年は、自宅から初日の出を見ました。


 朝は、鳥のさえずりで目を覚まし、夜は満天の星空が広がる。
山と海が目の前にあり、波の音が聞こえる。
控えめに言って最高。
 こんなにも良い環境で暮らすことができる幸せを、本日もかみしめております。

今年も、よろしくお願いします。」




 孫娘と祖父の心のつながり。
私は、娘の親としても、父の子としても、これほどうれしいことはない。

 ふるさとの田舎には、こんな心豊かな暮らしがまだ残っている。

 この文を父に見せたらどうだろう?
79歳になる父の喜ぶ顔が目に浮かぶ。


           岬人(はなんちゅう)

 
 
 

息子の誕生日は、家族の記念日 

2018-06-04 | 家族
 6月3日は息子の21回目の誕生日。
家族の誕生日は、家族の記念日だと思う。

 平成9年、夫婦だけだった暮らしに待望の息子が誕生した。
両親、親戚、親しい人たちからもそれはそれは喜ばれた。

 私たち若い夫婦は初めてながら、愛情いっぱいに、人の道にそれないよう育てようとした。

 「子どもは、親の言うようにはしないが、親のするようにする」
と言われる。
まさに子育ては、親育てだと思った。
 だから息子の誕生日は、親としての自分の記念日でもあるし、
家族の記念日でもある。



 パソコンに保存している写真を見てみた。


 2006年、郷づくり「喜久家プロジェクト」を始めた。
ボランティアたちが生活する家を掃除、整理するためにばあちゃんと荷物を運んでいる。
12年前なので、息子は9歳。


 2007年、ボランティアの韓国のキリュウちゃんと私の知り合いの角ちゃんと友だち。
息子は、国内外の若者たちと出会い、育ててもらった。


 2010年、まだ二名津に住んでいたとき。
恭平君や韓国のお姉さん2人が訪ねて来てくれた。


 2011年、喜久家プロジェクトの活動を応援に来てくれた若松さんとの出会い。
若松さんも長男家族といっしょに暮らしているところが、我が家との共通点。


 2012年、アメリカのボランティアのリタと我が家族で収穫作業。
作業の合間の休憩。
 息子は、昔からよく実家の柑橘作業を手伝った。


 3年前、2015年。高校3年生の時のお盆行事「もうりょう」。
ふるさとの地域行事にも必ず参加し、ベトナムのミンやロシアのアザト、中学生のけいたに笹舟を教えているところ。


 今年2018年3月。
 愛媛県立農業大学校を卒業し、実家を継いで農業をしている。
 2年間、親元を離れている間に、とがっているところがとれて、
妹たちにもずいぶんとやさしくなった。
 この変わりぶりように、家族みんなが驚いている。


 重労働の柑橘作業。
夕食で晩酌をすることが、毎日の楽しみだと言っている。
親子で、酒を飲みながら、その日あったこと、これからの予定や目標・夢などを語り合う。
 農業と真摯に向き合い、いい柑橘を作ろうとしている姿にうれしくなる。


 息子の誕生日は、まさに私たち家族の記念日。
ふるさとの田舎には、まだ故き良き日本が残っている。


                岬人(はなんちゅう)
 
 

祖父と孫娘のしめ縄作り

2017-12-30 | 家族
 いよいよ大晦日がせまっている。
正月を迎える準備であわただしい。
 
 そんな中、父のしめ縄作りを娘が手伝ってくれた。
そして次のようなことをふり返っている。

「しめ縄作りのお手伝い。
進路の話、三崎高校の様子、祖父の若い頃の話、昔の平礒など たくさん語り合いました。

『うちほど、お正月に向けて色々準備する家、他にないことない?』
と私が尋ねたら、

『確かにそうかもしれん。最近はそんな家庭も随分減ってきとるんやろうな、🙄💭』
とじいちゃんが答えた。




 でも、うちではそれは当たり前。
そしてそれが祖父母と関わる時間と空間を生み出してくれる。

 しわしわだけど器用に作業をする祖父の手を眺めながら、こうやって語り合えることの喜びを噛み締める。
素直に幸せです、はい。

 高校を卒業したら、こんな機会もなくなるから、
今のうちに祖父母ともっともっと関わりたいと思ったひと時😌
この時間を大切にしたい。」


 祖父と孫娘とのしめ縄作り。
ご先祖様もさぞ微笑んでいることだろう。

 そして年神様をお迎えする準備がととのった。

 いい正月が迎えられそうだ。

               岬人(はなんちゅう)

ばあちゃんと孫娘のかぼす収穫

2017-12-30 | 家族
 年の瀬29日、かぼす収穫の手伝いをしてくれた娘が、
次のようなことを言っている。

「急きょ、1日かぼす収穫を手伝うことに。
助っ人の協力もあり全てとり終えました…!👍

 あっという間に私たちも3年生…。
来年は手伝いできる機会も減るんやろうなぁ(/´△`\)

 いろんな話をする中で、これからばあちゃんを、
ばあちゃんと過ごす時間を、大切にしたいと思った1日でした。」




 孫と祖母のつながり。
 
 ふるさとの冬は、あたたかい。

       岬人(はなんちゅう)

お父さん、一緒に晩酌しようや

2017-12-27 | 家族
 昨日の夕方、仕事が終わり、車に乗りこんだとき、
一昨日帰省した息子から電話がかかってきた。

「お父さん、今晩一緒に晩酌しようや。」

 思わず吹き出してしまった。
こんなことを言うようになったか、と思ったからだ。
 そして、うれしさもあり。

 帰りに日本酒を調達。
純米辛口「加賀纏(かがまとい)」。
 金沢でもっとも長い歴史をもつ酒蔵。
なかなかの切れ味だった。



 机をはさんで、学校のこと、農業のこと、ふるさとのこと等、
飲むほどに、酔うほどに話がはずんだ。

 父と息子のいい時間だった。


      岬人(はなんちゅう)
 

「お父さん、お母さん、生んでくれてありがとう」 娘たち17回目の誕生日

2017-11-07 | 家族
11月7日(火)。

 双子の娘たちの17回目の誕生日。



「お父さん、お母さん、生んでくれてありがとう。」



この一言が親子の絆を強くする。


          岬人(はなんちゅう)

ふるさと平礒のお盆  おしょろい棚

2017-08-15 | 家族
2年前のお盆のこと。


佐田岬半島には、古いお盆行事がそこここで遺っていて、
受けつがれている。

 平成22年、佐田岬半島(伊方町)の初盆行事が、
文化庁の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に指定された。


 これを受けて、記録作成のため東京から株式会社「桜映画社」のスタッフ3名が来られた。
桜映画社は、1955年創業。
ETV特集、新日本風土記、NHKハートネットTV、カンブリア宮殿、ガイアの夜明け、美の壺など
信念を持った数多くの作品を製作されている。

 13日、お盆ということで先祖を迎える。
 おしょろい(御精霊)様つまりご先祖を迎えるために棚を組み立て、
仏壇から位牌を移し、夏野菜や料理お供え物を供える。



 今では、平礒の中でもおしょろい棚を組み立てる家は少なくなったと聞く。
そこで、未だに引き継いでいるわが家のおしょろい棚と
初盆(みぼん)を迎える河野一郎さんの家のおしょろい棚を撮影。

 あととりの私も父から教えを受け一緒に組み立てているが、
数年前から息子にも引き継いでおきたいと思い、
手伝いをさせている。
 祖父から孫へのバトンリレー。







 
 おしょろい棚を組み立てた後、父と息子が縁側に腰かけ、
何やら話していた。
 父は、物心もつかないうちに、自分の父親を太平洋戦争で亡くしたため、自分の祖父を父親の代わりとして育った。
まさにそんな光景を想像させる。




 将来、息子が祖父を良き先祖として語りついでくれることだろう。
ふるさとのお盆には、大切なものが残っている。


             岬人(はなんちゅう)


息子から届いた父の日のメール

2017-07-22 | 家族
 ほぼ1ヶ月ぶりのブログ更新。
田舎に住んでいながら、完全にワークライフバランスが崩れていた。
書きとめておきたいことは、たくさんあったのに。
 撮った写真を見返しながらつづっていくことにする。

 6月9日(金)、いつものように息子が授業を終えて松山から帰って来た。
いつも保内の友達の車に便乗させてもらっている。



 そして土・日と家の手伝いをして日曜の午後松山に向かうパターン。
10日(日)に、母と一緒に冷蔵貯蔵していた清見タンゴールの選別作業。



 いろいろな話に花が咲いていた。
孫とのこんな時間に、母はすごくうれしそうだった。

 ばあちゃん子だった私にはよくわかる。
ばあちゃんからとても大事にされた。
今、息子がそうされている。

 時代は繰り返され、愛情はつながっていく。

 1週間後の6月18日(日)の午前中。
携帯に息子からメールが届いていた。

「父の日、おめでとう。
何もできんけど(笑)、フェイスブックを見て、思い出したわ。」

 何もいらない。
この言葉だけで十分だ。
高校時代までは、こんなことを言う息子ではなかった。
 
 巣立って初めてわかることがある。
さまざまな経験や出会いから成長していく。

 人が育つって、うれしい。

              
      岬人(はなんちゅう)


母の日のカーネーション

2017-06-05 | 家族
 妻が母の日に贈ったカーネーションが長い間、きれいに生けられていた。



 母の日にカーネーションを贈るきっかけを作ったのは、アメリカ人の少女アンナ・ジャービス。
亡き母のために白いカーネーションを配ったことから、母の日にカーネーションを贈る習慣ができた。

 少女の母親が亡くなったのは、1905年5月9日のこと。
その3年後の1908年5月10日、アンナ・ジャービスはフィラデルフィアの教会で、
亡き母を追悼するために白いカーネーションを祭壇に飾り、出席者にも配った。
 白いカーネーションは、彼女の母が好きな花だったのだ。


 この出来事をきっかけに1914年、5月の第2日曜日が母の日に制定された。
当初は母親が健在な人は赤いカーネーションを、
母親が故人である人は白いカーネーションを自分の胸に飾っていた。
 それが、やがて母親本人にカーネーションを贈る習慣へと変化していったのだ。



 元々カーネーションは、十字架に架けられたキリストに聖母マリアが落とした涙から咲いた花だといわれている。
そして白いカーネーションは十字架にかけられる前のキリストとマリアを表し、
赤いカーネーションはキリストの体から散った血の色と言われている。
 白と赤では同じカーネーションでも、意味合いが違っているのだ。



 小さな田舎の心温まる出来事だ。
花のある暮らし。
いいものだ。


             岬人(はなんちゅう)

母の日の思い出

2017-06-01 | 家族
 今年の母の日は、5月14日(日)。
 弟が前日の13日(土)に、私の息子も帰っているからということで、
みんなで夕食を食べようと持ちかけ、買い出しに行ってくれた。

 少し肌寒かったが、縁側で夕食を。
孫たちがそろうと、父も母も上機嫌。


 そうこうしているうちに、外出していた妻がカーネーションを買って帰えり、
母にプレゼント。
 このサプライズに母はうれしそうだった。


 ゆったりとした時間の流れに、ぬくもりが重なる。
幸せなひと時。



 母の日の由来は、
「1905年5月9日、アメリカのフィラデルフィアに住む少女「アンナ・ジャービス」が母の死に遭遇したことで、
生前に母を敬う機会を設けようと働きかけたことに由来する。
 やがて、この働きかけがアメリカ全土に広まり、
1914年には当時の大統領「ウイルソン」が、5月の第二日曜日を「母の日」と制定し、国民の祝日となった。」


 アメリカの出来事が、日本に伝わって来たのだ。

 母の思い。
母への思い。
 世界みんないっしょのようだ。


          岬人(はなんちゅう)