喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

武蔵国の「東京スカイツリー」 

2013-02-26 | ブログ
武蔵国の「東京スカイツリー」 


 2月17日(日)東京出張。
 昼過ぎまで靖国神社でゆっくりと過ごし、
次に行ったのは「東京スカイツリー」。
 着いたのは、夕方になっていた。

 この時は、偶然にも虹がかかっていた。




 見上げると、首が痛くなる。
故郷で最も高い伽藍山という山がある。
高さは、414㍍。

 東京スカイツリーの高さは、634㍍。
とても覚えやすい。
息子の名前が、「武蔵」。 
昔々、東京は「武蔵の国」と呼ばれていた。
「むさし」つまり数字に直すと「6・3・4」

 この高さにしたのは、偶然だろうか。
それとも武蔵の国にちなんでだろうか。

 待ち時間が長かったので、展望台には上らなかった。
そのかわり、いろいろな所から東京スカイツリーを眺めた。

 すみだ水族館側から


 イルミネーションツリーごしに


 青色のイルミネーション


 隅田川から


 人間の力、日本人の力ってすごい。
こんなとてつもないものをつくるのだから。

 実は、東京スカイツリーともう1つ見てみたいところがあった。
それは、ソラマチにあるケーキ屋さん。
「エスプリ・ド・パリ」

 実家で作った柑橘が関係していたから。
この話は、また後ほど。

靖国神社 父の涙

2013-02-24 | ブログ
 2月17日(日)に靖国神社を参拝し、お札を買った。
母家に住む両親へのお土産は、いつもご当地の食べ物と神社やお寺のお札。
信仰心の厚い両親に喜ばれる。

 20日(水)に愛媛平礒に帰宅し、まず母家にお土産を持っていった。
父は何よりも靖国神社のお札がうれしかったようで、すぐに神棚にお祀りした。

 父は、物心つかない頃に自分の父(金太郎)を太平洋戦争(大東亜戦争)で亡くしてる。
あまりにも幼かったので、その記憶はほとんどないという。
 父は、靖国神社のお札をきっかけに、自分の父(金太郎)の話をしてくれた。



『戦後、金太郎の義理の弟、河野万太郎(つまり父からすると自分の母の弟なので叔父になる)が大分県国東半島の村に山仕事の出稼ぎに行ったときのこと。

 その村の仕事をたのんだ村長が様子を見にやってきた。
ひと休みの時間、万太郎は村長から話しかけられた。
村長:「生まれはどこですか?」
万太郎:「私は愛媛県の西宇和郡です。」
村長:「西宇和郡ですか。西宇和郡のどこですか?」
万太郎:「神松名村の平礒という所です。」
村長:「えー、私の戦友に平礒の浅野金太郎という人がいます。」
万太郎:「えー、浅野金太郎は私の義兄です。」
村長:「えー、こんなこともあるんですね。金太郎さんは元気ですか?」
万太郎:「金太郎は、戦争で亡くなりました。」
村長:「えー、そうですか。」

 不思議な縁で、このような驚きのやりとりが進んだ。

村長:「金太郎さんは、あの時私と一緒に兵学校に行っていたら、死ななかったかもしれません。」
万太郎:「どういうことですか?」
村長:「私と金太郎さんは、優秀だったので兵学校へいくことを進められたのです。金太郎さんは人望が厚い人だったので、考えを聞いてみました。彼は、自分は長男だからいつかは故郷へ帰り、父と妻と農業をするつもりだ。あなたは次男だから兵学校に進んだ方がいい。そう言って、私たちの進む道は、別れたのです。」
万太郎:「そうでしたか。それで義兄は、護衛のため輸送船に乗りこんだときに攻撃され、亡くなったんですね。」
村長:「金太郎さんの手帳には、お父さんと、奥さんと、2人のお子さんの名前が書かれていて、家族の話をしてくれたことがありました。亡くなったことが残念でなりません。」

 靖国神社には、そんな親父が祀られちょる。』



                        「遺された母と子の像」

 そんな話をしてくれた時、父の声が震えていた。
今の幸せは、過去の悲しみと努力とつながっている。

 亡くなられた人の数だけ、さまざまな物語と悲しみがある。
そんな過去の現実を我が子や未来の人たちに語りついでいきたい。

 命を大切にし、たくましく生きていかなければならない。
平和な世の中をつくっていかなければならない。

 東京のど真ん中の靖国神社にて、
佐田岬の田舎の過去と未来に思いをはせた。

                       岬人(はなんちゅう)
 
 
 

靖国神社にて祖父を想う

2013-02-23 | ブログ
 靖国神社で手を合わせ、亡き祖父のことを想いました。


 
 太平洋戦争(大東亜戦争)で亡くなった祖父金太郎は、
ふるさとの愛する人たちに向けて何通かの手紙を書いていました。

 もちろん多くは、妻ミチエに向けて書かれたものです。
 その手紙の1通を祖母ミチエが生きていた頃、見せてもらったことがあります。
封筒裏の差し出しは、
 北海道室蘭市海岸町22番地 栗林商船株式会社 海南丸
からになっていました。

 手紙は見つかっていませんが、
そのなかみの一部を祖母は覚えていました。
 祖母ミチエが晩年入院中、お見舞いに来ていた孫の美智子(私の妹)に、
金太郎から贈られた句をすらすらと口にしたそうです。
60年近く経つというのに。


 「踏まれても 踏まれても
    耐えてよ忍べ 道芝よ
      やがて花咲く 春も来るらん」


「道芝」を妻「ミチエ」にたとえて言っています。
愛する妻を気づかう気持ちが、痛いほど胸に伝わってきました。

 祖父金太郎は、海軍の物資を運んでいた海南丸に乗り込み、
太平洋側にある宮城県塩竃から、日本海側にある山形県酒田をめざしていました。
 そして運命の昭和20年、5月13日。
どこのあたりで、どんなふうに撃沈されたかはわかっていませんが、
最後の時をむかえました。

 定かではありませんが、父の予想によると、
津軽海峡付近で、潜水艦の魚雷で沈められたのではないかと言っています。
当時、津軽海峡付近でアメリカの潜水艦が多く目撃されていたそうですから。

 浅野金太郎27歳。

 終戦8月15日まで、あと3ヶ月、初夏のころでした。




 このようなことを想いながら靖国神社を参拝しました。
胸に熱くこみ上げてくるものがありました。

 先の戦争を結果論として話す人がいますが、
大切なのはその時々の現実だと思います。

 祖父は、戦争で亡くなってしまいましたが、
祖父がいたから今の自分があるのです。



靖国神社に祀られている祖父

2013-02-23 | ブログ
 2月17日(日)。
昨日の神楽坂は、郷づくりの大きなヒントを感じさせてくれた。
 この日の東京は、風も強くなく青空が広がっていた。 気温は、佐田岬に比べて低い。

 行き先は、まず靖国神社。
 地下鉄九段下駅を出て、日本武道館を左手に見ながら靖国通りを上って行く。
沿道には、つぼみの状態の桜が春を待っている。
靖国通りを5分ほど進むと右手に大きな鳥居が見えてきた。これが靖国神社。

 

 正面に近代日本陸軍の創設者で靖国神社の創建に尽力した大村益次郎(村田蔵六)の銅像がそびえている。
明治26年(1893)、日本最初の西洋式銅像として建てられた。
 江戸時代の終わりに、宇和島藩にも来て、兵制改革に関わった長州藩出身の才人大村益次郎(村田蔵六)。
像の下を通り奥へと進む。
 
  

 中央の二つの扉に、直径1.5メートルの菊花の紋章が取り付けられている神門をくぐり、
檜でできた3つ目の中門鳥居をぬけると、拝殿がある。

 

 

 たいへん多くの人でにぎわっていた。
靖国神社に関しては、賛否両論いろいろな意見があるが、これほどの人が訪れ参拝している現実がある。
 
 境内には、ソメイヨシノやヤマザクラなど約400本の桜があり、つぼみをふくらませ、咲く頃を待っていた。



 靖国神社は、明治2年(1869)6月29日、明治天皇によって建てられた東京招魂社が始まり。
明治12年(1879)に「靖国神社」と改称された。
 国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社。

 靖国神社には現在、幕末の嘉永6年(1853)以降、明治維新、戊辰の役、西南の役、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、太平洋戦争(大東亜戦争)などの国難に際して、国を守るために尊い生命を捧げられた246万6千余柱の方々の神霊が、身分や勲功、男女の別なく、すべて祖国に殉じられた尊い神霊としてお祀りされている。

 私の祖父(浅野金太郎)も昭和20年5月13日に戦死して、祀られている。
終戦3ヶ月前の初夏のころだった。

 靖国神社には、もちろん祖父のお骨などいっさいあるわけではない。
でも自分の先祖のことを何か感じたいという思いがあった。
 
 拝殿にて参拝し、戦争で亡くなった祖父のことを想った。



東京と田舎

2013-02-21 | ブログ
 仕事で東京に行く機会がありました。
3年ぶり。 松山空港から1時間30分の空の旅。
JALの早割で報復2万円少し。

 近いようで遠い、遠いようで近い東京。
故郷と比べながらさまざまなことを感じる旅となりました。

 ふり返りながら、記録に残しておきたいと思います。

国立オリンピック記念青少年総合センター  若者たちをつなぐ

2013-02-18 | 教育
 
 
 2月17日(日)、研修のため東京に行き前泊。
 この日は、午前中明治神宮、昼前から靖国神社、東京スカイツリー、
夕方から浅草へとハードな散策。
めったに来ないのでよくばったスケジュール。



 夜は、親友の北見さんと飲む予定が入っていた。
北見さんは、国立オリンピック記念青少年総合センターの職員で、
翌日からの研修の責任者、そして講師。

 夜9時正門で待っていると、薄暗やみから
「いや~、浅野さん。お久しぶりで~す。」
という元気で高い声が聞こえ、再会を喜び握手。
心の底からうれしくなる。
 これは、少しも変わらない北見さんのコミュニケーションスタイル。
人を元気に、うれしい気持ちにできる人、北見さん。

 さあ、どこに飲みに行きますか?
明日は、「庄や」に来るので別なとこに行きましょう。
では、高級中華料理店へ。
と言って入った店が、そう広くなく、ご夫婦だけでされているアットホームな店。
 人好きの北見さんがおすすめする参宮橋の中華料理店。

 ヘルシーで、おいしい料理が出てくる。
ビールにぴったり。
 そのうち中国のお酒「紹興酒(しょうこうしゅ)」が瓶ごと。



 酔うほどに、話も盛りあがり、熱い話へと。
その中で、心に残っているものがある。

 北見さんが言われた。
「浅野さん、あと10年が勝負です。
戦後の世の中をたくましく生きてこられた人たち。
その考え方と匠の技を引きついでいくタイムリミットは、あと10年。
こんなすごいみなさんと若者たちを出会わせ、つないでいくのが私たちの大切な役目だと思っています。」


 酔いがまわりつつあった頭が、シャキッとした。
まさにそれは、戦中生まれの自分の両親そのものだったからだ。
 70歳を過ぎた父が思うように動けるのは、あと10年くらいだろう。
土を愛し、土とともに生きてきた。
柑橘づくり一筋50年。
この経験と知恵、そして精神を誰がひきついでいくのか。
 できることとできないことはあるが、それは自分の役目だと思った。


 北見さんの言葉は、若者へのメッセージであり、
私自身へのものでもあった。

 その後も店をかえ、北見さんとの熱い話は1時まで続いた。
東京の心熱い夜だった。

 
 
 

艶っぽい路地と坂の町  神楽坂

2013-02-16 | 地域づくり
艶っぽい路地と坂の町  神楽坂


 東京に行ったときは、大きく2つのことに惹かれる。
1つは、田舎にはないものを感じたい。
そしてもう1つは、田舎と同じようなものを感じたい。

 そんな気持ちから過去足を運んだ場所は、浜離宮、岩崎邸、
上野公園周辺(東京国立博物館、国立科学博物館、西洋美術館など)
湯島聖堂、六本木ヒルズ、道玄坂、靖国神社、明治神宮、皇居、
港区大使館通り、足を伸ばして、横浜異人街、赤煉瓦感、鎌倉、江ノ島など 

 そして今回は、2月16日(土)の昼下がり東京に到着し、
3時頃から神楽坂を歩いてみることにした。

 約400mほどの坂道から艶っぽい小路が縦横に伸びる風情ある町、神楽坂。
昭和初期には花街として大いににぎわっていたようだ。
 政治家や実業家たちが接待として出入りしていたのだろう。

 風情ある小路が迷路のようにあった。
一見、普通の民家のようにも見え、実はお店だったり。
まるで京都のように感じる。

 同じ小路を日が落ちた夜も歩いてみたくなった。







 灯りが地面に置かれていたり、明るすぎずちょうどいい。

 この日の東京は気温が低いうえに、風も強かった。
体を温めに入った喫茶店が、シンプルでモダンなお店。
 飾っていた万華鏡が目にとまり、回してみた。
今までに見たことのない感動的な模様。
同じ模様を2回見る確率はものすごく低く、4000年に1回とか。
その言葉でロマンを感じた。
あんな小さな中に宇宙がひろがっている。
手のひらの小宇宙。


 神楽坂には、フランス人学校や日仏学院があり、
フランス人が多く住んでいるらしい。
道を歩いていてもよくすれちがった。
 そして、フランス料理の店がとても多かった。

 パリのモンマルトルの丘を思わせるような石畳の小路。
古いものを大切にする気質は、フランス人の考えとよく合うらしい。

 そんな数あるフランス料理屋から、とてもおてごろな、
肩ひじ張らない店を見つけて夕食をとった。

 

 

 これにパンとデザートがついている。
どれを食べても、とてもおいしかった。

 神楽坂を歩いてみて、なぜここにたくさんの人が集まってくるのかを考えている。
坂の魅力、小路の安らぎとわくわく感、明るすぎない夜の灯り、
足裏が感じる石畳の感触、おいしい食べ物と飲み物、
ここに集まる多くのフランス人ほかさまざまな人たち等々。

 あつかましい話だが、故郷平礒とそのエッセンスは似たところがあるような気がした。
景色が広がる坂道、曲がりくねった小路、暗い夜、積み上げられた石垣、
おいしい柑橘と海の幸、喜久家に集う世界中の若者たち等々。
 郷の魅力を高めていけそうなヒントを感じることができた。


 今回、このすてきな空間と時間を共にしてくれたのは、親友の今井さん。
今井さんも山梨の故郷をこよなく愛していた。

 人は、いつも故郷をココロに抱えている。


 神楽坂から故郷を考えた充実した1日目が終わった。
 
 

田舎のひな飾り

2013-02-14 | ブログ


 先週の月曜、建国記念の日に毎年恒例のひな飾りを出した。

 双子の娘たちの誕生を祝い、妻の実家から贈られた七段飾り。
とても立派なもの。

 毎年、飾っている。
今年は、いつもの年に比べて少し早い。

 自分ひとりで、飾った年もあった。
何年か前から、娘たちにも手伝わせ、飾り付けをしている。
うれしそうだ。

 



「お内裏様とおひな様、二人ならんですまし顔。」
 










 ひな飾りをじっくりと見てみる。
どれを見ても端正な顔立ち。

 笑い顔あり、怒り顔あり、泣き顔あり、すまし顔あり。
まるで人生のよう。

 4月まで、じっくりと見ながら、楽しみたいものだ。


 



インフルエンザ感染

2013-02-09 | ブログ
 先日、インフルエンザにかかった息子武蔵の看病をしていたら、
2月5日夜あたりから、熱ぽさを感じた。
「これは、まずい。」
と思い、早くから床に就いたが、夜中に熱で目が覚めた。
計ると39.2℃。

 朝、仕事も休みをもらい、病院に行こうと思っていたが、
しんどくて動けない。
そのまま1日中熱と闘い、翌日門田医院へ。

 検査の結果、インフルエンザA型。
薬の吸入をし、飲み薬をもらい帰宅。
「治療が遅れると、インフルエンザ菌が全身にまわり、治るのが遅くなります。」
とのことだった。

 結局3日間仕事を休み、今日土曜日。
ずいぶんと回復してきたが、胃腸の様子がまだ完全ではない。

 体重も3㎏減。
顔を洗っていて、手のひらに入る顔が小さくなったのを感じた。
下腹の張りもひいた。

 

 それに比べ、喜久家ボランティアのベクザットは元気、元気。
本当にありがたい。
 今、高校3年生のおいの慶悟と喜久家で共同生活。
昼弁当も自分たちで作っている。
たいしたものだ。

 2人は、お互いにすばらしいものを感じているようだ。
こんな時間と空間を共にできることは、本当、すばらしい。

                          岬人

少年の日への想い ~家族や地域のあたたかい眼ざし~

2013-02-05 | ブログ
 愛媛県の「少年の日」誕生への熱い想いがそこにあった。
 
 当時の愛媛県青少年育成協議会会長 戒田敬之さんの青少年育成に対する想いを知った。


『昭和38年10月、愛媛県社会福祉協議会会長に就任しました私は、児童問題対策協議会において「子どものしあわせを守る県民運動」を提唱いたしました。
 (中略)

 私は第一回少年の主張大会における中学二年生の藤原さんの発表を忘れることができません。
藤原さんの家では、毎年元旦の朝家族そろって初詣に行くという体験談でありました。
その内容の一部を載せてみましょう。



 「・・・除夜の鐘を遠く近くに聞きながら、約四キロの夜道を町並みにそって歩くのですが、
途中幾度か寒さのため運ぶ足も遅れがちになります。
そのたびに心にむちうって、
「楽を求めながら目的を達しようなんて、少なくとも若いものの考える事ではない」
という父のことばや、
「苦しむところにこそ、その道は開ける」
などという母の意見にしたがって、決して車などの参詣はしません。

 私も同感で、水銀灯に光る白い息を手にはきかけはきかけ、さすような風に凍える手をこすりながら、黙々と歩いて道後の「いさにわ神社」に詣でるのです。


 
 父のことばをかりれば、神社にお参りするということは形の上だけではなく、
立志、感謝、心身の鍛錬といろいろの要素がふくまれているのだそうです。
そのような意味で、わが家で実行している初詣では、神社の社頭においてその年のしあわせを願うとともに、
新しい誓いを立てることだと私は思っております。

 私は神の存在についてはよくわかりません。
しかし、少なくとも神とは、人それぞれの心の中にあるものだと理解はしているのですが、
なにかに感謝し、なにかに誓いを立てることの喜びを、きょうこのごろになって強く感じているのであります。
 それはまた「少年の日」における、私たちの覚悟にも置き換えられると考えます。・・・」




 戦後の日本は、あまりにも行き過ぎた民主主義や、誤った進歩主義のため、
新しい世代に伝えてゆかなければならないわが国の美しい伝統や文化を破壊し、また忘れ去っているのではないかと、
ひそかに心配しておりました私は、この「第一回少年の主張大会」で発表された皆さんの主張を聞いて、これが杞憂であることを知りました。

 こうして、愛媛県における「少年の日」は着実に前進し、
全県的な祝日として愛媛県の地に定着していったのであります。
 昔の「元服」の故事が示すごとく、厳冬に咲く梅の花のように清らかで美しい、「14歳・少年の日」の諸行事は、
愛媛県においては、「成人の日」にも比すべき大切な行事となっております。

(昭和46年愛媛県青少年育成協議会発行「愛媛の少年たち」より抜粋)』

 子どもたちを家族が、地域が、あたたかい目で見まもっていく。
そんな、家族、地域にしていきたい。

                      岬人(はなんちゅう)

愛媛県の少年式のはじまり 

2013-02-05 | ブログ
 昨日2月4日、立春。
愛媛県の多くの中学校では、中学校2年生を対象に、少年式という行事が行われた。

 四国最西端の三崎中学校では、1時間の少年式。
その後、生徒のいる地区を全て歩き、ゴールは佐田岬灯台という行事を行われた。
30㎞ほどの歩き。

 また、お祝いとして全生徒、教職員、来賓に紅白まんじゅうが配られた。
今年は、二名津にある田村菓子補の昔ながらの紅白まんじゅう。



 何にでも興味関心を持つので、いつものように調べてみた。 
 「少年の日というのは、14歳になった少年少女を大人への階段を登り始めた大切な時期と考え、
自覚・立志・健康を3本の柱に、愛媛県が全国に先駆けて始めた行事」

 なぜ、この少年の日というものが誕生したのだろうか?
それは、
 「昭和39年、日本児童文芸家協会が提唱した「14歳立春式」
に賛同した愛媛県社会福祉協議会会長、戒田敬之氏の提唱により、
県民運動の一環として「少年の日」の実施計画に着手。

 愛媛県社会福祉協議会が主唱し、愛媛県、愛媛県教育委員会、愛媛県警察本部が後援となり、
「少年の日」の実施要網を作成。

 自覚・立志・健康を目標とし、毎年「立春の日」を「少年の日」と決定。
 全郡市町村社会福祉協議会あてに実施要網を送付し、県民運動として発足。
第12回愛媛県社会福祉大会において、「少年の日」を実践申し合せとして決議し、
以降県下全中学校において少年の日に「少年式」が行なわれるようになった。」

 とのこと。

 何にでもあてはまることだが、
それにどんな意味をもたせるか、どんな物語をつくるかで輝きがちがってくる。

 そんなことを大切にしたい。

 少年式誕生の秘話があった。

               岬人(はなんちゅう)

インフルエンザ(スペインかぜ)の怖さ 

2013-02-05 | ブログ
 2月3日(日)節分。
春の陽気に包まれ、家族そろってサンフルーツの収穫。
息子も中学校3年生ながら、受験勉強の合間に手伝い。
勉強よりも農作業が好きなタイプ。
 
 ところが夜になり、熱っぽい。
体温計で計ると39.2℃の高熱。
 門田医院に検診するとインフルエンザとのこと。
したがって昨日2月4日、少年式も出席停止。

 時間休をもらいながら看病。
夜、熱を計ると何と 「40.2℃」
見たこともない数字。



 その後も40℃前後の熱で一夜を過ごした。
薬や看病、本人の抵抗力もあり、今朝は38℃まで下がり、少し安心。

 というのも、先祖ひいじいちゃんである鶴松さんの息子が幼い頃、このインフルエンザで亡くなっており、
その小さなお墓がたっている。
 当時は、スペインかぜと呼ばれていた。



 スペインかぜは、1918年~19年にかけ、全世界的に流行した、インフルエンザの大流行(パンデミック)。
感染者6億人、死者4,000~5,000万人。
 当時の世界人口は約18億人~20億人であると推定されているため、
全人類の約3割がスペインかぜに感染したことになる。

 日本では、当時の人口5,500万人に対し39万人(当時の内務省は39万人と発表したが、最新の研究では48万人に達していたと推定されている)が死亡。

 最初に流行した米国でも50万人が死亡した。


 これらの数値は感染症のみならず戦争や災害などすべての人の死因の中でも、
もっとも多くの人を短期間で死に至らしめた記録的なもの。


 
 我が家では、感染しないこと、感染させないことを徹底してやっている。

喜久家ボランティア ベクザット

2013-02-04 | ブログ


 先月平成25年1月26日(土)から喜久家ボランティアとして、
キルギス(キルギスタン)出身のベクザット(ベック)が来てくれている。

 キルギって、どのへん?
エストニア出身のケルト以来のめずらしさ。

 NPOナイスとの連携で取り組んでいる地域づくり。
おかげで今までに世界の多くの若者と出会うことができた。
 
 そして今回は、キルギスタン。
ベクザットからさまざまなことを聞いた。
 エストニアと同じように、旧ソ連。
周りをタジキスタン、カザフスタン、ウズベキスタン、中国に囲まれている。
ちなみに、~スタンとは、~の土地という意味。

 初めて会ったとき、あまりにも日本人に似ているのでビックリ。
そして男前。
 キルギスタンには、「キルギス人と日本人は昔、兄弟で、肉が好きな者はキルギス人となり、
魚が好きな者は日本人となった。」という俗説がある。
現地ではポピュラーな言い伝えのようだ。



 ベックは、農作業をしても本当によく働く。
みんなから大人気。

 日本には初めて来たと言うが、日本語で十分会話できる。
そんなベックから今キルギスのいろいろなことを聞いている。

「たくさんの日本の友だちをつくりたい。」
とのこと。
 ぜひたくさんの人に会いに来てほしい。

                      岬人(はなんちゅう)

 

 

2月3日節分の収穫

2013-02-04 | ブログ
2月3日節分の収穫


 大寒が終わり、2月3日、節分。
高気圧がおおい、とても暖かい1日。

 普段はなかなか休みがとれないが、久しぶりにとれたので
今日は実家の柑橘収穫の手伝い。



 両親、お手伝いの石井さん、我が子3人、おいの慶悟、
そして喜久家ボランティアのベクザット。
みんなとの共働。



 葉っぱや山々の緑色、サンフルーツのオレンジ色、晴れわたる空の青色。
目にも心にもやさしい色の数々。
 そんななかにいるだけで、幸せな気分。
 


 幸せは、幸せと思う気持ちに比例するのだと感じる。

 収穫をしながら、さまざまな話に花が咲く。
そして心地よい汗。

 地味だが、こんな田舎暮らしが大好き。

                岬人(はなんちゅう)
 
 

自然に人の手が加わると…

2013-02-02 | ブログ
 ふるさと佐田岬は、日本一細長い半島。
北に瀬戸内海、南に宇和海(太平洋)、そして西に大分県と隔てる豊後水道。
これら3方の潮が交じり合い、日本有数の海の幸を生み出す。

 

 アジ、サバ、アワビ、サザエ、鯛、太刀魚、ふぐ、伊勢エビ、ウニ、ナマコ、ハマチ(ブリ)、てんぐさ、ひじき等



 とられたこれらのものを見るだけでも美味しそうだが、
食べるイメージまではあまりわいてこない。

 これらに料理人さんの手が加わると、まるで芸術品のようになる。



 盛りつけ、色合い、組み合わせ、食べることがもったいないようにさえ思うことがある。
それに加え、他の料理とならび、お互いにひきたてあう。
デザートは、もちろん柑橘。

 自然のままはもちろん偉大だが、
人の手が加わるとそこにあたたかさが感じられる。

 これら自然の恵みに感謝して、残さず食べる。
そして自分を動かす力となる。

 田舎者は、自然とともに生きている。

                   岬人(はなんちゅう)