喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

彼岸花  曼珠沙華 (マンジュシャゲ)

2014-09-25 | ブログ
 一昨日のお彼岸中日や彼岸花の記事を書いたところ、
知り合いの楠橋さんから興味深いコメントがあった。

『ヒガンバナは、曼珠沙華(マンジュシャゲ)とも、言います。
中国から、帰化したものと言われています。

 よく田畑の縁に、沿って生育しているのは、土に穴を掘る、ネズミ、モグラ、虫など小動物を避けるために、
有毒な球根のヒガンバナを植えたと、言われています。

 湿った場所を好む、有毒植物です。
山間部などで見られるのは、その場所に、人里であった可能性が、有ります。

 墓地に多く、見られるのは、人為的に植えられたものです。
墓地に、多いのは、虫除けと、土葬後、死体が動物によって掘り荒されるのを防ぐためと、言われています。

 有毒なので農産物ではなく年貢の対象外なので、田畑や墓の草取りの際に、栽培されました。
デンプンを多く含み、すって、長時間、水に、さらせば、無害化の可能性が有り、
救飢植物として、江戸時代の飢饉時や、第二次世界大戦中などの戦時に、食用にされました。

 埼玉県日高市にある巾着田、広島県三次市吉舎町辻の馬洗川沿いなどが、名所に、なっています。』




 我が家のお墓に咲く彼岸花は、父によると自生のものらしいが、
あえて植える理由もうなずける。

 今度見るときは、いろんな視点で見てみよう。
楠橋さんのおかげでまた興味が深まった。

       岬人(はなんちゅう)

お墓参りと彼岸花

2014-09-24 | ブログ
 昨日、9月23日は彼岸の中日。
娘たちとご先祖のお墓参り。

 お墓に着いて目にとまったのが真っ赤な彼岸花。
この花を見ると秋だな~と感じるのは私だけではないだろう。
この花が終わると、金木犀の香りがただよう秋となる。



 『彼岸花といってもピンとこないけれど、別名でいえばわかる方も多いでしょう。
たくさんの別名、しかもちょっと不気味な呼び名があるのには理由がありました。

【基本データ】 彼岸花:ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草。
田んぼの畦道などに群生し、9月中旬に赤い花をつけるため、お彼岸の頃に咲く花として親しまれています。
花言葉は、「情熱」「悲しい思い出」「独立」「再会」「あきらめ」。


「曼珠沙華(まんじゅしゃげ/かんじゅしゃか)」は、サンスクリット語で天界に咲く花という意味。
おめでたい事が起こる兆しに赤い花が天から降ってくる、という仏教の経典から来ています。
サンスクリット語ではmanjusakaと書きます。

 彼岸花にはアルカロイドという毒があるため、「毒花(どくばな)」「痺れ花(しびればな)」などとも呼ばれています。

 その反面、でんぷんを多く含んでいるため食用可能でして、毒は水にさらすと抜けるため、
昔は飢餓に苦しい時に毒を抜いて食用にすることもあったそうです。
 田んぼの畦道に彼岸花が多いのは、その毒でモグラや野ネズミを防除するためだけではなく、
飢饉に備えて植えたという説もあり、危険を覚悟してまで口にしなければならなかった昔の苦労がしのばれます。

 花の様子から、「天蓋花(てんがいばな)」「狐の松明(きつねのたいまつ)」「狐のかんざし」「剃刀花(かみそりばな)」など、全国にはたくさんの呼び名があります。

 また、花のある時期には葉がなく、葉のある時期には花がないという特徴から、
「葉見ず花見ず(はみずはなみず)」と呼ばれています。

 ※天蓋……祭壇の上などの装飾用のおおいのこと
                         (all about 暮らしの歳時記より)』




 父に聞くと、この彼岸花は我が家のお墓に自然と生えたとのこと。
この花がまたご先祖への感謝の気持ちを深くしてくれている。

 ふるさとの未来に残したい風景だ。

                  岬人(はなんちゅう)

田舎のお彼岸

2014-09-24 | ブログ
 昨日9月23日は、秋のお彼岸の中日。
仕事が終わった夕方、娘たちとご先祖のお墓参りに行った。

 『春分と秋分は太陽が真東から昇って真西に沈み、昼と夜の長さがほぼ同じになる日ですが、
お彼岸にお墓参りに行く風習は、この太陽に関係しています。

 仏教では、生死の海を渡って到達する悟りの世界を彼岸といい、
その反対側の私たちがいる迷いや煩悩に満ちた世界を此岸(しがん)といいます。

 そして、彼岸は西に、此岸は東にあるとされており、太陽が真東から昇って真西に沈む秋分と春分は、
彼岸と此岸がもっとも通じやすくなると考え、先祖供養をするようになりました。

 お彼岸はインドなど他の仏教国にはない日本だけの行事です。
日本では、正月など神道にまつわる行事を行う一方、仏教を説いた釈迦の教えも受け入れてきました。
 お彼岸は「日願」でもあるため、太陽の神を信仰する神道と結びつきやすかったという説もあります。

 また、春の種まきや秋の収穫とも結びつき、自然に対する感謝や祈りがご先祖様に感謝する気持ちにもつながって、
お彼岸は大切な行事となりました。 (all about 暮らしの歳時記より)』


 平礒のお墓は、郷を見おろす高いところにある。
私は、郷や釜木湾を見渡せるここからの眺めが大好き。





 昨日は、曇り空で暑くもなく、さわやかな秋風が吹いていた。
夕闇が近づくにつれ、鈴虫やコオロギなどの虫たちの声が、あたりに鳴り響く。
それがさらに心落ちつかせ、おだやかにさせてくれる。

 お墓の前にたち、ご先祖にたいして手を合わせる。
知っているのは、祖母だけであるが、その他多くのご先祖がおられたから
今の自分がここにいる。
 娘たちにご先祖の話をしてあげる。





 お墓参り。
あわただしい日常を心おだやかにふり返ることができる。

 未来に残していきたいふるさとの風景。

               岬人(はなんちゅう)

牛鬼ケンコーカップの結果 3位

2014-09-20 | ブログ
 本日9月20日(土)に行われた牛鬼ケンコーカップの結果。
Eリーグ: 宇和中、勝山中、新居浜南、三崎中
で行われ、3勝0敗で1位通過。

 その後、1位トーナメントで1回戦城南中2-0で勝利。
準決勝は、強豪肱川中と0-2で惜敗。
負けた試合ではあったが、最もやりきった試合だった。

 結果、今回の牛鬼カップは3位。
このチームになって初めての賞状を手に入れた。

 子どもたちにとっても、手ごたえと悔しさが残る、これからのやる気につながるものだった。
表情を見ていて、そう感じた。
 結果がすべてではなく、自分の持てる力を出し切る、やりきる大切さ。
 
 明日は、参加チームとの練習試合。
ひと皮むけるきっかけにしたい。



                       「先日の運動会 応援合戦」

             岬人(はなんちゅう)

第12回 牛鬼ケンコーカップ ソフトテニス大会

2014-09-20 | ブログ
 本日、9月20日(土)、牛鬼ケンコーカップというソフトテニス大会に
三崎中学校も参加させてもらうことになった。

 愛媛県内、特に南予地方で活躍する指導者を中心に始めた大会。
今回の参加校は、
保内、御荘、三島、南第二、吉田、西条北、立花、日吉、大洲北、今治西、
大川(香川県)、城南、宇和、菊間、東予東、勝山、新居浜南、肱川、
川之江北、そして三崎中。

 会場は、国立大洲青少年交流の家と伊方町総合グランド。
予選リーグ、決勝トーナメントの順で行われる。

 明日は、これらの学校と練習試合。
10月4日の新人総体をひかえ、たいへん有意義な取組ができる。

 天候は、小雨。回復傾向。
すばらしい1日にしたい。


2014 四国最西端の三崎小学校・三崎中学校 合同運動会 

2014-09-15 | 感動
 昨日9月14日(日)、三崎小学校・中学校の合同運動会が開かれた。
天高く、さわやかな秋晴れのもと、絶好の運動会日和。
 前日、体育の先生によりきれいに整備された運動場を舞台に、
子どもたちの熱気あふれる姿がくりひろげられる。



 三崎中学校元田校長先生の開会あいさつにより、気持ちは高まっていく。



 小中学生の力強い選手宣誓。
運動会スローガンは、
○ 最後まで 走る姿を 輝かせ    (三崎小学校)
○ 燃やせ情熱 超えろ限界 三中生  (三崎中学校)



 白熱した棒うばい。



 中学生が最も力をそそいだ見ごたえのある応援合戦。



 最優秀は、紅組になったが、良き仲間がいるから、良きライバルがいるからがんばれる。
いいものができあがる。
 戦いの後は、また仲良く手をとりあう。



 閉会あいさつで、三崎小学校鎌田校長先生の感動的な話。
「今日の運動会は、三崎小中合同運動会というオンリーワンの運動会であり、ナンバーワンの運動会でした。
転んだ小学生の服についた土をさりげなくはらってあげる中学生。
がんばって走る仲間を、涙をぬぐいながら大きな声で応援する姿。
そんな小学生や中学生の一生懸命な姿が、地域の人たちに大きな勇気と元気を与えたことでしょう。」


 日本一細長い、四国最西端の岬の学校には、キラキラと輝く子どもたちが育っている。

                           岬人(はなんちゅう)

 


四国最西端の三崎小中学校合同運動会 2014

2014-09-13 | ブログ
 明日、9月14日(日)は、四国最西端の三崎小学校・三崎中学校合同運動会。

 今日、その準備が終わり明日の本番を待つばかり。
翌日の運動会ができるかどうか、天気の心配をした年が続いていた。
こんなに何の心配もいらないのはめずらしい。


                                「三崎中学校 校舎」


                           「夕日に映える きれいに張られた万国旗」

 今日は明日に備え、早目に家路を急ぐ。
途中、ヒラバヤから神崎の番匠鼻を望む。
海の向こうには、九州の大分県国東半島が見える。



 オレンジ色のきれいな夕日が沈んでいった。



 家に帰り着くと、澄んだ夜空には天の川などたくさんの秋の星が輝いていた。
明日は、最高の1日になりそうだ。

                  岬人(はなんちゅう)


9.11.2001 アメリカ同時多発テロと平和なふるさとの暮らし

2014-09-13 | 社会
 一昨日、9月11日は忘れられない日。
今から13年前の2001年、航空機を使った4つのテロ事件は突然起こった。


 
 『世界貿易センタービル・ツインタワーの北棟は、8時46分にアメリカン航空11便の突入を受けて爆発炎上した。
続いて、9時3分に南棟がユナイテッド航空175便の突入を受け、爆発炎上した。

 2機目の激突は1機目の激突後に現場のテレビ中継を行っていた際に発生し、
世界各国に1機目の衝突を臨時ニュースとして国際中継していた間に起こった事件であったため、
前代未聞の衝撃的な映像を多くの人たちがリアルタイムで見る事になった。

 ツインタワーは、建設当時の主力ジェット旅客機のボーイング707が突入しても崩壊しないよう設計されていたはずだった。
だが、実際に高速で突入した同サイズのボーイング767によってビル上部は激しく損傷、
漏れ出したジェット燃料は縦シャフトを通して下層階にまで達し、爆発的火災が発生した。

 火災の熱による鉄骨の破断でタワーは強度を失い、9時59分に南棟が突入を受けた上部から砕けるように崩壊した。
北棟も10時28分に南棟と同様、砕けるように崩壊した。

 ツインタワーは、特に北棟で人的被害が大きく、死者は約1,700人(救護活動中の消防士を含む)であった。
特に突撃を受けた92階以上に被害が多く、この階以上の在館者全員が死亡したと言われている。
それは航空機に突入されたフロアの階段が大きく破壊され炎上し、避難経路が遮断されたためである。
 
 南棟も同様に激しく炎上したが、こちらは旅客機が外側に少し反れて激突し、反対側の階段が損壊や延焼を免れたため、
突入フロア以上でも延焼の少なかった部分にいた十数名は無事避難することができた。
 また、突入前の未然避難者も含めると約7割の人が生還している。

 ただしこの時、炎上部より上にいた人の一部が、煙による苦痛や絶望感から飛び降りを行い、
消防士や避難者の一部が落下してきた人の巻き添えになり命を落とした。
 また崩壊時の破片や煙により、ビル外でも数人が命を落としている。
一方、タワー崩壊後も館内で奇跡的に生き残っていた人も数名おり、それらの人々は当日夕方に救助された。

 北棟および南棟の崩落による影響で、敷地内の他の4つのビルも崩落・炎上し、
8時間後に敷地北隣の高層ビル・世界貿易センター7号棟もともに崩落。
 道路は完全に封鎖、世界貿易センターの地下をターミナルとしていた地下鉄やパストレインもトンネルの崩落で走行不能に陥った。
これらのことからニューヨークでは合計で2749人が死亡するという大惨事になった。

 この事件以降、世界貿易センタービル跡地は「グラウンド・ゼロ(爆心地)」とも呼ばれている。』

                                      (ウィキペディアより)


 それから2年後の2003年(平成15年)9月17日、文部科学省主催の「日米国民交流・若手教員の米国派遣」に参加し、
帰国間近の12月10日に「グラウンド・ゼロ」を訪れ、黙祷を行った。







 グラウンド・ゼロは、さら地になり、新しい施設の建設はまだ始まっていなかった。
崩れた鉄骨で作られた十字架のモニュメントが目に焼きついている。
 摩天楼がそびえ立つニューヨークのど真ん中に、ぽっかりと空いた空間。
テロが起こった当時のことを想像すると、足が石のように固く重たくなり、立ちすくんだことを思い出す。

 この日のことを忘れずにいたいと思い、ありし日のニューヨークを描いた作品を買った。



 これは、今も我が家に飾られており、見るたびに当時のことを思い出させてくれる。


 平和な日本、しかも田舎に住んでいるとまるで映画に思えてならない出来事が世界のあちらこちらで起こっている。
そのことを自分に引き寄せて考えることは、あまりの違いゆえ難しい。

 でも人間には想像力がある。
ジョン・レノンの「イマージン( Imagine )」のように争いのない世界を想像したい。

 そのジョン・レノンは、1980年同じニューヨークの自宅マンションの前で、
精神疾患のファンに狙撃され40歳という若さで亡くなった。

 田舎者の自分にとってニューヨークは、イマージン( Imagine )の街となっている。


                                       岬人(はなんちゅう)


佐田岬の田舎で観るスーパームーン

2014-09-09 | ブログ
 昨夜9月8日は、中秋の名月。15夜。
そして今日は満月、しかもスーパームーン。

 日本中のいたるところでたくさんの人がこのすてきな月を観ていることだろう。
いや世界中で。

 離れているけど、同じ月を見ているかと思うとつながりを感じうれしくなる。
月には人をつなげる魅力があるのかもしれない。

 今日はいつになく早々と職場をきりあげ、たのまれていた白玉粉をにこにこフーズで買い物し家路を急いだ。
途中、二名津から平礒への峠にさしかかった頃、太陽が沈んだ。



車を止め、カメラを取り出しシャッターを切る。



 峠を回るとすでに釜木の方向の空には満月が上っていた。





 カメラでは写せないその大きさと美しさと神秘さに見とれていた。
月は少しずつ天頂をめざし昇っていく。




 同時にオレンジ色の明かりを瀬戸内の釜木湾に放ち、水面にはオレンジロードができる。 





 何ものにもまねできない自然の美しさ。
それを明かりが少ない田舎では直に感じることができる。
 
 不便さが、豊かさに変わる瞬間。

 先ほどの白玉粉で妻と娘が、月見団子を作ってくれた。
それをみんなで食べながら月見。
心もお腹もいっぱい。



 スーパームーンのおかげで、家族のすてきな時間を過ごすこともできた。

 スーパームーンを見るといいことがあるという俗説がある。
私たちはもう十分いいことをいただいたので、あとの分は何かに困っている人に届きますように。

 月に願いを。

                  岬人(はなんちゅう)

 



明日、平成26年(2014年)9月9日は、スーパームーン 

2014-09-08 | ブログ
 明日9月9日は、満月でありスーパームーン。
すでに今から楽しみだ。

 地球の周りを回っている天体は必ずしもまん丸に規則正しく回っているわけではない。

楕円軌道で回っているのと引力によって、地球からは時には大きく見えたり小さく見えたりするわけだ。

 太陽が地球上に見えている間は地球からは月が見えることはないし、
地球の自転と太陽と月の角度やタイミングが合わさって一直線上になった時。

 この時、地球と月が接近し、満月または新月のタイミングをスーパームーンと言う。

この時ばかりはあまりの月の大きさに、「地球上で何か自然現象が起こるのでは!?」と思ってしまいがちだが、
科学的には証明されていないようなので安心してください。



 今夜でも充分に明るい月。
月明かりで体の影ができるくらい。

 写真は、我が家のベランダから下にある恒あんちゃんちの倉庫などを撮ったもの。
白い軽トラックがとても明るい。

                    岬人(はなんちゅう)

平成26年(2014年) 佐田岬の中秋の名月

2014-09-08 | ブログ
 今夜9月8日は、中秋の名月。

中秋とは旧暦で秋の真ん中のことをさす。
旧暦では秋は7月(初秋)、8月(仲秋)、9月(晩秋)となっていて、秋の真ん中、8月15日が中秋となっている。

 現在の新暦は太陽の動きを基準に日付を決めているのに対して、
旧暦では月の満ち欠けを対称に日付が決められていた。

 したがって、月が一番細く見える日(新月)が1日から始まり、満月となる頃が15日となるようになっていた。
それから先はまた月が細くなっていくと共に16日、17日・・ といったような具合だ。

なので、『十五夜お月様』と言われるのは旧暦で8月15日となり、新暦では毎年違う日となる。

この日は『月見』といって月を見ながら風情を楽しみ、すすきを飾り、だんごやお酒などを備えて秋の収穫に感謝をする日でもある。




 ※中秋の名月は満月に近い日ではあるが、必ずしも満月の日というわけではない。
ちなみに2014年は9月9日が満月です。 (Free Time Network より)

 ちなみに我が家では、母家の縁側で月見をしながら両親もそろって月見と夕食。
秋の虫たちの鳴き声も、いつも以上に心地よく聞こえた。

 秋の実りに感謝して、秋の実りをいただいた幸せな時間だった。


                     岬人(はなんちゅう)

三崎高校同窓会 総会

2014-09-04 | ブログ
 昨日9月3日、午後6時から山本旅館にて三崎高校同窓会総会が開かれた。
毎年、出席者は変わりばえしない顔だが、今春卒業したばかりの幸徳と恒大も出席していたことが、
何よりもうれしかった。

 今同窓会でも三崎高校が分校になってしまうことを何とか阻止したいというのが一番の関心事。

議題の最後その他でこれからの未来予想図について意見を述べた。

 現在三崎高校の生徒数は、103人。
三崎高校へ入学する生徒が最も多いのは、三崎中学校。

 三崎中学校の現在の生徒数は、67人。
ちなみに昨年は、81人だった。
何と14人の減。

 平成27年は、66人。
そして平成28年、私の娘たちがいる最も多い学年が卒業すると、いっきょに43人。
何と23人の減。

この減少傾向は止まらず、平成29年は、38人。
平成30年は、33人の予想。

 つまり平成25年に81人だった生徒数が、わずか5年後の平成30年には、48人減の33人。
これがふるさとの未来予想図。
旧三崎町で1学年11人しかいないのだ。

 となりの瀬戸中学校も同じような生徒数。

 つまり三崎高校の入学者を地元だけで考えていくことは無理なのだ。
このような数字をあげその深刻さを話した。
 地元の中学生をできるだけ三崎高校へ入学してもらうことをめざすとともに、
もっと遠いところからの入学者を求めていかなければならない。

 そのためには、さらなる三崎高校の魅力化が絶対不可欠。
そのために私たち同窓会も連携し、応援していかなければならない。
分校化ということが決まってから手を打つのでは遅い。
少しでも早く地域の応援態勢を整え、訴えていかなければならない。



              「体育祭での息子の応援演技」

 若者たちがいなくなるということは、地域の元気がなくなるということにつながる。

 最後に同じような問題点を抱え、それに向き合い、乗りきろうとしている例がある。
日本海に浮かぶ島根県隠岐の島、海士町にある隠岐島前高校。
その取組について、今勉強しているところ。

                   岬人(はなんちゅう)

三崎高校のすばらしい若者たち

2014-09-02 | ブログ
驚異的な数字にビックリ。

 8月31日の訪問者が、前代未聞の380人。
閲覧数1244件。

 いったい誰がのぞいてくれているのだろう。
この日のブログ内容は、母校三崎高校の体育祭のこと。
あまりに感動したものだから、ついつい記録して残しておきたい。
卒業生のみなさんに知ってもらいたいと思った。

 今日紹介する白虎ブロックの応援団長の姿にも感動した。
彼は、高校野球応援でも団長を任せられる頼りになる存在。

 連日の応援練習などで声はかすれてしまっていた。
声はかすれようとも、裏がえようとも、なお気持ちをこめて大きな声を響かせようとする姿はとてもかっこいい。
昔から知っている若者だったが、その成長ぶりに胸が熱くなった。
彼にとっては、これが最後の体育祭。



 応援練習もしっかりと計画を立てて、着実に仕上げてきたようだ。
しかし、結果は無情にも蒼龍に負けてしまう。
彼はどんな思いで受け止めたのだろうか。

 がんばっても結果がついてこないときがある。
でもその途中のがんばりにこそ、本当に大切なものがつまっていると信じている。



 母校三崎高校のすばらしい若者たちから、大きな勇気をもらった。

 ありがとう。

                     岬人(はなんちゅう)

平礒の盆踊りでの約束

2014-09-02 | ブログ
 今年の盆踊り会場で、嫁いでふるさと平礒から出ているかよこ姉ちゃんから声をかけられた。

「いつも喜久家プロジェクトのブログを見よるんよ。
なつかしくて、なつかしくてうれしくてたまらない。
特に知った風景の写真が出ているときは、本当うれしくて。
ありがとう。」


 思いがけない声だった。
東京に住んでいるふるさと平礒出身の人もこんなふうに見られていたのだ。

 そんな話で盛り上がっていたところへ、現在埼玉に住んでいる愛ちゃんも

「私も見ています。あのおばあちゃんの記事は、うちのおばあちゃん。
本当にうれしくなります。」

とのこと。



 このブログを書き始めた最も大きな理由が少しはかなっていることを感じた。
ふるさと平礒を出た人たちが、なつかしんで見てくれたらこれほどうれしいことはない。

「人はみな、ふるさとを抱いて生きている。」

 そんな超ローカルなブログだが、それでいいと思っている。
今日もそんな人たちの顔を思い浮かべながら、書いている。

                          岬人(はなんちゅう)

夏をふり返る  ~ふるさと平礒の盆踊り~

2014-09-01 | ブログ
 今日から9月。
今日はお世話になった今川のおっちゃんの葬儀があった。

 思い返せば、この夏もさまざまなことがあった。
盆踊りをふり返ってみる。

 今年は、よしこおばちゃんと太郎おっちゃんの初盆だった。
だからもう霊も天気が悪かった盆踊りもいつもの年以上に人が多かった。

 このにぎわいがとてもうれしかった。






 ただ、途中で降り始めた雨はますます激しくなった。
雨をよけ、家の中がおおにぎわい。



 お菓子や飲み物を残すわけにもいかず、
たかみつや幸徳が気を利かせ、子どもたちにそれらを配りはじめた。
「これ、おいしいよー。」
「はい、ただただ。」
「持って帰って、持って帰って」
などの楽しいはやしをまじえながら。




 激しい雨にはかなわず、ついにお開き。



 子どもたちやおおぜいの人が帰って行った後、
盆踊りの世話をしている消防団員が残った。


 そんな中、高校2年の息子も残りその輪に加わっていた。


 そして全体が息子たち若者グループとおっちゃんグループに分かれ、大盛り上がり。
私は、若者グループにいたのだが、けっこうまじめな話。
今年高校を卒業した幸徳が話し始めた。
「たかくん、大学はいいものかな?僕は迷ったけど行かずあとをとったけど。」
それに対し
「うん、いいものよ。いけるなら行った方がいい。たくさんの大切な友だちができる。」

 確かに、損得ぬきで一生つきあえる仲間ができるのはそのとおり。
働き始めたら、仕事中心の生活になり、余裕がなくなるのも事実。

 そしてじっと聞いていた息子にも話はふられる。
「武蔵、お前はえらい。 高校生で柑橘の消毒散布をするなんて。
高校卒業したらどうするん?」
それに対して、
「まだ決まっちょらん。」

 そんな話のやりとりを聞いていて、いいなーと思った。
異世代との話やまじわりの中で、社会との接点を見いだし、成長していく。

 小さな小さなふるさとではあるが、未来に明るい光がさしている。

                         岬人(はなんちゅう)