
【大分・豊後高田市】六所神社(六所権現社)は12世紀中頃に建立されたとされる霊仙寺の鎮守社であり、明治初年の神仏分離まで、霊仙寺の中心は六所神社の拝殿の位置にあった講堂で、講堂の本尊は千手観音菩薩像だった。 それまでの鎮守の六所権現社は、その右隣の岩窟の中に鎮座していて、霊仙寺はかつて「夷の岩屋」と称された。
後醍醐天皇に背いた足利尊氏が建武三年(1336)の京都の戦いに敗れて九州落ちした際、再起を図るため六所神社(霊仙寺)に参拝し、戦勝を祈願した。
県道653号線に面して石造りの台輪鳥居が立つ。 その先に壮麗な神門(四脚門)が建ち、その両側に白壁の塀が続き、神門を通して石段が見える。 門前の霊獣の狛犬に迎えられて神門をくぐる....正面に堅牢な城壁のような石垣が迫ってきて、石垣の上に石燈籠を従えた拝殿が少しだけ見える。
石段を上って上段の境内に....直ぐ前に拝殿が建ち、その前に整然と佇む江戸期造立の数基の大きな石燈籠に圧倒される。 社殿の後方はそびえる絶壁で、その下に幾つかの社殿が鎮座....中央に拝殿、弊殿そして本殿が鎮座し、そして岩壁の直ぐ傍や岩窟にめり込んだように諸殿が建ち、まさに聖地のような神々しい雰囲気に包まれている。 本殿の右手後方に岩窟にめり込んだような夷神社が建つが、珍しい形の鳥居があるこの神社が神仏分離前の六所権現社ではと思った。
諸殿の拝観を終えた後、手水舎がある下の境内に....境内右手(社殿に向かって右手)の隅の巨岩に磨崖仏があり、岩龕に彫られた3体の仏像が鎮座。 鎌倉末期頃作のものでかなり風化が進んでいるが、仁聞菩薩像とされる中尊は真正面をじっと見据えながら、現世に何かを語りかけているように見えた。

神門前に立つ台輪鳥居(八幡鳥居)

小さな袖塀を設けた入母屋造桟瓦葺の神門(四脚門)..寺院の山門のようだ



門前に鎮座する精悍な顔の阿形・吽形の獅子の狛犬 「六所神社」の額が掲げられている鳥居

手水舎越しに眺めたかなり高い石垣の上に建つ社殿


入母屋造銅板葺で全面ガラス張りの拝殿..明治初年までここに霊仙寺の講堂があった/拝殿内に大きな「六所神社」の額が掲げられている

拝殿前に整然と佇む江戸時代作の石燈籠群


石燈籠には安政5年、嘉永7年、文政元年、文化11年、寛政12年の銘が刻まれている

社殿境内の右奥から石燈籠越しに眺めた社殿 (拝殿・弊殿・本殿)


入母屋造銅板葺の拝殿/拝殿後方の入母屋造銅板葺の弊殿と切妻造銅板葺の本殿

本殿の軒を支える梁や貫の上の見事な組物と彫り物群

本殿左後方の岩壁に鎮座する江戸時代後期作の大綿積社


向唐破風造柿葺の大綿積社(別名は龍神社)..御祭神は綿津見神(海の神霊)

岩壁際に建つ江戸時代後期作の賀来社(左)と太子社(右)


切妻造銅板葺1間社流造銅板葺の賀来社(左)..御祭神は天迦久神/入母屋造銅板葺で妻入の太子社(右)..御祭神は豊○耳命


賀来社と太子社に向かって右手に鎮座する夷神社/夷神社の鳥居には宝暦九年(1759)の元号

千鳥破風と僅かな唐破風の屋根の夷神社は岩窟にめり込んだように建つ(この神殿が以前の六所権現社か)

夷神社の右手前の岩壁際に鎮座する石祠群


拝殿から眺めた石段と下段の境内/下段境内にある水枯れの池に架かる石橋

岩龕に鎮座する六所権現磨崖仏..鎌倉時代末期作とされる


中央は六郷満山の開祖・仁聞菩薩像、左は比丘尼像、右は従者の比丘像と云わる
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