【埼玉・川越市】寛永九年(1632)に二十八世尊能によって中興され、翌十年(1633)、喜多院で徳川家康の大法要が営まれたことから、中院の境内に仙波東照宮が建立された。 嘉永十五年(1638)の川越大火で焼失したのを機に、翌十六年(1639)、200メートル南方の現在地(境内地内)に移転した。
昭和二十年(1845)に釈迦堂と薬師堂が焼失するも、前者は昭和五十八年(1983)、後者は平成二十四年(2012)に再建された。 南院は明治初期に廃院となり、現在、跡地に数十基の石塔婆や地蔵石仏が残っている。
境内南側ある釈迦堂への参道入口に向かう。 仕切り用の竹の垣に囲まれ、真ん中が切石敷の参道の奥に鐘楼門が見える。 参道を跨いで建つ鐘楼門は、上層・下層いずれも開放的で簡素な造りで、特に、下層は板扉を設けているものの殆ど柱だけの吹き放ちで趣がある。
鐘楼門をくぐると、直ぐ左手の覆屋に、赤い帽子と前垂れをして鎮座する六地蔵尊像が参詣者を迎えている。 参道を進むと、木立の中に、太い竿の石燈籠を構えた昭和後期再建の釈迦堂がひっそりと建つ。 釈迦堂の傍に「狭山茶発祥之地」と刻まれた大きな石碑がある。 調べたら、慈覚大師円仁和尚が開山時、京から茶の実を持参して薬用として境内で栽培したのが狭山茶の始まりらしい。
本堂境内と釈迦堂への参道の間に、生垣を挟んで歴代住持の墓所と「不染亭」がある。 入口に「星野山無量寿寺 仏地院 中院 歴代先徳之墓」と表示された歴代住持墓所に無縫塔や石仏などの石造物が整然と並んでいる。 その中に、頭頂に石仏を載せた幾つかの墓石があり、鎮座する諸仏が瞑想する姿が印象的だ。 「不染亭」は、昭和の文豪・島崎藤村が茶道の師匠である夫人の母堂に贈った茶室だそうで、砂利を敷いた狭い敷地に飛び石が打たれ、生垣の傍に石燈籠と飾手水鉢が置かれていて味わいがある雰囲気。 本堂境内には、藤村書の「不染」と刻まれた石碑がある。
中院から少し北の道路脇に、石塔・石仏(地蔵尊)・墓石などの石造物群が鎮座している南院(多門院)跡がある。
△仕切り用の竹の垣に囲まれ、中央が切石敷の釈迦堂への参道....奥に参道を跨いで鐘楼門が建つ
△寄棟造(小棟造)桟瓦葺の鐘楼門
△下層は板扉と柱だけの吹き放ち、上層には擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす
△軒廻りは一軒疎垂木、西東方向に2本、南北方向に曲がった太い梁1本を設け、南北の梁の中央に梵鐘が下がる
△真下から眺めた梵鐘 △正面の柱に板扉が設けられている/△中から眺めた鐘楼門
△鐘楼門の傍で参詣者を迎える六地蔵尊像
△赤い帽子と前垂れをした六地蔵尊像....切石敷の参道奥に釈迦堂が見える
△入母屋造銅板葺の釈迦堂....昭和五十八年(1983)の再建
△三間四方の釈迦堂の軒廻りは二軒繁垂木、組物は出三斗で中備は中央間に蟇股、脇間に間斗束を配す
△釈迦堂前に佇む石燈籠は昭和六十二年(1987)の造立
△正面中央間は格子入り両開の板扉、脇間は格子窓
△大棟に鳥衾付き鬼板、拝に猪目懸魚、妻飾は虹梁大瓶束、側面は羽目板と格子戸
△釈迦堂前に立つ仏足が刻まれた碑....「釋迦佛手字」&「釋迦如来雙跡靈相圖」の刻/「狭山茶発祥之地」の石碑....慈覚大師が開山時、京から持参した茶の実を薬用として境内で栽培したのが始まり
△本堂境内に立つ昭和五十五年(1980)造立の「敷石供養塔」と昭和の文豪・島崎藤村書の「不染」が刻まれた碑
△寄棟造桟瓦葺の不染亭....藤村が静子夫人の母堂(茶道の師匠)に贈った茶室で、新富町から移築
△民家風の造りの茶室「不染亭」
△縁側側は腰高格子戸....砂利を敷いた敷地に飛び石が打たれている....右の生垣の中は歴代住持の墓所/砂利の敷地に置かれた飾手水鉢(元は蹲踞手水鉢?)と下部が土に埋まった織部燈籠
△歴代住持の墓所で「星野山無量寿寺 仏地院 中院 歴代先徳之墓」と表示
△無縫塔の変形とみられる円柱型墓標の上に鎮座する諸仏像
△南院(多門院)跡地に鎮座する石造物群(石塔・地蔵石仏・墓石など)
△地蔵石仏と石碑....石碑は昭和四年(1929)の造立で「閻魔堂記念碑」の刻/石塔・地蔵石仏・墓石....手前右の地蔵石仏を乗せた墓石は文化四年(1807)の造立