先月、沢田允茂氏が亡くなった。わたしは、読み始めたばかりだった。『現代論理学入門』(岩波新書)に展開されている論理学・弁証法・記号論に対する見解に興味をもち、『哲学の基礎』(有信堂)や『現代における哲学と論理』(岩波)などで、理解を深めようとしていた。「弁証法試論」の基礎を固める契機になると考えていたのである。高齢だが健在なのだろうか、と思っていた矢先の、訃報だった。
『現代論理学入門』の初版は1962年である。わたしが持っているのは、2004年の51刷である。よく読まれているのである。しかし、これまでわたしはまったく知らなかった。「正方形の複合」をまとめるさいに、論理学の基礎を学ぶ必要にせまられ、はじめて手にしたのである。とっつきにくかったのだが、それでも読んでいると、ところどころで感動する場面があったのである。
大きな刺激になった。弁証法に関心をもつ者のなかで、わたしだけが沢田允茂氏を知らなかったのだと思われる。
以下に、啓蒙され、関心をもった四つの軸とそれに関連する箇所を引用しておこう。
1 論理学は進化する
かつてのニュートンの時代の古典物理学が現在の量子物理学に発展したとき、後者は前者をその特殊な一つの場合としてふくむ、より包括的な体系として受け入れられた。これと同じ事態が形式論理学にも起こったのである。伝統的論理学において形式化されているものはすべて現代の数学的論理学においても同じく形式化されるけれども、後者において形式化される、たとえば「AはBより大であり、BはCより大であるならばAはCよりも大である」、「すべて日本人は東洋人である。ゆえにすべての日本人の頭は同時に東洋人の頭である」というような推論は、明らかに真であるにもかかわらず前者の伝統的な論理学の体系のなかでは、形式化することができない。(『現代論理学入門』)
2 ヘーゲルが批判した「形式論理学」は、堕落した形の形式論理学である。
長い間、ヘーゲル主義者とマルクス主義者とを問わず、弁証法的方法論を主張する哲学者たちは、形式論理学はその原理とされていた同一律や矛盾律の故に弁証法とは相容れない無効な論理であり、弁証法が代表する真の論理学に於いてはこれらの原理は否定されねばならない、と単純に信じていた。このような問題設定は伝統的な形式論理学に於ける同一律や矛盾律の誤った解釈そのものに根差している。
同一律や矛盾律を「花は花である」、「赤は赤である」とか「花は花でないものではない」「赤は非赤ではない」の如くに主語概念と述語概念との間の同一性や無矛盾性として解釈することに問題があるのである。このような概念の同一性や無矛盾性を直ちに花や赤という現実の存在者の自己同一性と無矛盾性と解して、花が花でないもの(果実)になるような現実の生成を把えることが出来ないと考えることに問題があるのである。(『現代における哲学と論理』)
これらの原理はどこまでも命題と命題との間の関係として現わされるのであって、(主)語と(述)語との間の関係として、ましてや物それ自身の性質として表わされているのではない。したがって同一律、矛盾律をみとめるからといって決して世界が固定した世界であるなどという主張がなされているわけではない。これらの原理を「AはAである」というように解釈し、さらに実在の事物の自己同一性を現わしているのだ、という解釈することは論理学の解釈でなくて、論理と存在との誤った対応のさせ方にもとづいた世界の誤った解釈である。(『現代論理学入門』)
3 対応するのは、概念と事物ではなく、命題と事実(事態)である。
我々がバラと呼んでいる対象は事物であるが、そのバラが赤いというのは事実または事態である。(『現代における哲学と論理』)
「AはAである」とか「Aは非Aでない」と言うときAは何を意味するのであろうか。それは「人間」であってもいいし「太郎」であってもいいし「赤」、「善良」等の性質を表わす語であってもいい。形式的にAの内容を規定することはここでは不可能である。そして「太郎」とか「バラ」という言葉は言葉として固定されているにも拘らず、太郎は変化し生長して行きバラもまた花咲きしぼんで土と化する。概念の方はAならばAであり、Aが非Aであることは出来ない。しかし事物は変化生成するが故にAは非Aであると言わねばならなくなる。元来対応出来ないものを対応させたのである。従ってこの間の不一致を一致させる(命題と事実との一致をモデルとして)為には二つの途しか残されていない。固定的であり不動不変の概念に対応するものとして生成変化する事物の世界の背後に不動不変のイデヤや実体を想定し、これが真に存在するものであり我々の概念はこれを反映するとか、これに基礎をもっているとか考えることであり、他は論理の諸原理を否定して、変化生成する現実の事物の世界と同じく我々の概念の世界に形式論理学の諸原理を破る一つの変化の論理を仮定することである。対応することが既に無意味な疑似問題である概念と事物(命題と事実又は事態でなくて)を一致させんが為に、一方に於いては概念の固定した影を事物の世界の背後に投射してこれを実在の世界とし、今度は逆に、我々の概念の世界はこの世界に象って形成されたものとする疑似存在論が創られ、他方に於いて変化する事物の世界をそのまま概念の世界に反映させ、論理的思考をば概念の発展とみて、概念の発展の中に同一律、矛盾律を破る新な論理を想定しこれこそまさに客観的実在を正しく反映している、と考える疑似論理学が形成される。(『現代における哲学と論理』)
4 わたしたちの知識のすべてがそのまま実在の反映であったり、世界の事実と一対一の対応をもっているわけではない。
説明のための理論は多くの関連をもった網の目のようなものだ、ということを前章で説明した。この論理の網、すなわち理論の体系をよく見ると、経験的な事象を説明するための理論であるにもかかわらず、その中には経験から直接に得られないような、そしてその意味で、経験の世界の中には、それに対応するような事実が存在しないところの多くの概念が含まれていることがわかる。絶対温度、熱量、波動関数などという物理学上の概念はもとより、意志とか良心、知性などの心理学的概念は、他と区別されて特別にそのような語でよばれるところの事実がこれに対応しているというようなものでなくて、ある物理現象、ある心理現象を説明するための仮説である。仮説というものは経験の世界の事象をそのまま忠実に私たちに伝えてくれる知識ではなくて、そのような事象を説明するために私たちが作った論理的構成概念 logical construct である。(『哲学の基礎』)
例えばカメラのフィルム面にうつった映像はカメラの外の景色の文字どおりの反映であり、フィルムの上に見出されるものは、すべて外の世界に対応せられ、世界の事物に対応しないようなものは一つもないはずである。しかし、このような外の世界の映像をうつしだすために、カメラにとって必要であったレンズ、暗箱、シャッターや絞りの機構などいっさいのものはカメラ以外の世界の中に対応物をもたない。このようなメカニズムをも含めて、カメラの中に見出されるすべてのものが世界の反映であり、世界の中にその対応物をもつと考えることがおかしいと同じように、カメラの距離計やシャッターやレンズにあたる私たちの知識、例えば数学や論理の法則が実在の(いわばほんものの)法則の映像や反映である、と考えるのは馬鹿げている。(『哲学の基礎』)
以上、関心をもった四つの軸を示した。
明晰判明な思考をめざす姿勢、的確な比喩、幅の広い文体(例えば、『考え方の論理』と『現代における哲学と論理』の間)、論理学と弁証法との関係、言語の働きに対する見方など、学ぶことは多いのである。
新しい弁証法の基礎を、これまで、岩崎武雄と松村一人に依拠して提示してきたが、この基礎は沢田允茂で補完していくことができると思われる。
朋あり遠方より来る、亦楽しからずや。(『論語』より)
>ヘーゲルが批判した「形式論理学」は、堕落した形の形式論理学である。
>これらの原理はどこまでも命題と命題との間の関係として現わされるのであって、(主)語と(述)語との間の関係として、ましてや物それ自身の性質として表わされているのではない。
これは知りませんでした(もっとも、私はシロウトですが)。勉強になりました。
リンク、貼らせていただきました。ご迷惑であれば仰って下さいね。
また来ます。私には難しいことばかりなので、ひとつひとつを理解するのに時間がかかります。若い頃、不勉強だったのがいけないんですが。ま、四十の手習いってヤツです。
今後とも宜しくお願い致します。