対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

ひまわりの弁証法? 

2005-06-15 | 弁証法
 長谷川宏は『新しいヘーゲル』のなかで、ヘーゲル弁証法の具体例として、「ひまわりの弁証法」を紹介しています。
 ここにひまわりの種がある。それを地面にまくと、芽が出てくる。やがて茎が伸び、茎は葉をつけ、夏になると大きな花が咲く。花びらが散ったあと、花の中央にたくさんの大きな種がみのり、年を越して春になると、この種がまた芽を出す。それがひまわりという有機体の生命過程である。
 これを弁証法的に表現するとこうなる。種が否定されて芽となり、芽が否定されて茎や葉となり、茎や葉が否定されて花となり、花が否定されて種となり、こうして有機体はおのれにもどつてきて生命としてのまとまりを得ることができるのだ、と。

 ひまわりの弁証法という命名は、印象的です。これは、ヘーゲルがどこかで述べているのでしょうか。それとも長谷川宏が名付けたものなのでしょうか。ヘーゲルではなく、長谷川の命名だと思われますが、本当のところは、よくわかりません。ついでにいえば、ヘーゲルは有機体の生命過程をどこかで弁証法の例としてあげているのでしょうか。わたしは的確な答えを知りません。ただ『精神現象学』序論に次のような箇所があり、これがひまわりの弁証法と関連しているのかなと思ってみるだけです。
 花が咲けば蕾(つぼみ)が消えるから、蕾は花によって否定されたと言うこともできよう。同様に、果実により、花は植物のあり方としてはいまだに偽であったことが宣告され、植物の真理として花にかわって果実が現われる。植物のこれらの諸形態は、それぞれ異なっているはかりでなく、たがいに両立しないものとして排斥しあっている。しかし同時に、その流動的な本性によって、諸形態は有機的統一の諸契機となっており、この統一においては、それらはたがいに争いあわないばかりでなく、どの一も他と同じく必然的である。そして、同じく必然的であるというこのことが、全体としての生命を成り立たせているのである。(山本信訳)

 ひまわりの弁証法がどこに文献としての出自があるのかはわかりませんが、ひまわりの弁証法は、ヘーゲル弁証法の特徴を表現していると考えます。それは唯物弁証法にも引き継がれている考え方だろうと思います。しかし、それは、わたしが否定しようと考えている弁証法なのです。

 長谷川宏は、ひまわりの弁証法から引きだせる弁証法の要項は「否定」と「まとまり」の二点であると述べています。
 普通には、種が芽を出す、というところを、ヘーゲルはあえて「種が否定されて芽となる」とか「種の否定が芽である」とか、もってまわったいいかたをする。否定の働きをぜひとも強調したいのだ。AがおのずとBになるのではなく、Aが否定されてBが出てくる。そのようにAとBとのあいだに対立があり、その対立が変化や運動の原動力となると考えるのが弁証法の基本なのである。
 もう一つ、種から出発した生命過程が何回かの否定を経て、ふたたび種にもどる――そういう形でまとまりの生じることが、右に劣らず重要な弁証法の原則である。否定に否定を重ねて、ゆくえの定まらぬ運動が続く、というのでは弁証法とはいえない。

 長谷川は、AとBとのあいだに対立があるといいます。Aが否定されてBが出てくると述べています。わたしは、ここに、問題があると考えます。種と芽、これがAとBに対応しています。このA(種)とB(芽)とのあいだの対立は、時間の経過にしたがって想定されています。この「否定」によって出現する「対立」が、変化や運動の原動力として、弁証法の基本と考えられています。しかし、この「対立」は、すでに変化や運動を経験していて、原動力としては機能していないのではないでしょうか。「対立」は、そのまま変化や運動と対応しています。

 ひまわりの弁証法の「対立」を、過程における「対立」と考えてみます。長谷川宏は、この過程における「対立」を根拠にして、弁証法を考えていることになるでしょう。

 わたしが否定したいのは、このような弁証法なのです。つまり、ひまわりの弁証法の「対立」は、対話の「対立」とは、まったく違っていると主張したいのです。

 過程における対立は、否定だけで構成されています。肯定は「否定の否定」として想定されていますが、過程における「対立」では、否定が主で、肯定は従の位置関係にあると思われます。否定と対立は一体となっていて、区別できないように思われます。これが弁証法の基本となっています。

 これは、「反対の諸規定への移行」が「弁証法的側面あるいは否定的理性の側面」と規定してあることと密接に関係していると考えられます。

 対立と否定と弁証法が同位にあるとすれば、過程における「対立」はヘーゲル弁証法にとって、必然的な「対立」といわなければなりません。ここに「論理的なものの三側面」の規定がそのまま三段階の進展の形式に横すべりしていく原因を見ることができると思います。ここには対話の「対立」が入り込む場所はないように思われます。

 以上は、ひまわりの弁証法の「否定」について見たものです。もう一つの「まとまり」についても見ておきましょう。
 長谷川はもう一つの弁証法の原則として、種から出発してふたたび種にもどるというような形で、運動にまとまりが生じることをあげていました。しかし、この指摘は「対話」とどんな関係があるのでしょう。何の関係もないと思われます。むしろ、否定に否定を重ねて、ゆくえの定まらぬ運動が続く、といった方が弁証法に近いというべきでしょう。

 対話の「対立」を、「場」における「対立」と考えてみます。この「対立」は、同時的なものです。場における同時的な対立が、変化や運動の原動力になると想定しなければならないでしょう。また、場における対立は、否定だけでなく、肯定と否定によって構成されていると考えられます。同時的であることを強調するために、対立するのはAとBではなく、AとA´と表示することにします。対立するAとA´は、相互に肯定されると同時に否定されます。これが、変化や運動の原動力となり、Bが形成されると考えるのです。これが弁証法の基本であると思われます。

 このような対話の「対立」に基づいた弁証法を対置するには、「論理的なものの三側面」を解体し、再構築する必要があります。これが『弁証法試論』で試みていることなのです。

 単純にいえば、直列につながれている否定的理性と肯定的理性を並列につなぎなおして、最初から否定的理性と肯定的理性が一体となって同時的に進行していく形式を設定しているのです。いいかえれば、「否定」と「否定の否定」という進行ではなく、「否定」と「肯定」が同時に進行していくという設定を考えているのです。否定的理性と肯定的理性は、異なった二つの段階ではなく、一つの理性的段階です。これを弁証法の基礎に置いています。

 「ひまわりの弁証法」はヘーゲル弁証法の特徴を表現していますが、弁証法(Dialektik)とは違っています。それはまったく、対話(Dialog)との関係をもっていないのです。

参考文献

 長谷川宏 『新しいヘーゲル』 講談社現代新書 1997年
 岩崎武雄編 『ヘーゲル』 世界の名著44 中央公論社 1978年




最新の画像もっと見る

コメントを投稿