対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

「論理的なもの」の表出論5

2020-11-23 | 自己表出と指示表出
 (自己表出と指示表出の文献的な根拠)

 「論理的なもの」の表出論を展開する過程において、跳躍点となったのは、沢田充茂の記号論(「現代論理学入門」)だった。記号には、「記号外のなんらかのものと関係をもっているものと、このような記号同士を結びつける働きをする別の記号とがある」。この指摘は「言語」と「論理的なもの」の双方において自己表出と指示表出をどのように位置づけなければならないのかを示唆したのである。指示表出は「事物に関係する働きをもつ記号」の基礎になっているだろう。これに対して自己表出は「2接着剤の働きをする記号(1の記号同士を結びつける働きをする別の記号)」の基礎になっている。このような位置づけは、カントの悟性と理性の違いに対応すると思われた。悟性はカテゴリーと判断を通して現象界に関係するのに対して、理性はこの悟性の機能を統一するだけで現象界と直接かかわらないと想定されているからである。このように把握すると、科学の発展において、アインシュタインが良い理論の判定基準としてあげた「外からの検証」と「内からの完成」も、「指示表出」と「自己表出」の側面と対応しているように思えてきた。
 これが10年前である(「ひらがな弁証法」)。それ以来、特に進展はなかった。ところが最近、悟性と理性いいかえれば指示表出と自己表出について、簡潔な指摘が『純粋理性批判』(第2版序文)にあることを知った。
我々は同一対象を、一方では経験にとっての感覚および知性(悟性のこと、引用者注)の対象として考察できるとともに、他方では我々が単に考えるだけの対象として、とにかく経験の限界を超え出ようと努める孤立した理性にとっての対象として、したがって、二つの異なった側面から考察することができる(内田弘訳)

同一の対象が、一方では――即ち経験に対しては、感性および悟性の対象として、また他方では――即ち経験の限界を超出しようとする孤立した理性に対しては、単に考えられるだけの対象として、――要するに二つの異なる側から考察せられ得る(篠田英雄訳)
 いい感じである。ヘーゲル「論理的なもの」の三側面(『小論理学』)に対応させた
   悟性―理性……理性―悟性
をカントの悟性と理性(『純粋理性批判』)で読み解こうとしてきたのである。

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