堀江忠男は『マルクス経済学と現実 ―― 否定的役割を演じた弁証法』(学文社 1979年)のなかで、次のように断言している。
弁証法こそが、『資本論』の経済学を生みだしたもっとも本質的な方法論的な基底であることはまちがいないが、その弁証法自体が、客観的な現実認識と単純明快な論理構成の妨げになったことも、まぎれもない事実である。
堀江はこれを具体的に立証している。かれの展開は納得できるものである。
堀江忠男を読みながら、ヘーゲルとマルクスがつながったと実感した。限定していえば、「弁証法的側面あるいは否定的理性の側面」(「論理的なものの三側面」)と「貨幣の資本への転化」がつながったのである。
共通するのは、「反対の諸規定への移行」あるいは同じことだが「矛盾律の否定」である。『資本論』(大内兵衛・細川嘉六監訳 大月書店 1968年)から、二つ引用しておこう。
商品生産および商品流通とにもとづく取得の法則または私有の法則は、この法則自身の、内的な、不可避的な弁証法によって、その正反対物に一変するのである。(第22章)
つまり、資本は流通から発生することはできないし、また流通から発生しないわけにもゆかないのである。資本は、流通の中で発生しなければならないと同時に流通のなかで発生してはならないのである。
こうして、二重の結果が生じた。
貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する諸法則にもとづいて展開されるべきであり、したがって等価物どうしの交換が当然出発点とみなされる。いまのところまだ資本家の幼虫でしかないわれわれの貨幣所有者は、商品をその価値どおりに買い、価値どおりに売り、しかも過程の終わりには、自分が投げ入れたよりも多くの価値を引き出さなければならない。彼の蝶への成長は、流通部面で行なわなければならないし、また流通部面で行なわれてはならない。これが問題の条件である。ここがロドスだ、さあ跳んでみろ![Hic Rhodus,hic salta!](第4章)
濁った弁証法が引き継がれた場面である。