goo

吾妻耶山頂の祠

2008年06月06日 | 山歩 - 雑感
少し前に杏ケ岳山頂の祠の向きについて記事にしましたが、吾妻耶山頂にも三基の大きな石の祠が鎮座しています。これは吾妻耶神社の社殿になります。



吾妻耶山頂の三基の祠

写真でわかるように三基とも同じ方向を向いています。方角は南東の方角です。山頂部の地形からすると、東を向けて設置した方がおさまりがいいと思うのですが、少し南にずれています。これも意識してこの方角を向けたものと思われます。一体、何処に向けて設置されたのでしょうか。

祠には麓の村々の名前が入っています。まず、一つ目が相俣村、二つ目が羽場・新巻村、三つ目が石倉・小川・寺間村、月夜野町で、大まかに各々南西、南、東から南東の麓の地域になります。これらの祠は各々の名前が記された麓の村の方角を向いていません。

実はこの今ある石の祠は明治24年に建立されたもので、最初に吾妻耶神社が建立されたのは寛文2年(1662年)です。時の沼田城主真田伊賀守によって三社の社殿が建立されました。この社殿が何処を向いていたかは容易に想像できます。それは沼田城です。この沼田城は吾妻耶山から見ると南東の方角にあたります。これが山頂の祠が南東を向いている理由だと思います。

沼田城址を訪れたことはありませんが、そこからは確実に吾妻耶山が見えるはずです。城から吾妻耶山に向かって拝むことは吾妻耶神社を拝むことになります。このようなことからも山頂の社殿は南東を向いている必要があるわけです。

山頂の社殿は建立以後何回か焼失してしまいます。しかし、麓の村々の人々の努力で再建されてきました。これらの再建に真田氏がどのように関わったかは不明です。

何故なら、真田氏は1681年に、江戸両国橋の用材の伐出しの遅れと失政という名目で改易となってしまい、2年後には城も壊されてしまうからです。吾妻耶山に社殿を建立してから約20年後のことです。その後は一時期本多氏が入封したものの、基本的には天領として支配されてきました。

しかしながら、吾妻耶神社は広く人々から信仰されていたようです。明治の初め頃までは、9月3日、9日の祭日には多くの人がお参りに訪れ、山道の途中に露店が並ぶほどだったそうです。

最初に社殿を建立したのは真田氏でしたが、麓の人々から見れば自分たちの山の山頂に神社が建てられたわけで、それが広く麓の人々から信仰されることになったのだと思います。麓に住む人たちにとって山は重要な生活の場だったはずです。山の幸はもちろん、薪を集め、何よりも絶対に欠かすことができない生活水の水源でもあったからです。その山を守る神として信仰されたのだと思います。

一方で、大峰山という名前が暗示するように、吾妻耶山・大峰山一帯が修験道の山だったのではと想像されます。そのようなことも広く人々に信仰されることに影響したかもしれません。むしろ、そのような下地があったからこそ、吾妻耶山に神社が建立されたと考えた方が自然かもしれません。

何度か焼失したということで、燃えることのない石の社殿を造ったのが今の三基の石の祠なのだと思います。この祠はかなり大きなもので、よくぞこのような大きな石を山頂まで上げたものだと思います。

各々の祠に村名が入っているのはその祠の所有を示すものではなく、創建時の三社の形での再建における単なる分担を示しているだけなのではないでしょうか。ですから、おそらく創建当時と同じように揃って南東を向いているのだろうと思います。

山頂にあった説明板と沼田市のHPの資料を基に、「私の自由な想像を含めて」纏めてみました。
goo | コメント ( 0 )