先日から手続き論の正当性の話をさせて頂いているが、この様な視点で見ると今まで腑に落ちなかったことがストンと理解できるようになったりする。少しこの辺を検証してみたい。
色々あるが、例えば国連の話をしてみよう。現在の国連にはアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国の5つの常任理事国がある。ご存知のように、政情不安な地域に対して安全保障理事会で何らかの決議を採決しようとするとき、これらの常任理事会には拒否権が与えられていて、いずれかの国が拒否すれば(当事者を除く)残りの全ての国連加盟の参加国が賛成しても適切な決議を行うことが出来ない。これまでも国連改革は様々な形で叫ばれてきたが、結局、本質的な部分が揺らぐことはなかった。したがって、あまりにも目に余る人権侵害がある国家があっても、国連決議をもって事態を改善しようという試みは多くの場合に失敗してきた。これは、価値観で考えれば勝てそうな議論であっても、手続き論的に国連のルールに照らし合わせれば勝てないことの良い例であろう。
では、何故、手続きがこの様になってしまったのか?それは、国連の名前にその答えが隠されている。これは独立総合研究所の青山繁晴氏が言っていたことであるが、国連、すなわち「United Nations」を我々日本人は「国際連合」と訳すのであるが、これは適切なようで適切ではない。元々は「United Nations」は第2次世界大戦における「連合国」であり、日本としては敗戦国という立場からこの名称を嫌い、わざわざ「国際連合」と訳している。多くの国では「国際連合」と「連合国」の区別をしない。だから、「本家」である主要5か国が特権を持つところから始め、後から加入する国にはその特権を認めることを強いたのである。無茶苦茶と言えば無茶苦茶だが、嫌ならば加盟しなければ良いのだから文句は言えない。これが常任理事国のみが拒否権を持つことの「手続き論的な正当性」である。全ての議論は、その手続き論の上で議論しなければならない。
最近の話題に関しては、TPPなどもその例であろう。TPPでは先発組の国々が民主的な手続きで一定のルールを定めるが、一旦そのルールが定まると、後発組の国々はTPP参加にあたってはそのルールを丸呑みすることを強いられる。後でちゃぶ台をひっくり返すことは出来ないのである。巷でTPPが中国包囲網的な意味合いを持つといわれるのはまさにこの意味で、民主的な手続きで定められたルールである以上、中国が加盟するに当たってはこのルールに従わなければならない。アメリカが日本の参加を強く望んだ理由は、この先発組が形成する一大経済圏が魅力的でなければ後発組の参加は期待できず、その経済規模を拡大する上で日本は非常に重要なのである。これだけの規模であれば、将来は中国もTPPに加盟せざるを得ない時期が来るが、その時、ドラえもんのジャイアンの様な中国であっても、「法の下の支配」に従わなければならないことになる。そのための基盤作りの取り組みなのである。
例えば別の例では、地球温暖化対策の気候変動枠組条約、京都議定書に対する取り組みの中では、何も前提となるルールが存在しない中で議論をするから、中国の様な世界第2位の経済規模を持つ大国であっても、「発展途上国は相当なハンディキャップを付けてもらって当然」とばかりに、言ったもん勝ちの我儘な振る舞いをする。そこには手続き的な正当性は何処にもないし、多様な価値観の存在する中で議論しても着地点を見出すことは出来ない。こう考えると、「手続き論的な正当性」は非常に理不尽なことはあるのだが、仮に上手く常任理事国の利害関係を調整できれば議論を着地させることができる。何もルールがないよりはましなのである。
ところで、先日の産経新聞に面白い記事があった。少しばかり読んで頂きたい。
産経新聞2014年2月5日「『すべて日本が悪い』は神聖不可侵の命題なのか」
この中で、記事を書いた湯浅氏は数年前に韓国で開かれた日韓編集セミナーの中で、「中央日報の盧在賢論説委員(当時)の基調報告に『なるほど』と納得したことがあった」という。記事を少しばかり引用してみよう。
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彼によると、韓国の報道姿勢は、靖国、教科書、竹島問題など日韓の微妙な問題を扱う際は、はじめに大前提を立てて事実を積み上げる「演(えん)繹(えき)法」であるという。大前提とは、いうまでもなく「すべて日本が悪かった」という神聖不可侵の命題である。従って、韓国紙の論調は「断定的な考え方、同義反復、誇張、論理の飛躍などが生じる」と自嘲気味に語っていた。盧委員はそれを「空虚な演繹法」と呼んだ。空虚な例でいえば、盧(ノ)武(ム)鉉(ヒョン)政権が打ち出した親日・反民族行為者の財産の国家帰属に関する法律が当てはまる。
・・・(中略)・・・
もっとも、盧委員は日本メディアについては事実を積み重ねて結論を導く「帰納法」であると指摘し、「狭量な帰納法」と定義していた。
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ここで、「演繹法」と「帰納法」について簡単に整理しておこう。理系の人は「帰納法」と聞いて「数学的帰納法」を思い出すが、「数学的帰納法」は分類上は明らかに「演繹法」である。「演繹法」とは、前提となる真理をベースにし、その上に議論を積み上げるのである。「演繹法」の代表例が三段論法である。ご存知のように、「Aの条件を満たせば必ずBである」「CはAの条件を満たす」「ならば、Bは必ずCである」というように、真理を組み合わせれば新たな真理を導き出せるというものである。しかし、問題はスタート地点の「真理とおぼしき命題」が本当に真理であるか否かが重要であり、出発地点が間違っていれば当然ながら帰結は誤りとなる。上述の中央日報の盧委員が自戒の意味を込めて「空虚な演繹法」と呼ぶのはその様な意味があり、出発点が「すべては日本が悪い」であれば、確かに彼らが主張する様な結論に容易に導けるのは理解できる。ちなみに「帰納法」とはこの逆で、真理のないところで様々な経験を集約し、その経験から「真理である可能性の高いもの」を導きだす議論の仕方である。実際の物理学などは帰納的に仮説を打ち立て、その仮説が正しければある実験結果がどうなるかを予測し、その実験結果が予測した通りとなることでその帰納法の確度を高めるのである。多分、日本のことを「狭量な帰納法」と呼ぶ理由は、「多くの戦地には慰安婦がいた」という事実を積み上げ、「戦地で慰安婦がいるのは不自然ではない」という真理を導き出し、日本がかって慰安婦を利用したとしても、それをもって日本をナチスと同等に扱うことなどできないと結論付けようとしていることを指してのことなのだろう。つまり、国毎の価値観が異なる中では、一般的に「論理的な議論」をしているつもりでも相手が同意してくれる可能性は低い。我々は、ついつい共通の「価値観」とか「論理的」という事に重きを置きがちだが、実際の世の中がその様な思い込みで上手くは回らない理由を考えれば、それは世の中は「価値観」や「論理的」というものに対する位置づけが我々の思い込みとは異なるところにあるからなのだろう。繰り返すが、「論理的」な議論は役に立ちそうで、意外に役に立っていないのである。
そんな中で「手続き論」に着目すれば、今回、アメリカのバージニア州で「日本海」のことを「東海」と併記するようにする法案が可決した理由は、(それはこの様な結果を意図してのことではないだろうが)手続き的に韓国系の移民の人口を増やし、それらの勢力が選挙において特定の候補者に投票することで選挙の結果を左右することが出来る状況を生み出し、その結果選ばれた議員に自らの主張を代弁させるという手続きを地道に行ったからだろう。ないしは、ロビー活動で地道に反日的な嘘八百を連呼し続け、人々の心の中に潜在的にその嘘を浸透させるということをした結果とも言える。当事者ではないアメリカ国内での評価が世界における評価に直結するという共通の合意事項が何処かで出来上がって以降は、中国や韓国は積極的にこの共通合意を利用し、その中での手続きを最大限に活用してきた。この結果、性善説に立つ日本がその様な行動を「姑息な手段」と言っている間に彼らは「定められたルールに従って」プレーをし続けたのである。手続き論的には完敗と言わざるを得ない。
色々書いてきたが、大切なことは、第1には「手続き論」の何たるかを熟知し、そのルールに従ってプレーすることの重要性を意識すること、第2には「手続き論」のルールメーカの立場に身を置くことの重要性である。TPPは幸いなことにルールメーカのポジションにいる。しかし、残念なことに歴史論争では日本はルールメーカにはなれなかった。であれば、自分のルールでの議論をここでは封印し、既存のルールを解析し、その中で相手に勝つための戦略を練ることに徹しなければならない。
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色々あるが、例えば国連の話をしてみよう。現在の国連にはアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国の5つの常任理事国がある。ご存知のように、政情不安な地域に対して安全保障理事会で何らかの決議を採決しようとするとき、これらの常任理事会には拒否権が与えられていて、いずれかの国が拒否すれば(当事者を除く)残りの全ての国連加盟の参加国が賛成しても適切な決議を行うことが出来ない。これまでも国連改革は様々な形で叫ばれてきたが、結局、本質的な部分が揺らぐことはなかった。したがって、あまりにも目に余る人権侵害がある国家があっても、国連決議をもって事態を改善しようという試みは多くの場合に失敗してきた。これは、価値観で考えれば勝てそうな議論であっても、手続き論的に国連のルールに照らし合わせれば勝てないことの良い例であろう。
では、何故、手続きがこの様になってしまったのか?それは、国連の名前にその答えが隠されている。これは独立総合研究所の青山繁晴氏が言っていたことであるが、国連、すなわち「United Nations」を我々日本人は「国際連合」と訳すのであるが、これは適切なようで適切ではない。元々は「United Nations」は第2次世界大戦における「連合国」であり、日本としては敗戦国という立場からこの名称を嫌い、わざわざ「国際連合」と訳している。多くの国では「国際連合」と「連合国」の区別をしない。だから、「本家」である主要5か国が特権を持つところから始め、後から加入する国にはその特権を認めることを強いたのである。無茶苦茶と言えば無茶苦茶だが、嫌ならば加盟しなければ良いのだから文句は言えない。これが常任理事国のみが拒否権を持つことの「手続き論的な正当性」である。全ての議論は、その手続き論の上で議論しなければならない。
最近の話題に関しては、TPPなどもその例であろう。TPPでは先発組の国々が民主的な手続きで一定のルールを定めるが、一旦そのルールが定まると、後発組の国々はTPP参加にあたってはそのルールを丸呑みすることを強いられる。後でちゃぶ台をひっくり返すことは出来ないのである。巷でTPPが中国包囲網的な意味合いを持つといわれるのはまさにこの意味で、民主的な手続きで定められたルールである以上、中国が加盟するに当たってはこのルールに従わなければならない。アメリカが日本の参加を強く望んだ理由は、この先発組が形成する一大経済圏が魅力的でなければ後発組の参加は期待できず、その経済規模を拡大する上で日本は非常に重要なのである。これだけの規模であれば、将来は中国もTPPに加盟せざるを得ない時期が来るが、その時、ドラえもんのジャイアンの様な中国であっても、「法の下の支配」に従わなければならないことになる。そのための基盤作りの取り組みなのである。
例えば別の例では、地球温暖化対策の気候変動枠組条約、京都議定書に対する取り組みの中では、何も前提となるルールが存在しない中で議論をするから、中国の様な世界第2位の経済規模を持つ大国であっても、「発展途上国は相当なハンディキャップを付けてもらって当然」とばかりに、言ったもん勝ちの我儘な振る舞いをする。そこには手続き的な正当性は何処にもないし、多様な価値観の存在する中で議論しても着地点を見出すことは出来ない。こう考えると、「手続き論的な正当性」は非常に理不尽なことはあるのだが、仮に上手く常任理事国の利害関係を調整できれば議論を着地させることができる。何もルールがないよりはましなのである。
ところで、先日の産経新聞に面白い記事があった。少しばかり読んで頂きたい。
産経新聞2014年2月5日「『すべて日本が悪い』は神聖不可侵の命題なのか」
この中で、記事を書いた湯浅氏は数年前に韓国で開かれた日韓編集セミナーの中で、「中央日報の盧在賢論説委員(当時)の基調報告に『なるほど』と納得したことがあった」という。記事を少しばかり引用してみよう。
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彼によると、韓国の報道姿勢は、靖国、教科書、竹島問題など日韓の微妙な問題を扱う際は、はじめに大前提を立てて事実を積み上げる「演(えん)繹(えき)法」であるという。大前提とは、いうまでもなく「すべて日本が悪かった」という神聖不可侵の命題である。従って、韓国紙の論調は「断定的な考え方、同義反復、誇張、論理の飛躍などが生じる」と自嘲気味に語っていた。盧委員はそれを「空虚な演繹法」と呼んだ。空虚な例でいえば、盧(ノ)武(ム)鉉(ヒョン)政権が打ち出した親日・反民族行為者の財産の国家帰属に関する法律が当てはまる。
・・・(中略)・・・
もっとも、盧委員は日本メディアについては事実を積み重ねて結論を導く「帰納法」であると指摘し、「狭量な帰納法」と定義していた。
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ここで、「演繹法」と「帰納法」について簡単に整理しておこう。理系の人は「帰納法」と聞いて「数学的帰納法」を思い出すが、「数学的帰納法」は分類上は明らかに「演繹法」である。「演繹法」とは、前提となる真理をベースにし、その上に議論を積み上げるのである。「演繹法」の代表例が三段論法である。ご存知のように、「Aの条件を満たせば必ずBである」「CはAの条件を満たす」「ならば、Bは必ずCである」というように、真理を組み合わせれば新たな真理を導き出せるというものである。しかし、問題はスタート地点の「真理とおぼしき命題」が本当に真理であるか否かが重要であり、出発地点が間違っていれば当然ながら帰結は誤りとなる。上述の中央日報の盧委員が自戒の意味を込めて「空虚な演繹法」と呼ぶのはその様な意味があり、出発点が「すべては日本が悪い」であれば、確かに彼らが主張する様な結論に容易に導けるのは理解できる。ちなみに「帰納法」とはこの逆で、真理のないところで様々な経験を集約し、その経験から「真理である可能性の高いもの」を導きだす議論の仕方である。実際の物理学などは帰納的に仮説を打ち立て、その仮説が正しければある実験結果がどうなるかを予測し、その実験結果が予測した通りとなることでその帰納法の確度を高めるのである。多分、日本のことを「狭量な帰納法」と呼ぶ理由は、「多くの戦地には慰安婦がいた」という事実を積み上げ、「戦地で慰安婦がいるのは不自然ではない」という真理を導き出し、日本がかって慰安婦を利用したとしても、それをもって日本をナチスと同等に扱うことなどできないと結論付けようとしていることを指してのことなのだろう。つまり、国毎の価値観が異なる中では、一般的に「論理的な議論」をしているつもりでも相手が同意してくれる可能性は低い。我々は、ついつい共通の「価値観」とか「論理的」という事に重きを置きがちだが、実際の世の中がその様な思い込みで上手くは回らない理由を考えれば、それは世の中は「価値観」や「論理的」というものに対する位置づけが我々の思い込みとは異なるところにあるからなのだろう。繰り返すが、「論理的」な議論は役に立ちそうで、意外に役に立っていないのである。
そんな中で「手続き論」に着目すれば、今回、アメリカのバージニア州で「日本海」のことを「東海」と併記するようにする法案が可決した理由は、(それはこの様な結果を意図してのことではないだろうが)手続き的に韓国系の移民の人口を増やし、それらの勢力が選挙において特定の候補者に投票することで選挙の結果を左右することが出来る状況を生み出し、その結果選ばれた議員に自らの主張を代弁させるという手続きを地道に行ったからだろう。ないしは、ロビー活動で地道に反日的な嘘八百を連呼し続け、人々の心の中に潜在的にその嘘を浸透させるということをした結果とも言える。当事者ではないアメリカ国内での評価が世界における評価に直結するという共通の合意事項が何処かで出来上がって以降は、中国や韓国は積極的にこの共通合意を利用し、その中での手続きを最大限に活用してきた。この結果、性善説に立つ日本がその様な行動を「姑息な手段」と言っている間に彼らは「定められたルールに従って」プレーをし続けたのである。手続き論的には完敗と言わざるを得ない。
色々書いてきたが、大切なことは、第1には「手続き論」の何たるかを熟知し、そのルールに従ってプレーすることの重要性を意識すること、第2には「手続き論」のルールメーカの立場に身を置くことの重要性である。TPPは幸いなことにルールメーカのポジションにいる。しかし、残念なことに歴史論争では日本はルールメーカにはなれなかった。であれば、自分のルールでの議論をここでは封印し、既存のルールを解析し、その中で相手に勝つための戦略を練ることに徹しなければならない。
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