昨日のブログで森元総理の暴言発言についてコメントした。そのブログのコメントの中でも、全文を読めば悪意は感じられないという私の感想に対する同意のコメントも頂いた。ポイントは「悪意」の有無で、今朝の日テレの「ウェークアップ!ぷらす」でも、番組が組んだCM前の発言の紹介シーンでは「悪意」を強調しながら、CMが明けて辛坊キャスターをはじめとする出演者は「全文を読んだ」と前置きしたうえで、表現の乱暴さは認めた上で「悪意」から来る発言ではなく、真意は真逆のところにあるとのニュアンスを出していた。流石に正面切って擁護することで変なとばっちりを買いたくないという守りの意識は感じたが・・・。
さて、私のブログへのコメントの中でも「報道機関の嘘」について感想があったが、実は私は報道機関が如何に真実を捻じ曲げた報道をするかは問題だと思っているが、多分、彼らが「嘘を振りまこう」という意識であの様な行動を取っているとは思っていない。前々からこの手の「人の考え方」については私なりの考えを持っていたのだが、それを代弁するかのような記事があったのでそれを指摘しておきたい。
池田信夫blog2014年2月17日「朝日新聞の友と敵」
ブログの冒頭の部分を直接引用させて頂く。
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今週のメルマガで書いたカール・シュミットの記事のおまけ。シュミットは、法制局の手本とするケルゼン的な実定法主義を否定した。法制局は条文の矛盾や重複を厳重に監視するが、どんなバカげた法律でも矛盾なしに書けるので、それは法律の正統性を何ら保証しない。
法律の形式に意味がないとすれば、その本質は何だろうか。シュミットは『政治的なものの概念』で、それは友か敵かという立場だとのべた。人は他人の意見が正しいかどうかを合理的に理解してから立場を決めるのではなく、まず「こいつは敵か味方か」を感覚的に判断してから、自分の立場を正当化する論理を考えるのだ。
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この最後の部分、「人は他人の意見が正しいかどうかを合理的に理解してから立場を決めるのではなく、まず『こいつは敵か味方か』を感覚的に判断してから、自分の立場を正当化する論理を考えるのだ。」のところは私の周りにもいる非常に短絡的な人の思考の典型的な特徴である。政治問題に関しては、よく「是々非々の立場で臨む」という表現を聞くが、これは例えば野党だから与党に反対しなければいけないというのはおかしいから、与党の言うことでも正当な意見には同意するという意味である。一見、尤もな話であるが、それを実践しているのは政治の世界では橋下日本維新の会共同代表ぐらいしか知らない。勿論、かくいう私にも(ないしは、誰にでも)その様な敵か味方かで判断が決まるという物の考え方がないとは言わないが、それでもなるべく客観的に物事を捉えようとは努力はしている。しかし、どうも新聞社と政治家の世界では、物事の客観性というのは2の次で、敵か味方かを最大限に重視するという傾向があるようだ。これは国内のメディアだけにとどまらず、(中国、韓国という限定的な物ではなく)海外のメディアにおいても同様であるようだ。
例えば、ダボス会議での安倍総理へのフィナンシャル・タイムズの質問の中で、「日本と中国で戦争の危険性はあるか?」との問いに、「ありえない!」と即答しない安倍総理を非難するという愚行があった。有識者の中でも、安倍総理の発言を聞けば何処にも問題点はないと認めながらも、「第1次世界大戦とう、ヨーロッパの人にとってセンシティブな話題を取り上げたときにどの様な反応が起きるか」ということを予測できなかったことを指摘し、「脇が甘い」と安倍総理を攻めていたりした。しかし、それらの記事には明らかに「悪意」があり、その悪意の根底には「こいつは敵か味方か」という品定めが事前に行われており、そこで「敵」と判定されると、どの様な発言をしてもあの様な攻撃を受けることになる。しかし、ではその様な攻撃を避けるために脇を固めると何が起きるかと言えば、「ダボス会議まで出かけて行って、人の記憶に残るような情報発信のひとつも出来ない」とのそしりを受けるような結果となる。ある程度、アグレッシブな攻めの政治をやるのであれば、情報発信は必要不可欠である。中国、韓国の卑劣な歴史認識攻撃に対しても、その積極的な情報発信の重要性が高まる中、その様なリスクばかりを恐れていては何も出来なくなってしまう。だから、日本と中国の間の不慮の事態に備えたチャネルの存在の重要性を説き、それをアピールするための発言として、その発言の真意は肯定的に捉えられるべきで、それを悪意を持って捻じ曲げる方を寧ろ非難して然るべきであろう。
しかし、この「こいつは敵か味方か」という品定めは一旦評価が決まってしまうと、それを変えることは殆ど不可能に近い。非常に価値観が多様化している現代では、その品定め結果を不当だと責めても、その議論が噛みあうことなどあり得ない。つまり、この様に敵か味方かでしか物事を考えられない人たちに対しては、論理的な立場の正当性を戦わせようとしても無意味であり、その様な人との議論においては「手続き」的な正当性が重要となる。つまり、相手も決して逆らうことが出来ない、法律などの拠り所となるルールの確認である。先の池田氏のブログの中でも引用されている「内閣法制局は『法の番人』なの?」には、集団的自衛権の憲法解釈による対処に対する解説が書かれている。他にもより正確な記述は下記のサイトで高橋洋一氏が説明している。
Diamond Online2014年2月20日「『官僚内閣制』の肯定か、『政治主導』か 集団的自衛権で俄然注目の内閣法制局とは?」
私もすっかり勘違いしていたが、法律の中で規定される内閣法制局の役割の認識は、これまで多くの誤解を生んでいた。つまり、内閣が勝手に法律の判断をすることが出来ない様に、内閣法制局が政府の見張り番をしているという理解であるが、両氏がご指摘の様に内閣法制局の法的な規定にその様な役割があり得る訳がない。何故なら、三権分立の立場から、行政の一機関の判断よりも最高裁の判断の方がより上位であり、最高裁の判断を無視して内閣法制局が物事を決める権限がある訳がない。三権分立の初歩の初歩の話である。しかし、これが「法の番人」と認識されるに至る背景には、この内閣法制局は新たに行う立法と過去の法律との整合性を管理する機関であり、法律の文案レベルで内閣に助言を行う法律のスペシャリスト、いわば「家庭教師」のようなものである。その様な役割故に、ある種のスタビライザー的な効果が伴っていて、憲法解釈ですら内閣法制局が中心となって行っていたのである。しかし、それは内閣法制局側が「これは、俺の仕事だ!」と言って行っていたのではなく、内閣側からの要請があり過去との整合性をアドバイスしているに過ぎない。あくまでも選挙を経ない官僚でしかないから、当然ながらその様な人に「国家の命運を左右するかも知れない重要事項」の決定権がある訳がなく、それは選挙と国会の運営ルールの上での最高責任者たる総理大臣が、所定の手続きを踏んで、その結果として最終判断をするのが法律的な理解である。
安倍総理の国会での発言をこれらの新聞社が「選挙で選ばれたのだから、私が決める」と傲慢な態度を取ったと非難しているが、それは安倍総理の発言を捻じ曲げていて、手続き論的に「法律の規定ではどの様になっているのか?」を基準に議論を行い、それが内閣、ないしは内閣総理大臣の権限であるとするならば、その権限の行使が間違っていたとすればそれに対するブレーキを法律はどの様に定めているかと順番に問えば、時の内閣、ないしは総理大臣が手続きを踏んで権限を行使し、その権限の行使が不適切であれば国民は次の選挙により彼らにペナルティを課すことが出来る、それが日本人が従うべき法律の規定である。これは法律なのだから、新聞社の「好きか嫌いか」「敵か味方か」などという愚かな議論を超越して、圧倒的に正しい手続きなのである。この様なご指摘は有識者の中でも時折みられ、長谷川幸洋氏なども同様の指摘をされている。他にも一部の新聞社では、同様の記事を書いているようだ。
この様に、我々は「敵か味方か」を基準に法律すらないがしろにする輩が大腕を振って「我こそはジャーナリズムである」と豪語する世界に生きている。私などはブログでぼやくだけだが、多くの政治家や言論人はこの様な残念な世界の中で生きて行かねばならない。だとすれば、それらの人々のバイブルは、「手続き」ないしは「法律」的な正当性を重視し、価値観の正当性は寧ろ封印すべきなのかも知れない。我々は(韓国を含めて)アメリカなどの国々に「民主主義という共通の価値観を共有する国々」と呼びかけているが、この共有の価値観というのは危険である。韓国を見れば分かるように、価値観は多様であり身近な存在と思いきや、結構な頻度で衝突するものだからである。であれば、外国相手との議論を繰り広げるのであれば、手続きや法律、国際ルールを最大限に尊重し、つまらない価値観にはあまりこだわりを見せない方が良い。
最後は抽象的な終わり方で申し訳ないが、ジャーナリズムを自称得る方々には、「敵か味方か」を基準に物事を判断することの是非をもう一度考えてもらいたい。
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さて、私のブログへのコメントの中でも「報道機関の嘘」について感想があったが、実は私は報道機関が如何に真実を捻じ曲げた報道をするかは問題だと思っているが、多分、彼らが「嘘を振りまこう」という意識であの様な行動を取っているとは思っていない。前々からこの手の「人の考え方」については私なりの考えを持っていたのだが、それを代弁するかのような記事があったのでそれを指摘しておきたい。
池田信夫blog2014年2月17日「朝日新聞の友と敵」
ブログの冒頭の部分を直接引用させて頂く。
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今週のメルマガで書いたカール・シュミットの記事のおまけ。シュミットは、法制局の手本とするケルゼン的な実定法主義を否定した。法制局は条文の矛盾や重複を厳重に監視するが、どんなバカげた法律でも矛盾なしに書けるので、それは法律の正統性を何ら保証しない。
法律の形式に意味がないとすれば、その本質は何だろうか。シュミットは『政治的なものの概念』で、それは友か敵かという立場だとのべた。人は他人の意見が正しいかどうかを合理的に理解してから立場を決めるのではなく、まず「こいつは敵か味方か」を感覚的に判断してから、自分の立場を正当化する論理を考えるのだ。
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この最後の部分、「人は他人の意見が正しいかどうかを合理的に理解してから立場を決めるのではなく、まず『こいつは敵か味方か』を感覚的に判断してから、自分の立場を正当化する論理を考えるのだ。」のところは私の周りにもいる非常に短絡的な人の思考の典型的な特徴である。政治問題に関しては、よく「是々非々の立場で臨む」という表現を聞くが、これは例えば野党だから与党に反対しなければいけないというのはおかしいから、与党の言うことでも正当な意見には同意するという意味である。一見、尤もな話であるが、それを実践しているのは政治の世界では橋下日本維新の会共同代表ぐらいしか知らない。勿論、かくいう私にも(ないしは、誰にでも)その様な敵か味方かで判断が決まるという物の考え方がないとは言わないが、それでもなるべく客観的に物事を捉えようとは努力はしている。しかし、どうも新聞社と政治家の世界では、物事の客観性というのは2の次で、敵か味方かを最大限に重視するという傾向があるようだ。これは国内のメディアだけにとどまらず、(中国、韓国という限定的な物ではなく)海外のメディアにおいても同様であるようだ。
例えば、ダボス会議での安倍総理へのフィナンシャル・タイムズの質問の中で、「日本と中国で戦争の危険性はあるか?」との問いに、「ありえない!」と即答しない安倍総理を非難するという愚行があった。有識者の中でも、安倍総理の発言を聞けば何処にも問題点はないと認めながらも、「第1次世界大戦とう、ヨーロッパの人にとってセンシティブな話題を取り上げたときにどの様な反応が起きるか」ということを予測できなかったことを指摘し、「脇が甘い」と安倍総理を攻めていたりした。しかし、それらの記事には明らかに「悪意」があり、その悪意の根底には「こいつは敵か味方か」という品定めが事前に行われており、そこで「敵」と判定されると、どの様な発言をしてもあの様な攻撃を受けることになる。しかし、ではその様な攻撃を避けるために脇を固めると何が起きるかと言えば、「ダボス会議まで出かけて行って、人の記憶に残るような情報発信のひとつも出来ない」とのそしりを受けるような結果となる。ある程度、アグレッシブな攻めの政治をやるのであれば、情報発信は必要不可欠である。中国、韓国の卑劣な歴史認識攻撃に対しても、その積極的な情報発信の重要性が高まる中、その様なリスクばかりを恐れていては何も出来なくなってしまう。だから、日本と中国の間の不慮の事態に備えたチャネルの存在の重要性を説き、それをアピールするための発言として、その発言の真意は肯定的に捉えられるべきで、それを悪意を持って捻じ曲げる方を寧ろ非難して然るべきであろう。
しかし、この「こいつは敵か味方か」という品定めは一旦評価が決まってしまうと、それを変えることは殆ど不可能に近い。非常に価値観が多様化している現代では、その品定め結果を不当だと責めても、その議論が噛みあうことなどあり得ない。つまり、この様に敵か味方かでしか物事を考えられない人たちに対しては、論理的な立場の正当性を戦わせようとしても無意味であり、その様な人との議論においては「手続き」的な正当性が重要となる。つまり、相手も決して逆らうことが出来ない、法律などの拠り所となるルールの確認である。先の池田氏のブログの中でも引用されている「内閣法制局は『法の番人』なの?」には、集団的自衛権の憲法解釈による対処に対する解説が書かれている。他にもより正確な記述は下記のサイトで高橋洋一氏が説明している。
Diamond Online2014年2月20日「『官僚内閣制』の肯定か、『政治主導』か 集団的自衛権で俄然注目の内閣法制局とは?」
私もすっかり勘違いしていたが、法律の中で規定される内閣法制局の役割の認識は、これまで多くの誤解を生んでいた。つまり、内閣が勝手に法律の判断をすることが出来ない様に、内閣法制局が政府の見張り番をしているという理解であるが、両氏がご指摘の様に内閣法制局の法的な規定にその様な役割があり得る訳がない。何故なら、三権分立の立場から、行政の一機関の判断よりも最高裁の判断の方がより上位であり、最高裁の判断を無視して内閣法制局が物事を決める権限がある訳がない。三権分立の初歩の初歩の話である。しかし、これが「法の番人」と認識されるに至る背景には、この内閣法制局は新たに行う立法と過去の法律との整合性を管理する機関であり、法律の文案レベルで内閣に助言を行う法律のスペシャリスト、いわば「家庭教師」のようなものである。その様な役割故に、ある種のスタビライザー的な効果が伴っていて、憲法解釈ですら内閣法制局が中心となって行っていたのである。しかし、それは内閣法制局側が「これは、俺の仕事だ!」と言って行っていたのではなく、内閣側からの要請があり過去との整合性をアドバイスしているに過ぎない。あくまでも選挙を経ない官僚でしかないから、当然ながらその様な人に「国家の命運を左右するかも知れない重要事項」の決定権がある訳がなく、それは選挙と国会の運営ルールの上での最高責任者たる総理大臣が、所定の手続きを踏んで、その結果として最終判断をするのが法律的な理解である。
安倍総理の国会での発言をこれらの新聞社が「選挙で選ばれたのだから、私が決める」と傲慢な態度を取ったと非難しているが、それは安倍総理の発言を捻じ曲げていて、手続き論的に「法律の規定ではどの様になっているのか?」を基準に議論を行い、それが内閣、ないしは内閣総理大臣の権限であるとするならば、その権限の行使が間違っていたとすればそれに対するブレーキを法律はどの様に定めているかと順番に問えば、時の内閣、ないしは総理大臣が手続きを踏んで権限を行使し、その権限の行使が不適切であれば国民は次の選挙により彼らにペナルティを課すことが出来る、それが日本人が従うべき法律の規定である。これは法律なのだから、新聞社の「好きか嫌いか」「敵か味方か」などという愚かな議論を超越して、圧倒的に正しい手続きなのである。この様なご指摘は有識者の中でも時折みられ、長谷川幸洋氏なども同様の指摘をされている。他にも一部の新聞社では、同様の記事を書いているようだ。
この様に、我々は「敵か味方か」を基準に法律すらないがしろにする輩が大腕を振って「我こそはジャーナリズムである」と豪語する世界に生きている。私などはブログでぼやくだけだが、多くの政治家や言論人はこの様な残念な世界の中で生きて行かねばならない。だとすれば、それらの人々のバイブルは、「手続き」ないしは「法律」的な正当性を重視し、価値観の正当性は寧ろ封印すべきなのかも知れない。我々は(韓国を含めて)アメリカなどの国々に「民主主義という共通の価値観を共有する国々」と呼びかけているが、この共有の価値観というのは危険である。韓国を見れば分かるように、価値観は多様であり身近な存在と思いきや、結構な頻度で衝突するものだからである。であれば、外国相手との議論を繰り広げるのであれば、手続きや法律、国際ルールを最大限に尊重し、つまらない価値観にはあまりこだわりを見せない方が良い。
最後は抽象的な終わり方で申し訳ないが、ジャーナリズムを自称得る方々には、「敵か味方か」を基準に物事を判断することの是非をもう一度考えてもらいたい。
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