けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

問われているのは「価値観」の正当性ではなく「手続き・プロセス」の正当性である

2014-02-05 23:07:07 | 政治
インターネットが普及して、私の様な一市民が簡単に世界に向かって発信できるようになった。これは当然ながら政治家にしても同様で、以前であれば情報発信が新聞社やテレビやラジオなどのメディアに独占されていたのが今は革命的に変革された状況である。子供の頃には名立たる報道機関たるもの、決して嘘はつかず、公平中立な報道をしているものと確信していたが、現実はそれとは相当乖離した状況にある。その様な状況を打開するために、ネット上での沈黙を破って日本維新の会共同代表の橋下大阪市長がツイッターを通して発信しはじめた。下記に示すサイトは、そのツイッターを読み易いようにブログ状にまとめたものである。2月3日からの情報発信を順番に読んで頂きたい。

BLOGOS 2014年2月3日「市長を辞職して出直し選挙をします。- 2014年2月3日のツイート
BLOGOS 2014年2月4日「そして都構想実現までいよいよ残りの階段は3段となった。 - 2014年2月4日のツイート
BLOGOS 2014年2月5日「事実については双方の言い分をきちんと聞くのが新聞の使命じゃないのか。 - 2014年2月5日のツイート

多分、これらの記事を全部読んで、論理的に彼に反論できる人はいないのではないだろうか?実際、慰安婦発言の時にも関西ローカルのテレビ大阪の「たかじんNOマネー」に出演し、たった一人で多数の反橋下論客の著名人を論破しまくり、最後の視聴者電話アンケートでは圧勝となる支持を得た。それぞれの主張をストレートにぶつけ合い、フェアな土俵の上で戦えば結果は明らかなのだが、そこにアンフェアな姑息な手段を投入することで、多くの視聴者・読者を欺くことが可能になる。今日2月5日のツイートはその点を一点集中的に突いているのだが、事の本質は昨日の2月4日のツイートにあると思う。それは、民主主義のあり方について言及している部分である。

いきなり出だしの部分から本質を突いている。ポイントは民主主義の「手続き」「プロセス」なのである。巷の報道機関では、橋下市長の行動を「独裁的」とか「ヒトラーの様な独裁者」と揶揄する。選挙で民意が示されたとき、常識的には何らかの決断をしなければならなければ多数決の論理が優先されるべきなのだが、自分の主張が選挙で負けたとなると「小数意見を無視するとは横暴だ!」と言う。では、「あなた方は多数意見を無視するのか?」と問えば返す言葉はないのだが、「選挙には幾つかの争点があったのだから、それらをごっちゃにして当選したら個別の全てに白紙委任状を託されたと解釈するのはおかしい」と開き直る。では、論点を単純化して「ワンイシュー」で戦おうとすると、「そんな小泉的な乱暴なやり方は許せない」という。しかし、その小泉元総理が「反原発」を半ばワンイシューに設定して細川元総理を都知事選に担ぎ上げると、その「ワンイシュー化」を責めたりはしない。この様な堂々巡りを生みながらも、何処にも議論を着地させられない理由は単純で、それは民主主義とは、「価値観」の正当性を戦わせることだと多くのメディアが勘違いしているからである。つまり、「価値観」の正当性の優劣を判断することが重要性なのではなく、多様化した「価値観」を相互に尊重しながら着地に導くための「手続き論を確立すること」が問題の本質なのである。多数決の原理ですら、ある種の価値観では「多数意見を優先する」であり、別の価値観では「少数意見でも尊重する」と解釈することが出来る。両者を両立するには「少数意見を尊重しながらも、多数意見を優先する」であるのだが、その尊重の程度を両者が満足するレベルに着地させるのは不可能に近い。相対立する価値観が何処までも交わることがないのであれば、その手続きが重要なのである。誰かひとりが反対したら全てが止まるという状況は市民、府民、国民にとって不幸であり、決めることのできる政治を実現することで市益、府益、国益が最大化されるなら、その決定できる手続き論を正しく機能させることが重要なのである。

では、今回の橋下市長がぶつかった壁において、その手続き論はどの様になっているのだろうか?
私も多くの報道番組やネット上の紙面を見て回ったが、その手続き論の何たるかを理解してコメントしている者は皆無だった。この点は、橋下市長のご指摘の通りである。では、多くのコメンテータは何処を理解していないのか?それは、今回、橋下市長がぶつかった壁とは「法定協議会」における区割り案の1案への集約なのであるが、この「法定協議会」の位置づけを有識者たる人々が理解していないのである。当然ながら、これらのブログを読むまで私も理解していなかった。しかし、2月3日のツイートを読めば意味が良く分かる。つまり、「法定協議会」とは大阪市民に対して大阪都構想の設計図を作るための協議会であり、その中で意見の集約を行う際に、その協議会の中での決定プロセスは法律で規定されていないのである。無難なところでは多数決で決めれば良いのだが、あくまでも設計図作りという事務的な作業であるのだから、行政サイドが提案を行い、協議会のメンバにはアドバイザ的に協力をしていただくという進め方も許容されているのである。法の下の支配という原理に従えば、あくまでも法律に則ってフェアかアンフェアかを判定されるべきだが、その評価の尺度である法律上の規定がない訳だから、どちらに転んでも両者が納得できない状況である。元々の法定協議会の位置づけを考えれば、行政サイドが主導権をとっても仕方がないのだが、行政サイドが事務的に作業を強引に進めれば後で何処かで「非民主的プロセスで強行した」と訴えられることになる。しかし、ここで「非民主的プロセスで強行した」とレッテルを貼られると、この先に大阪市議会での承認という法的に規定されたプロセスを乗り越えることができないから、最大限に「民主的プロセスを尊重した」と評価されるやり方で進めることが必須となる。橋下市長は法的に規定のない状況で、多くの大阪市民に「民主的プロセスを尊重した」と評価されるプロセスとして、そこに「選挙」という手段を導入した訳で、双方の話し合いで決着が付けられないのであればこの手続きは極めて妥当である。

そこで、この前提となる「双方の話し合いで決着が付けられない」という部分が問題であるのだが、その双方の話し合いのプロセスは通常は水面下で行うものだから、一般市民や普通のコメンテータには知ることが出来ない。2月5日のツイートでは、この双方の話し合いのプロセスがどの様な物であり、橋下市長が公明党にどの様に譲歩してきたかを明らかにしているが、逆に読売新聞は新聞という特殊なメディアでありながら、双方の言い分を取材せず、一方的に公明党の主張を垂れ流すことで「橋下市長は話し合いでの決着の努力が足りない」という誤解を大阪市民や国民に植え付けようとした。最近落ち目の日本維新の会だから、他党からしてみれば話し合いでの決着の努力など不要と考えるのは当然である。その様な中で、橋下市長に裏を取らないというのは悪意さえ感じるところである。報道機関が「民主的プロセス」をぶち壊す行動に関与したという事である。

あくまでも大阪市民は正しい情報がなければ正しい判断が出来ない。大手の報道機関が後ろ向きな行動を取る中で、インターネットというメディアを利用して、よりあるべき姿の民主主義のプロセスが実現されることを訴える。その中で、今回の選挙の論点に加えて「民主主義の何たるか」が語られている。

多分、「出る杭は打たれる」という文化の日本という国では、中々、彼のことをマスコミが評価するようになるのは大分先だろう。しかし、その様な時が何時かは来るのだと信じている。

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民主主義の王道を行け!

2014-02-04 00:03:29 | 政治
橋下大阪市長が辞任と出直し市長選出馬の意向を示し、記者会見を行った。産経新聞を読むと、その辺の熱い思いが伝わってくる。

産経新聞2014年2月3日
【橋下氏、松井氏会見ライブ(1)】ついに正式表明「僕は市長を辞めます!
【橋下氏、松井氏会見ライブ(2)】出直し市長選は「都構想の設計図作らせてもらうため」
【橋下氏、松井氏会見ライブ(3)】「住民の後押し得て、議会の意思を超える」
【橋下氏、松井氏会見ライブ(4)】他党を挑発「反対なら、選挙で首を取れ」
【橋下氏、松井氏会見ライブ(5)】「日本では選挙を軽く考えている」
【橋下氏、松井氏会見ライブ(6)】「公明は人の道に反した。絶対に許せない」

久しぶりに橋下節炸裂といった感じで、多くの報道陣が集まったようだ。勿論、コメンテータたちは橋下市長に注目が集まること自体が不愉快だから、色々な形で選挙に討って出ること自体の正当性を否定するような発言が多いようだ。その為、あたかもここで大阪都構想の是非を選挙で問うかの様に解説しているようだが、これらの会見内容を読むと、それは大きな間違いであるという橋下市長の主張が良く分かる。ポイントは、大阪都構想の是非を問うのであれば、それは都構想の全体像を示した上で、賛成/反対の綺麗な2者択一の議論に絞り込んで住民投票を行うのがスジである。だから、市民が明確に意思表示を行うためには、その住民投票を問うのに必要な情報を整理するところまでは推進するのが行政と議会の責任であり、現在の状況は議会側がこれをサボタージュする戦略に討って出ているので、この態度を是正するためにはここで民意を示すことが最良の方法だとしている。

勿論、正直なところ日本維新の会は既に以前の「飛ぶ鳥を落とす勢い」など微塵もなく、先の衆院選で候補者を立てずに選挙協力までした公明党にまで公然と裏切られる状況である。どう見ても完全な逆境で、国会内の東西対立、東京都知事選でのドタバタぶり、石原共同代表の辞任示唆など、見るからに泥舟そのものである。そんな中で、橋下大阪市長は共同代表でありながら実質的には大阪都構想に集中せざるを得ず、大好きなツイッターでのつぶやきも早々にして全力で都構想にまっしぐらである。しかし、議会には多数を握られ、如何ともし難い状況である。

この状況に引き込んだ最大の原因は、橋下市長の慰安婦発言であることは間違いない。あの時から、急に維新の会の熱が冷めたのが手に取るように分かった。しかし、冷静に考えてみれば、この辺に民主主義の本質が逆説的ではあるが反映されていると思った。

昨日のブログでも触れたのであるが、ある種の政治家や報道機関は自らの主張を押し通すために、国民に対して真実を客観的に知らしめるための情報発信を行う代わりに、意図的に情報を捻じ曲げたり、誰かの発言の一部分を切り出して、その切り出された発言という「事実」を利用して、その背景にある発言の意図という「真実」を恣意的に捻じ曲げ、結果として多くの市民に誤った判断を導くミスリード戦略を頻繁に行っている。これは紛れもない事実である。橋下市長の慰安婦発言にしても、明らかに本人の発言全体の文脈から伝わる本意とは異なる、「ああは言っているけど、本音はきっとこうだ!」的なレッテル張りで議論を断ち切ろうとしている。ガブリ四つの議論を吹っかけてくるのなら良心的だが、ゲリラ戦で「デマゴーグ」を振りかざして勝負してくるのだから性質が悪い。

だから、今回の橋下市長の決断の意図は、多分、以下の様に整理できるのだと思う。

ひとつには、「真実」を大阪市民に正確に伝えるための手段として、選挙というアプローチを選んだということである。都構想に反対する既得権益の保有者(ないしは改革と言うものを生理的に受け入れることが出来ない人々)は、ありとあらゆる方法でその阻止を図ろうとする。2年前の大阪ダブル選挙の際に、4年の任期で大阪都構想を完成させるという公約だったから、牛歩戦術的に遅延戦略に出れば結果的に構想を廃案に近づけることができる。だから、先の選挙の公約に示したスケジュール感での進展を阻害し、ズルズルと時間切れを目指す勢力がいる。建前上は「議論しましょう」と言いながら、実際は間逆の向きを向いているのである。この様な事態を大阪市民に強く訴えることが今回の目的であり、その意味では狙い通りの効果を得ているのではないかと感じている。

もうひとつのポイントは、民主主義にはコストがかかることを市民に伝えるということである。ここでの「コスト」にはふたつの意味がある。出直し市長選に要するコストは5~6億円らしい。これは税金から捻出されるので明らかにコストである。しかし、大阪府/大阪市の行政の2重化に伴うコスト削減のためには、選挙のコストは「大阪市民が払うべきコスト」として自覚してもらうというアピールが裏にある。そして、民主主義とは手続きが必要で、その手続きがあるからこそ独裁者の暴走を食い止めることができる。しかし、それは時として逆の改革のブレーキにも働き、既得権益などの反改革派の人達が現状維持のための武器として活用することができる。この様な手続きは非常にまどろっこしいが、しかし、民主主義社会を選択した我々はこのコストを払わなければ前には進まないという「決断」をしてきたのである。それは橋下市長にとっては高い高いコストだが、そのコスト自体を否定しているのではなく、そのコストに真っ向からがぶり四つで立ち向かうことこそが民主主義なのである。

さて、この様な民主主義の根幹にかかわる部分について一石を投じた橋下市長であるが、この石を受け止めるべき他党の取り組みはどうだろうか?報道によれば、誰一人、橋下市長の投げた石を正面から受け止める者はいないらしい。どうせ負けるのが見えているからである。橋下市長は負ければ身を引くと宣言しているから背水の陣である。しかし、その覚悟を持つ人は対立勢力にはいない。極めて理解に苦しむ状況である。

おりしも、中国・韓国からの言われの無い歴史攻撃にウンザリした人々にしてみれば、橋下市長の過去の慰安婦発言は的を得たものであると分かるはずである。だから、今となっては慰安婦発言を理由に橋下市長を攻撃しても殆ど効果はない。というか、敵に塩を送るような効果にもなりかねない。

ならば、無投票で再選が決まり、選挙費用のコストが無駄にならないかと言えば、多分、そうはならないだろう。今回の東京都知事選でも多くの候補者が現れた。その候補者の多くは多数の主役の影に埋もれて陽が当たることはない。しかし、それでも世に自らの名を知らしめたい、(それが高尚か否かは別として)政治信条を訴えたいという人は意外に多くいたという事である。だから、日本維新の会以外の既存政党から候補者が出なければ、そこで選挙に立候補した人は仮に知名度が皆無の人であってもその注目度は東京都知事選の比ではない。結局、何名かの立候補がみられ、選挙のコストは避けられないのだろう。そして、記録的な得票率で橋下市長は大勝することになる。その時、既存政党の議員たちはどの様に振舞うのだろうか?

良くも悪くも、橋下市長は民主主義の何たるかを熟知しているようだ。何年か後、民主主義の教科書に彼の一挙手一投足が掲載される時代が来るのかも知れない。

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民主主義の必須条件を蝕む「デマゴーグ」を断ち切れ

2014-02-03 00:45:16 | 政治
今日もまた、頂いたコメントへの返信になって申し訳ないですが、NHKの籾井会長の発言と絡めてコメントを書かせて頂く。

まずコメントの一部を引用させて頂く。一部の切り抜きで申し訳ないが、興味があれば全文を読んで頂きたい。
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企業で働くサラリーマン、農家のおじいちゃん、商店のおばちゃん、そして、TV局のスタッフ、新聞記者等が国、そのものなのである。国が悪い=自分が悪いといっているのと同じなのを勘違いし、問題が起こると他人事みたいに傍観者を決め込み、建設的意見も出さずに何でも国が悪いと批判だけしている人が多いのではないだろうか?国の構成要素である国民が各自で真剣に国の運営を考え、多様な思想、意見を互いに尊重しながら自由に討議して少しでも良い国を作ろうと尽力する…これが民主主義が有効に働く必須条件。
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特に、「国の構成要素である国民が各自で真剣に国の運営を考え、多様な思想、意見を互いに尊重しながら自由に討議して少しでも良い国を作ろうと尽力する…」、この部分がポイントなのだと思う。この言葉を胸にして、NHKの籾井会長の発言を読んでみると、大分、報道での扱われ方との乖離があることに気付く。NHKの籾井会長の発言の文字お越しは色々あると思うが、例えば下記のサイトを見て欲しい。

Weemo「NHK会長記者会見 2014年1月25日午後

実は、1月31日に行われた衆議院予算委員会での民主党の原口一博氏による質疑の映像をネット上で探し、そちらの方も見ながらのコメントである。また、多くのメディアでも叩かれているが、その叩き方が何とも恣意的である。一応断っておくと、原口氏はある種のマナーを守り、籾井会長が私的感想と断りを付けて発言した部分である慰安婦関連の発言などは非難していない。だからその点はまともである。しかし、原口氏の視点は放送法に照らして籾井会長の考え方は問題があると指摘している。

例えば、最初に指摘された点は、籾井会長の「じゃあ政府が右、といっているものを我々が左、というわけにはいかないと・・・」という発言である。これは、この部分を切り出すと何となく「政府が言う事に是々非々で臨み、国民の間に様々な意見があるとすればそれを併記するのが報道に課せられた、そして放送法の規定そのものではないか」という批判に対して反論の余地がないように見える。しかし、文脈の中でこの部分を理解すると全く別の結論になることを、原口氏を始め報道関係者は理解できないほどの国語力のなさなのだろうか?原口氏は、委員会質問に当たり、籾井会長の発言の全文を読んだとのことだが、本当に読んでいたのかと問いたくなる発言である。

この発言の文脈は、国際放送に限定した話であって、しかも、国際放送の中で尖閣や竹島などの領土問題をどの様に放送するかについて、続けて発言しているのである。つまり、行間を補って理解すれば下記の様な意味になる。「()」でくくった部分が私の作文だから、違うと感じる人もいるかも知れないが、少なくとも籾井会長に問い合わせれば同意してくれると思う。曰く、

「国際放送につきましてはですね、これはやっぱり多少国内(問題に関する報道)とは(扱い方が)違うのではないか、というふうに思います。例えば尖閣、竹島、こういう領土問題については、(国毎に全く違った極めて主観的な主張に沿っての対立が背景にある訳で、そのどちらが正しいのかを議論するなら国際司法裁判所にでも行ってもらわねば、絶対的な答えがある訳ではない。一方で、放送法第4条に規定する「政治的な公平性」にしても、これらの島々の領有権に対しては政治的に対立がある訳ではなく、あくまでも日本の領有権を前提とした上で、他国との間でどの様に調整するか、その点にのみ政治的な対立が残っていると認識している。したがって、1%に満たない特異な意見はあるかも知れないが、概ね日本国民の総意としての領有権の主張はコンセンサスが得られていると考えられるので)明確にやはり日本の立場を、主張する。と、いうことは、当然のことだと思います。えー……、それで“時には政府のいうことを”とおっしゃいますけれど、そういうこともあるでしょう。じゃあ政府が右(すなわち日本固有の領土である)、といっているものを我々が左(様々な国々が領有権を主張し、誰が正しいかは全く分からない)、というわけにはいかないと。(国内放送ではないのだから)国際放送についてはそういうニュアンスもあると思います。やはり外交も絡む問題ですから、(一介の報道機関が日本国の命運を左右する様な誤ったメッセージを世界に発信し)やはり俺はこう思うんだといって、勝手に、というかね、そういう明後日のことを言うわけにもいきませんし、まず、領土問題についてはおそらく齟齬はないと思いますね。」

この文脈の中で読んで、この発言が問題あるとはとてもではないが私には理解できない。
また、特定機密保護法案についてもしかりである。記者は、NHKが特定秘密保護法案について、NHKスペシャルやクローズアップ現代などで取り上げて、民法が総出で取り組んだ一大ネガティブキャンペーンにNHKの看板番組が参戦しなかったことに不満の様で、その番組名を具体的に上げながら、法案が成立した以降も引き続きネガティブキャンペーンへのNHKからの援護射撃を求める形で質問している。この時点で、民主主義の基本原理をすっとばして、何処まで行っても法案をより良い形に変えていく議論ではなく、法案の抹殺を目指しているのである。極めて後ろ向きである。さて、その会話についても下記の様な感じだろうか?

「まあ……、(法案が成立するまでの間は、成立か不成立かで是々非々を戦わせる議論を報道で扱うのは良いのだが)一応通っちゃったんでですね。もう言ってもしょうがない(というか、法案の必要性・趣旨は認めた上で、では運用を如何にすれば国民にとって有益になるかと言う議論をすべきであって、今からちゃぶ台をひっくり返す努力は無駄だ)と思うんですけども。まあ……、ちょっと……僕なりに個人的な意見はないことはないんですが、これはちょっと、(先ほども揚げ足を取られて酷い目にあったので)あまりにも、あれなんで、ちょっと差し控えさせていただければと思いますが」
・・・中略・・・
「秘密保護法のことについてはですね、(民法がこぞって行っているような反対意見ばかりではなく、問題の整理を論理的に行っている人の中には少なくとも法案の必要性を強く訴えている人は山ほどいる訳で)それはいろんな意見もあるでしょうし、それについて政府に、我々は、あの、真逆のことを言わないんだっていう、そんなことを言ってるつもりはないですし、それはそれで、それなりに意見があってよろしいんじゃないでしょうかと思いますけれど、そのー……、政府の人なんかにたぶん言わすと、じゃあ賛成があったっていいんじゃないか、なんでメディアは反対ばっかりするんだっていう、ことだってありますしね。(逆にあなた方に問いたいのは、あれだけ一大ネガティブキャンペーンを張っておきながら、世論調査で見れば、無茶苦茶、圧倒的な結果にはなっていないじゃないですか?もう少し、賛成側の、法案の必要性を訴える方々を丁寧に扱うというのも、放送法に求められるものじゃないですか?放送法はNHKだけを縛るものではないですよ)ただまああの、我々は政府とはピシッと距離をおいてやると。それは何かっていうと、放送法であります。それに沿ってやればですね、政府の言いなりとか、そういうことにはならないというのが、(この記者会見の冒頭でも繰り返し繰り返し私が最重要項目に掲げた)私の思いでございます。」

どうしても、自民党政権の国民からの支持を断ち切りたい勢力、ないしは日本の国力を貶めたい勢力からすると、この様な発言の隅々の言葉尻を捉えて、現状の安倍政権の転覆に繋げていきたいと考える人がいる。確かに、その切り取られた部分だけを聞けば、その主張に思わず納得してしまいそうである。多くの国民は、その様な発言の全文を読んだりしないから、その様な罠を仕掛けても気づかれることはない。しかし、その様な取り組みに対して間違いを指摘し、一人一人が正しい情報の元で是々非々の判断ができる環境があれば、民主主義の必須条件である「多様な思想、意見を互いに尊重しながら自由に討議して少しでも良い国を作ろうと尽力する」ことに繋がるのではないかと思う。

麻生副総理のナチス発言もそうだが、野党の政治家や報道機関は「デマゴーグ」という禁じ手を使わないというのは幻想である。日本の近隣諸国が「デマゴーグ」を駆使して戦いを挑んでくる中で、少なくとも国内でこの様な「デマゴーグ」は許してはならない。国民はそれが「デマゴーグ」であるという判断ができるだけの十分な情報を与えられるべきである。

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民主主義のコストは誰が払うのか?

2014-02-01 01:04:46 | 政治
昨日のブログにコメントを頂いたので、今日はそのコメントを膨らましてブログを書いてみたい。

まずコメントに関しては全くもって賛成の一言で、その中でも「なるほど」と思ったのが、年金や税金などの管理における「マイナンバー(国民総背番号)制」的な制度の導入に関するご指摘である。既に導入が決定しているマイナンバー制度はこれまでも長い間議論があった訳で、誰もがその様な制度の必要性を熟知しながら、国家が国民を管理することには反対と言って導入が長い間見送られてきた。消えた年金などの問題は、今となって思い起こせばこの様な制度が早くに導入されていれば、かなり被害は縮小できたはずだが、その様な反省がマスコミにないことはご指摘の通り・・・。

ここで思ったことは「民主主義のコスト」という言葉である。所謂「民主主義のコスト」とは、例えば賢明な王様が君臨する国であれば、トップダウンであらゆることがスピーディーに解決できるのに、民主主義の場合には多数決的な国民のコンセンサスをまとめ上げないと先に進めない訳で、どうしても非効率になりがちなことを言う。言い方を変えれば、例えば車で何処かに行く場合、アクセルを踏んで速やかに目的地に辿り着きたいところなのに、民主主義の場合には2重、3重にもブレーキのメカニズムが働いてしまい、車の性能を活かして快適なドライブなどできないようなものである。しかし、それはいつ暴走するか分からない車である可能性があれば致し方ないわけで、その様な手続きを明確に規定することが重要なのである。だから、中国の様な国と張り合うことを考えると、国民にとってどれだけ負担となる無茶なことでも平気で簡単に決断できる中国に対し、日本をはじめとする欧米諸国は相当なハンディキャップを負っているのである。しかし、それでも我々はその民主主義のコストを払い続けることを選択的に選んでいるのである。

ではここで、このコストを払うのは誰かということを考えてみたい。多くの人は、「それは国家が払えば良いこと」と思いがちかも知れないが、実際にはそんなわけはない。勿論、国家がコストを払うことで何らかの損失を被ったとすれば、それは国民にも跳ね返ってくるのだが、ここで言いたいのはその様な話ではない。例えば、個人情報保護法という法律が通り、確かに民主主義の国ではこの様な法律が必要だなと思ったのだが、法案成立後は一般の国民の生活に相当な不自由が現れた。まず、子供の学級名簿などの住所、電話番号が記載された冊子が配布されなくなった。学校側に誰かに緊急で連絡を取りたいと言っても、学校は電話番号を教えてくれない。一例として、子供が遊んでいる時に友人に怪我をさせてしまったとして、その話を親が知っても(以前より、その子の家の電話番号を知っていない限り)その子の家に電話で謝罪することが出来ない。先生を介して伝言ゲームで謝罪するか、先生の方から相手の親御さんに「電話番号を伝えることの了承」を得てもらい、その結果としてやっと電話が出来るようになる。同様のことは、例えば知り合いが病院に入院し、その病院の部屋番号を受付で聞こうとしても、必ずしも教えてもらえるとは限らない。この様に、民主主義の中で個人の権利の尊重を重要視するあまり、そこら中にブレーキシステムが設定され、そのブレーキを順番に解除しまくらないと中々前に進めなくなるのである。しかし、これもある意味の民主主義のコストであり、民主主義を標榜する我々としては直接そのコストを払わなければならないのである。

であるならば、マイナンバー制の様な制度についても、不快や不自由さを感じるとしても、それは民主主義のコストとして捕えなければならないと啓蒙すべきなのかも知れない。そして、そこに問題があるのであれば、民主主義のコストを払わないという形で問題を回避するのではなく、国家が不当に個人の情報を管理できない様に別のアプローチでブレーキを設定すれば良いだけのことである。実際、クレジットカードの利用歴という極めて高度な個人情報を、クレジットカードの便利さを享受するためのコストとしてクレジットカード会社に支払う(情報を握られる)ことに躊躇する人はいない。人々は、メリットに対するコストを対価として払うことに対しては肝要だが、その払う相手が国家だと途端に不寛容になったりする。

以前、色々なブログをネットサーフィンしていた時、消費税導入に関連してマイナンバー制度を導入することに反対していた人がいて、その人の反対の理由は「現在の消費税のシステムでは、小規模事業者は納税の義務がなく、その結果として商品の価格に上乗せした消費税部分が収益となり、やっとお店の方がやりくりできている状況なのに、隅々まで経済活動がガラス張りになると、折角のお金を消費税として納税しなければならないからマイナンバー制度には反対」という様なことだった。この様な人はあくまでも特殊なのは理解するが、相手が国家だとコストなんて払わずに済ませてしまおうという気持ちになりがちである。そしてこの様な制度の導入に反対してきたような人々は、ほとんどの場合において高尚で論理的な理由があるのではなく、「好きか嫌いか」的な感性での反対が多い。万能な解決策がないなら、様々な制度を組み合わせて最適化を図れば良いのであって、短絡的な「コスト支払いの拒否」の議論は厳禁である。

上記の例はマイナンバー制を例に取った話であるが、同様の議論はその他にも成り立つ。あらためて民主主義のコストを見直し、我々は「そのコストは自らも払うものだ」という自覚も必要なのかも知れない。昨日のコメントを読んで、そんな風に感じた。

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