けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

求められるのは、座布団100枚のウイットが効いた突っ込み?

2014-02-26 01:07:15 | 政治
先日、ウォール・ストリート・ジャーナル紙が本田悦朗内閣官房参与に対してインタビューした記事について簡単に触れたが、その中で本田氏が神風特攻隊に関する話題に言及した部分があった。ここの記事は「敵か味方か」を先に決めて書いた様な記事だから、あまりそれを取り上げても意味はないのだが、ここ最近、この神風特攻隊に関連した話が続いたので、そこを切り口に幾つか思ったことを書かせて頂く。

例えば昨日のブログで紹介した「荻上チキSession22」の放送の中でもアメリカからの報告として触れられていたのだが、安倍総理の靖国参拝の中で(私は確認していないが)神風特攻隊の話題が出ていて、アメリカ国内には靖国参拝を「神風特攻隊などの、戦時中の体制を美化している象徴」と捉える向きがあり、その思想の中心に靖国神社が位置しているという理解のされ方を一部ではしているという。それから少し話は古くなるが、鹿児島県の知覧という場所にある知覧特攻平和会館に保存されている「知覧からの手紙(知覧特攻遺書)」をユネスコ世界記憶遺産に登録しようという動きがあり、中国政府がこれに猛烈に噛みついたというニュースもあった。この知覧という場所は神風特攻隊の基地があったことで有名な場所で、ここから南方の戦場に片道分の燃料を積んだ戦闘機で神風特攻を仕掛けた隊員たちが、死を前に家族に綴った手紙・遺書が多数保存されている。

実は私はこの地を訪ねたことがある。

まだ20代の頃であったが、正直、広島の原爆平和記念資料館を訪れた時よりも何倍ものインパクトがあった。一部には戦闘機などの展示もあるが、この特攻平和会館の展示の主役は明らかに多数の遺書なのである。それほど大きな部屋ではなかったと思うが、多数並んでいた遺書を端々から順番に読んでいったのを覚えている。話を聞いただけではピンとこないだろうが、これまでに読んだどんな文学小説よりも深く深く心を打たれた。止めどなく涙があふれ出てくるのを隠すことなく、次から次へとその遺書の数々を読んだ。中には、強がりだけが目立つ遺書もない訳ではないが、そこにある遺書の殆どは「死にたくない、大切な家族と共に生き続けたい」という気持ちが見え隠れしながらも、書面上ではその様なそぶりを見せず、しかし残される家族のことを心から心配し、精一杯の気持ちで「俺の分まで生きてくれ」と訴えるようなものであった。それらの遺書はどう見ても「二度と戦争など起こしてはいけない」と訴えるものであり、不戦の誓いを新たにするのにはこれに勝るものはないというものであった。相対的に比較するものではないが、広島の原爆平和記念資料館は有無を言わさず殺された人々の悲惨さを訴えるものであるが、知覧の方は死にたくないのに自ら死にに行かなければならない無念さが伝わってくる。変な言い方だが、原爆の悲惨さは「戦争は嫌!」という生理的嫌悪感の様な感情で平和に繋がるのだが、遺書から伝わる無念さは「(強い意志として)戦争を繰り返すまい!」という信念を呼び起こす。少なくとも日本人の感覚、ないしは知覧特攻平和会館を訪れたことがある者にとっての感覚では、不戦の誓いを呼び起こすきっかけとして、知覧特攻平和会館であったり神風特攻隊で死んでいった者たちの霊を弔うことは、決してネガティブな捉え方をされるものではないと確信する。

しかし、実際にはやはりネガティブに捉えられてしまうケースが多いのが現実である。中国や韓国が茶々を入れるのはお約束として、アメリカ人がその様に感じる理由を少し考えてみた。元々、欧米人は論理的な思考を重要視するから、特攻という形で死を選ぶ日本人の感覚はアメリカ人には理解できず、それ故に不気味な行動として特攻を恐れていた部分はあるだろう。少しうがった見方をすれば、誰もが「戦争で死にたくない」という気持ちでいるから、仮に戦争が起きても双方が玉砕する前に何処かで歯止めが効くと信じている部分があるが、自殺することを厭わないとなると戦争がエンドレスに続き、玉砕に至るまで戦争を止められないことになる。だから、特攻の様な考え方は絶対的に否定されて然るべきだと考えるのかも知れない。戦争における殺人行為も戦争のルールの上では国際法上、合法な行為である。その様なルールの上で戦争を定義しようとしても、その枠からはみ出る行為として特攻が位置付けられていると言っても良い。

実はアメリカ人にとって9.11は、まさにイスラム諸国からの神風特攻隊と見ることもできる。戦争のルールでは、兵士は軍服の着用が前提となり、軍服を着用しなければ兵士と見なされずに単なるゲリラと見なされ、ジュネーブ条約上でもゲリラは捕虜の様な様々な権利を保証されず、少なくとも第2次世界大戦当時であれば裁判を経ずにその場で殺害されても文句を言えなかった。9.11で旅客機でWTCビルに突っ込んだテロリストは、アメリカ人にとっては日本の神風特攻隊に通じるものがあり、神風特攻隊の肯定はイスラム諸国のテロリストの肯定に繋がると肌で感じるのかも知れない。その様に考えれば、知覧特攻平和会館であったり神風特攻隊で死んでいった兵士のことをネガティブに捉えざるを得ないのかも知れない。
しかし、この様に考えてくると更に疑問が湧いてくる。日本の初代総理大臣伊藤博文を暗殺した韓国の安重根はまさにテロリストである。テロリストは無条件で認めないと言うのであれば、韓国の主張について「ちょっと待てよ!」と言ってもおかしくはないのにそうはなっていない。まあ、アメリカ人は単に興味がなかっただけなのかも知れないが、だからこそ私は過去のブログで「キャロライン・ケネディ大使に安重根は『英雄』か聞いてみよう!」と訴えさせて頂いた。この私の主張は「品がない」とお叱りのコメントも頂いたが、最近のキャロライン・ケネディ大使の話題としては、日本のイルカ漁を「非人道的」と非難したところ、沖縄県民から「辺野古の埋め立てによりジュゴンが死に追いやられてしまう。イルカは駄目でも、ジュゴンは死んでも良いのですか?」と疑問をぶつけられた。私の知る限りでは、この質問に対してキャロライン・ケネディ大使からの返事はないようだ。

このことからも分かるのだが、善悪であったり価値観というものは、論理的にも首尾一貫しているものではなく、その時その時のご都合主義で右にも左にもぶれたりするものである。しかし、実際にはぶれているのかも知れないが、周りに同様にぶれた人がいる場合には、その人たちと結託して「我こそは正義」というデカい顔をすることが可能になる。理屈や価値観でそれに反論してもあまり意味はない。ただ、所々で「あんたたち、矛盾してるよ!」とツッコミを入れることは意味があることのようだ。

私は辺野古移設賛成派だが、「イルカは駄目で、ジュゴンはいいのか!」というツッコミは座布団100枚に相当するウイットが効いたコメントだと思った。同様に、韓国の日本海と東海の併記の主張に対し、「日本海と呼んだのは日本人じゃない。世界がそう呼んだんだ!しかも、日本が韓国を併合するよりずっと前の19世紀だ!」という外務省のツッコミも座布団100枚だと思う。中々、正面からガチンコでぶつかると返り血が大きいのだが、欧米人から「上手い!座布団100枚!」と言われるようなツッコミがもっと出来るようになると、状況は好転するのかも知れない。中々難しい話ではあるが。。。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます