けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

インドネシアとシンガポールの歴史認識問題から世界のルール作りを考える

2014-02-15 23:24:44 | 政治
日本にやっと金メダルがもたらされた。重圧をはねのけて金メダルを獲得した若き世界のエース、羽生結弦の頑張りを純粋に祝福したい。実は思わずLiveで観戦してしまったが、素人目には氷面が荒れて、パトリック・チャンにしても実力を出し切れずに双方が痛み分けをし、ショートプログラムでの得点差がそのまま最終結果に繋がったように思えた。昨日の演技を除けば、最近の彼のしなやかで品のある、流れるような演技は見ていて気持ちが良い。4回転ジャンプを決めた後の「自然な流れ」の中でのガッツポーズは、如何にも王者の風格である。その様な演技を出しきれなかったのが氷上のコンディションだとすれば少々残念だが、しかし結果が全てのスポーツの世界できっちりと結果を出した精神力は流石である。

と、関係ない話から入らせて頂いたが、以下が本題である。物事を客観的に議論するための良い例となる記事を見つけたので紹介したい。以前、安重根がテロリストか英雄かをキャロライン・ケネディ大使に質問して見ては・・・?というブログを書いて「品がない!」とお叱りのコメントを頂いた。個人的には、この問題は日本と韓国・中国との間のローカルな問題と決めつけるから話がややこしくなり、もっと一般化して議論をすべきだと思っている。その様な議論を起こすための手段として、ケネディ大使に質問をぶつけるというのは好都合だと思っていたのだが、その質問することの是非は横に置いておいて、もう少し頭を冷やして冷静に考え直すのも良いのかも知れないと感じた。下記の記事がそのきっかけとなった記事である。

産気新聞2014年2月14日「『歴史認識で対立』緊張高まるインドネシアとシンガポール

事態は極めて安重根問題と酷似しており、最近、インドネシアが新しい艦船に付けた名前が、シンガポールで爆弾テロを起こしたとして処刑された、インドネシア国軍兵士の名前から取ったものだったということで、両国の間の歴史問題が再燃した形である。インドネシアからすると、1965年当時、英国主導による「大マレーシア構想」にスカルノ大統領が強く反発し、こうした構想を推し進める「英国の傀儡」とみなしてシンガポールに爆弾テロを実行した二人を長いこと英雄扱いとしてきた。しかし、シンガポールからすれば単なるテロリストであることは間違いない。新聞では某大学の准教授の発言として「シンガポールからはテロでも、インドネシア側からみれば英雄だ。どの国も異なる歴史の解釈を持っている。問題は2国間でうまく管理できるかだ」と言う言葉を引用し、ある意味で双方が双方を尊重して関係を管理することを説いている。しかし、冷静に考えれば、既に艦船に命名した後で名前の変更をすることは有り得ないので、相手側からすれば抗議をせざるを得ない。その抗議を受け入れるという事は命名を撤回することになるから有り得ないし、撤回しなければ抗議を黙殺することになるからやられた側からすれば「やられっぱなし」ということになる。となると、やられっぱなしで矛を収めるとなると、「やったもん勝ち」の構図が浮かび上がってしまう。つまり、「問題は2国間でうまく管理できるかだ」という言葉の具体的な意味が重要であり、そこに言及しないでお茶を濁すのは日本の有識者にありがちな「高みの見物をしながら、無責任な正論を吐く」ことに近い。

さて、この様な問題の起こる背景には、偏狭なナショナリズムが国内に渦巻く環境で、その世論に乗っかって政府が火遊びをすることを国民が許していることがある。これは何処の国でもあることで、その様な行動に対して何ら国際的なルールが確立していないことが問題である。ここでのルールとは、その様な行動に対して国際社会が「No!」と言うべきか、それとも「黙認する」べきかなどのルールである。少なくとも、アメリカからすれば世界中の至る国から(発端はアメリカの善意であったかも知れないが)憎まれる構図があり、たまたま、現在のアメリカはその問題の当事者にはなっていないが、潜在的には物凄い勢いでその様な歴史問題を世界中から吹っ掛けられる可能性を秘めている。
この手の問題に何らかのルールを導入する場合、一番大事なのはそのルールを決める過程において、その時点で問題の当事者がルール作りに介在しないというのが重要である。幸いなことに、現時点ではまだその当事者とはなっていないアメリカは、かろうじてこの問題のルールメーカになれる存在である。その他にも、フランスなどの国など、ルール作りに適した国があるならそれらの国が中心となれば良い。そして、そこに何らかのルールを決めて世界に発信するのである。

そのルールの有り得そうな選択肢をあげてみよう。

一つには、偏狭なナショナリズムの台頭の芽を摘むために、例えばテロや暗殺などの犯罪行為を犯した者に関しては少なくとも、慎むべき行為を規定しておき、その規定を破った場合には国際的な非難の対象とするという合意を形成することが考えられる。問題はこの慎むべき行為の範囲であるが、国内的な歴史認識はどの様に持っても仕方がないが、少なくとも外国にまでその認識の同調を求めるような行為などは禁止行為の対象だろう。また、国内に石碑や銅像、記念館などを作るのは良いとしても、国家元首(皇室や大統領・首相など)などがその様な場所を訪れるのは許されないだろう。この辺は国家の品格の問題と言える。問題は、艦船へのネーミングなどであるが、通常、この様なネーミングは国家としての誇り高き存在を国内外に示す意味を持つから、私としては禁止事項に該当して然るべきだと思う。他にも、紙幣の図案への採用も同様だろう。

しかし、ここまで行くと国家ごとに個別に行って然るべき歴史の解釈に外部が踏み込むことになるから、当然ながらもっと控えめな選択肢があっても良いと思う。それは、例えば単純で、例えばシンガポールとインドネシアの例を引き合いに出せば、「やったもん勝ち」を許さないためにやられたシンガポールの「遺憾の意」を世界が認めるという扱い方である。この「世界」には他方の当事国も含まれる。すなわち、インドネシアが自国の艦船にテロリストの名前を命名したとして、シンガポールによる「遺憾の意」をインドネシアが尊重するのである。つまり、インドネシア政府の立場として、「シンガポールが『遺憾の意』を示したことは尊重する。その点については反論しないし、その様な歴史認識は認められて然るべきである。ただ、我が国(インドネシア)の歴史解釈は異なるものであり、今回の件はその解釈が異なることで起きた悲しい事態である。だから、今後は過剰にこの問題を誇張して挑発することを慎むと共に、この問題がこれ以上拗れることの無いように最大限の努力をする。」と表明し、シンガポール政府は「インドネシアが我が国(シンガポール)の遺憾の意の正当性を認めたことを評価する。艦船の命名が遺憾であることには今後も変わりないが、この問題がこれ以上拗れることが無いように、この問題に関しては遺憾の意の表明以上の対抗措置は控えることとする。」と表明するのである。相互に自己主張をしながらも、相互に相手の主張を尊重するのである。この相互に尊重し合うための最低限のマナーとして、第3国を巻き込まないというのは当然のルールでもある。

この様なあるべき姿を国際間のマナーとしてルール作りし、そのルールに照らし合わせてこの手の問題に国際社会が明確な意思表明をするのである。それを世界に発信するとすれば、現在の手続き論的にはロビー活動の中心地であるアメリカが主導的になるのが良い。そして、あまりに政権の中枢で「アメリカの損得」を秤にかけたかのような人が発信しても説得力はない。丁度、これらの歴史問題が起きている東アジア地域に縁があることを考えれば、やはりケネディ大使は適任だろう。彼女の様な人がその発信力を活かし、その発言から世界中での議論が高まり、その結果として良識ある合意に導ければそれは好ましい。仮に、この議論が発散して収束しなかったとすれば、それは逆の意味として「中国・韓国の言い分もあまりに主観的な主張で、国際社会はその様な一方的な言い分をそのまま受け入れることはない。つまり、日本の言い分にもそれなりの妥当性を見出すことが出来る。」という認識が多くの国の中にあることを意味する。

いずれにしても、この手の議論は今後は一気に噴出してくる可能性がある。その前に、問題解決のための手続き・ルールを確立することは世界にとって喫緊の重要課題と言って良いだろう。

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