けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

民主主義のコストは誰が払うのか?

2014-02-01 01:04:46 | 政治
昨日のブログにコメントを頂いたので、今日はそのコメントを膨らましてブログを書いてみたい。

まずコメントに関しては全くもって賛成の一言で、その中でも「なるほど」と思ったのが、年金や税金などの管理における「マイナンバー(国民総背番号)制」的な制度の導入に関するご指摘である。既に導入が決定しているマイナンバー制度はこれまでも長い間議論があった訳で、誰もがその様な制度の必要性を熟知しながら、国家が国民を管理することには反対と言って導入が長い間見送られてきた。消えた年金などの問題は、今となって思い起こせばこの様な制度が早くに導入されていれば、かなり被害は縮小できたはずだが、その様な反省がマスコミにないことはご指摘の通り・・・。

ここで思ったことは「民主主義のコスト」という言葉である。所謂「民主主義のコスト」とは、例えば賢明な王様が君臨する国であれば、トップダウンであらゆることがスピーディーに解決できるのに、民主主義の場合には多数決的な国民のコンセンサスをまとめ上げないと先に進めない訳で、どうしても非効率になりがちなことを言う。言い方を変えれば、例えば車で何処かに行く場合、アクセルを踏んで速やかに目的地に辿り着きたいところなのに、民主主義の場合には2重、3重にもブレーキのメカニズムが働いてしまい、車の性能を活かして快適なドライブなどできないようなものである。しかし、それはいつ暴走するか分からない車である可能性があれば致し方ないわけで、その様な手続きを明確に規定することが重要なのである。だから、中国の様な国と張り合うことを考えると、国民にとってどれだけ負担となる無茶なことでも平気で簡単に決断できる中国に対し、日本をはじめとする欧米諸国は相当なハンディキャップを負っているのである。しかし、それでも我々はその民主主義のコストを払い続けることを選択的に選んでいるのである。

ではここで、このコストを払うのは誰かということを考えてみたい。多くの人は、「それは国家が払えば良いこと」と思いがちかも知れないが、実際にはそんなわけはない。勿論、国家がコストを払うことで何らかの損失を被ったとすれば、それは国民にも跳ね返ってくるのだが、ここで言いたいのはその様な話ではない。例えば、個人情報保護法という法律が通り、確かに民主主義の国ではこの様な法律が必要だなと思ったのだが、法案成立後は一般の国民の生活に相当な不自由が現れた。まず、子供の学級名簿などの住所、電話番号が記載された冊子が配布されなくなった。学校側に誰かに緊急で連絡を取りたいと言っても、学校は電話番号を教えてくれない。一例として、子供が遊んでいる時に友人に怪我をさせてしまったとして、その話を親が知っても(以前より、その子の家の電話番号を知っていない限り)その子の家に電話で謝罪することが出来ない。先生を介して伝言ゲームで謝罪するか、先生の方から相手の親御さんに「電話番号を伝えることの了承」を得てもらい、その結果としてやっと電話が出来るようになる。同様のことは、例えば知り合いが病院に入院し、その病院の部屋番号を受付で聞こうとしても、必ずしも教えてもらえるとは限らない。この様に、民主主義の中で個人の権利の尊重を重要視するあまり、そこら中にブレーキシステムが設定され、そのブレーキを順番に解除しまくらないと中々前に進めなくなるのである。しかし、これもある意味の民主主義のコストであり、民主主義を標榜する我々としては直接そのコストを払わなければならないのである。

であるならば、マイナンバー制の様な制度についても、不快や不自由さを感じるとしても、それは民主主義のコストとして捕えなければならないと啓蒙すべきなのかも知れない。そして、そこに問題があるのであれば、民主主義のコストを払わないという形で問題を回避するのではなく、国家が不当に個人の情報を管理できない様に別のアプローチでブレーキを設定すれば良いだけのことである。実際、クレジットカードの利用歴という極めて高度な個人情報を、クレジットカードの便利さを享受するためのコストとしてクレジットカード会社に支払う(情報を握られる)ことに躊躇する人はいない。人々は、メリットに対するコストを対価として払うことに対しては肝要だが、その払う相手が国家だと途端に不寛容になったりする。

以前、色々なブログをネットサーフィンしていた時、消費税導入に関連してマイナンバー制度を導入することに反対していた人がいて、その人の反対の理由は「現在の消費税のシステムでは、小規模事業者は納税の義務がなく、その結果として商品の価格に上乗せした消費税部分が収益となり、やっとお店の方がやりくりできている状況なのに、隅々まで経済活動がガラス張りになると、折角のお金を消費税として納税しなければならないからマイナンバー制度には反対」という様なことだった。この様な人はあくまでも特殊なのは理解するが、相手が国家だとコストなんて払わずに済ませてしまおうという気持ちになりがちである。そしてこの様な制度の導入に反対してきたような人々は、ほとんどの場合において高尚で論理的な理由があるのではなく、「好きか嫌いか」的な感性での反対が多い。万能な解決策がないなら、様々な制度を組み合わせて最適化を図れば良いのであって、短絡的な「コスト支払いの拒否」の議論は厳禁である。

上記の例はマイナンバー制を例に取った話であるが、同様の議論はその他にも成り立つ。あらためて民主主義のコストを見直し、我々は「そのコストは自らも払うものだ」という自覚も必要なのかも知れない。昨日のコメントを読んで、そんな風に感じた。

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