けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

手続き論的なフェアネスの重要性(南京大虐殺・慰安婦問題への対処の仕方)

2014-02-07 00:50:22 | 政治
昨日のブログでも触れた橋下大阪市長のツイッターの引用であるが、実は、非常に興味深く読ませて頂いた箇所がある。昨日の記述の視点では本質ではないので触れなかったが、今日はこちらの方にフォーカスしてみたい。

まず、2月4日のツイートの下記の部分を引用させていただく。

BLOGOS 2014年2月4日「そして都構想実現までいよいよ残りの階段は3段となった。 - 2014年2月4日のツイート」からの引用
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自分が正しいと思っている価値観でも、相手にとっては正しくないという事態がどんどん生じる。この価値観の実体論にこだわっているのが日本のメディア。自分の価値観が絶対的に正しいと信じ込んでいる。違う。どの価値観が正しいかは分からない。だから公正なプロセスでどれを採用するか決定しよう。
これが手続き・プロセス論。手続き・プロセス論では、価値観の対立議論はしない。どう物事を進めていくか。ここに焦点を当てる。その時の基準はフェアかアンフェアか。僕の慰安婦問題を巡る発言もそうだ。保守論客のように、日本の過去の行為を日本的な価値観で正当化しても世界には通用しない。
世界に主張していくにはフェアかアンフェか、ここに絞って主張すべき。慰安婦問題についての世界の対応は、完全にアンフェアだ。この主張をすると自己正当化していると誤解をされるが、これは日本人が手続き論を学んでいないから。アンフェアとは、実体を正当化しているわけではない。
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ちょっと分かり難い部分もあるが、私なりの解釈を加えてみる。以前の橋下市長の慰安婦発言の際には、(本人の意図に反して)慰安婦問題を現在の価値観で捉えるか当時の価値観で捉えるか、その辺の議論が話題になった。しかし、(中国、韓国のロビー活動などの影響で)アメリカをはじめとする各国の論調は、「今現在の価値観で非人道的と見なされる行為(慰安婦の存在)は、時代を遡って戦時中に当てはめても、『それは非人道的』と断定するのが妥当である」という価値観のもとにある。現在の価値観と過去の価値観が同一である保証などありえないから論理的には破綻している議論なのだが、いわば宗教の様にそれを「前提」とすることで合意している人達には何を言っても意味がない。キリスト教信者に、「キリストが復活した逸話などあり得るわけがないだろ」と言っても議論が成り立たないのに似ている。

つまり、異なる宗教の間でどちらの神を信じるかの議論をするのと同様で、価値観を基準に善か悪かを問うても狙ったゴールにたどり着ける可能性は低い。両者が何処かに合意できる着地点を見出すとすれば、それは手続き論的に相手が「フェア」と感じるところに論点をフォーカスする必要がある。仮に明らかに相手が「アンフェア」であっても、相手にその自覚がないところで議論を戦わせても労力ばかりかかって得るものは少ない。あくまでも、手続き論的に相手が「フェア」と感じる議論の仕方が重要なのである。

ではこの手続き論とは何を意味しているのか?

例えば、慰安婦問題について中国、韓国から責められまくったときに、それに反論しない日本は手続き論的に「中国、韓国の主張を認めた」ということになっている(少なくとも欧米諸国の人はそう感じている)。ましてや河野談話などは、手続き論的には「語るに落ちた」証拠の自白に近い。であれば、欧米諸国の人はこの既に手続き的に合意がなされた案件に対して、いきなり乱暴に「それは間違いだ!」と言っても「あなたはアンフェアだ!今までの手続きを無視するのは許せない!」と感じる。橋下市長の慰安婦発言が欧米メディアにすら受け入れられなかった背景にはその様なものがあるのかも知れない。

では、手続き論的に相手がフェアに感じる議論とは何であろうか?南京大虐殺と慰安婦問題を例に議論してみたい。

例えば、河村名古屋市長が以前、「所謂、南京大虐殺はなかったと思う」と発言して問題になった。多分、論理的には正しい発言なのだと思うが、これが欧米諸国から見たときの手続き論的には誤っていることになる。つまり、これまでに「歴史的事実」と確立しつつある「所謂、南京大虐殺」に対して、主観的に「誤っている」と主張するのであるから、それは「ホロコーストを否定するようなもの」とレッテルを貼られても反論は厳しい。もう少し言うならば、「南京大虐殺」というものを噛み砕いて考えた時に、「中国の主張する30万人もの虐殺」という「所謂、南京大虐殺」の他に「2千人ぐらいの虐殺(2千人は2千人でも、国際法的に兵士と見なされないゲリラなどを中心に2千人ぐらいが殺害された)」という解釈があり、我々はそれを「所謂、南京大虐殺」と「南京大虐殺」と区別するのであるが、欧米人にはその様な区別がない。既に出来上がってしまっている合意の中では、その合意の否定は「ホロコーストを否定する」という主張として受け取られてしまう。まずはこの様な合意があることの前提に立たなければならない。

となると、この合意を覆すにはどうすれば良いのか?それは彼らがフェアと感じる手続きを通して少しずつ変えるしかない。では、そのフェアと感じる手続きとは何か?それは単純で、「南京大虐殺」の存在を認めるのである。その上で、それだけ酷い南京大虐殺をより理解するために、様々な「南京大虐殺の不思議」という疑問を投げかけ、その謎を解くための証拠の積みあげを試みるのである。例えば、下記の資料では南京大虐殺がなかったという根拠として次のように書かれている。

Wedge Infinity 2013年12月27日「『靖国ではなく、南京に行くべき』中国が仕掛ける反日歴史工作『南京事件』を考える(前篇)
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1937年12月1日から38年10月24日まで、南京戦を含むこの約一年の間に、国民党中央宣伝部国際宣伝処(中華民国政府の対外宣伝機関)は、約300回もの記者会見を開いた。毎日のように会見があったことになるが、参加者は平均50名、うち外国人記者、外国駐在公館職員は平均35名であったという。ところが、この300回もの記者会見において、ただの一度も、「日本軍が南京で市民を虐殺した」とか「捕虜の不法殺害を行なった」との非難がされていない。
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間違ってはいけないのは、これは南京大虐殺がなかった証拠だと主張してはいけない。あくまでも「南京大虐殺」は間違いなくあったという立場を維持するのである。しかし、これは見るからに不自然である。「南京大虐殺」は間違いなくあったのだから、調べてみれば30万人もの虐殺に見合う非難声明などがあってしかるべきである。そして、その証拠があれば日本は否定したくても否定できなくなるのである。だから、この様な証拠を積極的に集めようとする行動は、彼らにとって手続き的にフェアなのである。フェアな行動を続ける限り、相手はその行動を否定したりはしない。そして、そこから出てきた証拠の解釈を、彼らも協力して行ってくれるのである。しかし、探せば探すほど謎は深まるばかりである。そしてある時、積み上げられた合意自体に何か問題があるかもしれないという立場に立つときが来るのである。この様な突破口は幾らでもあるはずである。この様なフェアな手続き論をもっと活用するのである。

ちなみに慰安婦問題も同様である。ご存知の通り「従軍慰安婦」と「慰安婦」は似て否なるものである。しかし、ここで「所謂、従軍慰安婦はなかった」と言っては、「従軍慰安婦」と「慰安婦」の区別のない人々にはホロコーストの否定と同罪となってしまうのである。下記の記事を読んでいただきたい。

産経新聞2014年2月2日「韓国展実施を後悔、仏主催者『すべて不満』

先日話題になったフランス・アングレーム国際漫画祭の後の顛末である。日本の展示が排除され、韓国の展示が許容されたことの是非はともかく、このフランス・アングレーム国際漫画祭のニコラ・フィネ実行委員は産経新聞の取材に対し、上述のフェアかアンフェアか、手続き的な瑕疵があるかないか、その様な点を重要視していることを示す発言を行っているのである。本当か嘘かは知らないが、ホロコーストの否定に繋がる手続き的な瑕疵がなければ、日本の展示も排除されずに済んだ可能性が高いということである。多分、今後も韓国はこの様な形で攻めてくるに違いない。その時、我々は価値観で戦うのではなく、手続き的な正当性、フェアであることを最重要視しなければならない。

最後に言っておくべきことは、これは答えではない。単なる突破口である。戦いはまだまだこれからである。橋下市長は慰安婦発言で大火傷をしたが、その失敗から学び、事の本質を見抜いているのではないかと感じた。

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