けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

ジャーナリズムが平和国家や民主主義実現の障壁になるという喜劇

2014-02-18 23:52:03 | 政治
今日はジャーナリズムが平和国家や民主主義実現の障壁になるという喜劇のようなコメントを書かせて頂く。最近の集団的自衛権や特定秘密保護法案に関する議論においては、活発な議論と国民的理解を深めるという点において、この様なジャーナリズムによる障壁が深刻であるというお話である。

さて、最初に少しばかり違う話題から入らせていただく。以前、竹中平蔵氏がBS朝日の激論クロスファイアに出演した際に、非常に的を得た発言をしていたのを思い出す。それは、岩盤規制の打破について問われた時のコメントで、「打ち破らなければならない分厚い岩盤の打破のための障壁の中にはジャーナリズムが含まれている」という発言があった。竹中氏曰く、岩盤規制を打ち破るためには、非常に丁寧な議論を積み重ねていく必要があるのだが、その丁寧な議論を妨げる大きな障壁のひとつがジャーナリズムであるとのことであった。この手の議論においてのジャーナリズムの関与の仕方は非常に守旧的で性質が悪いことが多い。何らかの大きな問題点、議論のテーマに対し、ことの本質の議論をしようとしても、枝葉末節の些細なことを過剰に大袈裟に取り上げて議論の論点を有耶無耶にしてしまい、その後はイメージ中心の世論誘導で肝心要の部分が置いてきぼりとなってしまう。つまり、多くの国民に議論の本質が何処にあるかを隠し、イメージ戦略で直感的かつ短絡的な善悪感覚を植え付け、半ば消耗戦の様な状況に持ち込んで議論が本丸に至らないようにしているというのである。何故、マスコミがその様に国民の利益に反する行動を取るのかは色々理由があるのだろうが、私の感覚では「議論を深掘りする能力の欠如」と「世論を背に受ける優越感への傾斜」であると思う。何かを論評しなければならない状況で、有益なことを発言するよりも自らの地位の保全を優先しているような感じである。ジャーナリズムの堕落と言っても良い。

竹中氏が最初にこの話題を引用した元ネタは、医薬品のネット販売に関する是非論において、「副作用のリスクがある医薬品を一部ネット販売禁止するのは分かるが、何故、医師の処方箋がある医薬品のネット販売が駄目なのか?」との田原総一郎氏の質問に答えたものである。まず、同席していたコメンテータがこの質問に「処方箋があれば副作用の心配はないので論理的にネット販売規制は矛盾しているが、その矛盾を突かれるのが嫌だから(処方薬の前段の)市販の医薬品レベルでのリスクを過剰に煽り立て、何となく危なそうという雰囲気をつくっている」と答えていた。つまり、市販薬の段階で、ネット販売のリスクにジャーナリズムが噛み付くことで、その先のより深い議論(医師による処方薬の扱い)が途中でストップしてしまう。これは、ジャーナリズムが障壁と化しているひとつの例であると紹介していた。

番組では同様の例として、2012年に改正された労働契約法に絡んだ「雇止め」問題についても指摘されていた。改正された労働契約法では、非正規雇用を5年以上継続する場合には、労働者側の希望に応じて無期限労働契約への転換(すなわち正社員化)すべきというルールが導入されている。しかしこのルールは非正規雇用者を救済するための役には立たず、逆に4年ないし4年半で「雇止め」に合う労働者が激増することになった。これは、性善説に立ってそのルールを見るならば明らかに正社員化を促す良いルールであるのだが、実際には性悪説に立った雇用主が圧倒的に多く、5年継続して非正規雇用の契約を継続すると正社員化しなければならないことから、雇用主側が5年を待つ前にクビを切る行為に出る事案が頻発したのである。性善説に立つ人と、性悪説に立つ人がいる場合、片側の側面での議論では不十分である。非正規雇用が生まれる最大の理由は、正規雇用に対する法的な縛りが強すぎる為、大企業においては景気・不景気や様々な生産体制への柔軟な対応を考えた時、どうしても正社員として雇用するリスクを背負えないと判断するからである。しかし、実際には中小企業など、あまり世間の冷たい目線を気にすることの無い企業においては、法的な縛りを無視して一方的な首切りをすることが多い。労働組合がそれなりに機能する大企業と異なり、首を切られた個人が会社と戦わなければならない中小企業では、費用が掛かる裁判もそう簡単には起こすことが出来ない。結局は泣き寝入りとなるケースが負い。首切りの理由は全く異なる事例だが、過去にも某出版社で実際には送っていない景品を「複数の読者に当たる」と誌上で偽っていたことを内部告発した社員が一方的に解雇された問題があった。しかし、この様な無謀な解雇が世の中で通用するとは思えないのだが、実際にはそれがまかり通ってしまうぐらいだから、企業の業績が不振という見方に寄っては正当な理由の中で不当解雇が起きたとしても、中々それを是正するのは難しい。であれば、この様な「不当解雇」をせめて「妥当な解雇」とするための金銭手当のルールを明確化することは、(それがベストないしはベターな解であるか否かは別として)真っ当に議論の遡上に上げることは有意義なはずである。しかし、マスコミはその一面だけに着目し、その背後にある問題を無視して「大企業の論理など許すまじ!」と一大キャンペーンを繰り広げる。もう少し多面的に物事を捉え、多くの国民に様々な選択肢の一長一短の詳細を説明すれば、国民的な議論に格上げすることが可能になるのだが、何故か議論が巻き起こる前にジャーナリズムが問題を矮小化して火消しに走る事態である。まさに、弱者の側に寄り添うポーズを示しながら、実際には多くの弱者が涙を呑んでいるのを黙殺する行為である。この様な議論の矮小化は、民主主義の本来のあるべき姿から逸脱しており、活発な議論を阻害する大きな障壁・岩盤のひとつとして捉えられるべきである。特定秘密保護法などもその良い例だろう。

ここで、最近のジャーナリストを称する彼らのターゲットは集団的自衛権の問題に移りつつある。多くのオピニオンリーダとも言われる著名人が集団的自衛権を否定的に捉えているが、それらの人々が口々に言うフレーズは、「集団的自衛権の容認とは、日本を『戦争が出来る国』にするための決断である」という言い回しである。多くの人は、「あなたは、これまでは日本は『戦争が出来ない国』ないしは『戦争をしない国』だったのが、『戦争を出来る国』ないしは『戦争をする国』に変えていくという決断を容認するのか?」という問いかけをされれば、何も考えない人であれば「『戦争をしない国』の方が良いに決まっている」と答えるのは当然の帰結である。しかし、これには「戦争が出来ない国=戦争をしない国」、「戦争を出来る国=戦争をする国」という前提条件が暗黙の中に隠されている。しかし、この前提条件は正しくない。例えば、東西冷戦の時代、(今もそうであるが)アメリカは確実に「戦争のできる国」であった。同様に、当時のソ連も「戦争の出来る国」であった。ここでその当時、仮にアメリカが「戦争の出来ない国」であったら何が起こったであろうか?ベトナム戦争が起きなかったことは理解できる。しかし、その見返りに、ソ連がアメリカに何らかの攻撃を仕掛け、第3次世界大戦が起きていたとしてもおかしくはない。1962年のキューバ危機の時には、一触即発で世界規模の核戦争が起きてもおかしくはなかった。しかし、その戦争が起きなかった理由は、アメリカもソ連も「戦争の出来る国」だったからである。アメリカに核ミサイルがなく、ソ連のみに核ミサイルがあったのなら、キューバ危機でソ連のフルシチョフはアメリカへの攻撃を躊躇わなかったはずである。相手が「戦争が出来る国」であることが、結果として抑止力として働いたのである。勿論、ベトナム戦争にしてもイラク戦争にしても、アメリカが戦争の出来る国であったが故に起きた戦争ではあるが、この事実は「『戦争が出来ない国』であれば戦争に巻き込まれない」という命題に対して何らアドバイスを与えるものではない。仮に「戦争が出来る国」であっても、自らの意志として「戦争をしない国」であり続けることは可能なのである。一方で、上述のキューバ危機の例を見れば、(近隣に戦争を起こすかもしれない国が存在する場合においては)戦争が出来ない国であれば戦争に巻き込まれるリスクが高まるのは事実である。だから、これらをどの様に思考的に整理するかが問われるのである。

一部のジャーナリストは、「日本が丸腰なのに、中国が攻めて来るはずがない」と言うかも知れないが、世界中でその様なことを言うのは日本人だけである。あまりに現実離れした非常識な発想である。だから、「あなたは、これまでは日本は『戦争が出来ない国』ないしは『戦争をしない国』だったのが、『戦争を出来る国』ないしは『戦争をする国』に変えていくという決断を容認するのか?」という問いかけをすること自体が、問題の所在を矮小化し、論点を有耶無耶にする悪意のある戦術だと言わざるを得ない。

勿論、言論の自由はあるのだから、今後もいつまでも「日米安保タダ乗り論」を謳歌し続けることが出来るかも知れないと言うのは勝手である。しかし、であればその「仮設」を検証する努力を合わせて求めればよい。アメリカの大統領や国防長官、国務長官をはじめとするアメリカ政府の重鎮が、「日本が尖閣を守る気持ちが全くなくても、アメリカが守ってやるから安心しなさい」と言ってくれるかどうかを確認すれば良い。「バカヤロー」と答えが返ってきたら、その様な仮説が成り立たないものとして議論を再構築すれば良い。それすらしないで空理空論をぼやきまくるジャーナリストは、やはり日本の安全保障の障壁と見て然るべきである。

繰り返すが、ここまでの私の主張は、「だから集団的自衛権を容認すべきだ!」という結論を訴えているものではない。あくまでも、論理的に丁寧な議論が出来る土俵を確立し、その上で真っ当な議論を国民に分かり易く戦わせることの重要性を訴えているに過ぎない。その様な正攻法を邪魔するジャーナリストがいるのであれば、その様な人は平和国家への道への障壁であると評価されるべきである。その様な人が多すぎるのが残念である。

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