けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

<前編>集団的自衛権の憲法解釈に関する現状を整理してみた

2014-02-28 23:59:45 | 政治
最近、集団的自衛権にまつわる憲法解釈の変更の議論が急速に高まっている。様々なテレビやラジオ、ネットの情報などを読み漁る中でポイントが明らかになったのでここでメモ代わりに整理しておこうと思う。

これまでも何度かブログにも書いてきたが、朝日新聞などの反政府よりのマスコミや野党の言い分は、安倍政権の主張とは真っ向から対立をしていて、殆ど人格攻撃に近いところまで手段を選ばず攻撃をしている。しかし、例えば東京新聞・中日新聞論説副主幹の長谷川幸洋氏なども明確に指摘している通り、事前のバイアスがそれほど強くないニュートラルな人の論説を見れば、殆どの論点で安倍政権側に軍配が下るようである。しかし一方で、法律の専門家の意見など(例えば2月25日の荻上チキSession22のポッドキャストなども参考にさせて頂いた)を聞くと安倍政権の行おうとしていることには反対の人が多い。この様に聞くと、「ではやはり安倍政権が間違っていて、野党や朝日新聞などの言い分が正しいのではないか?」と勘違いをする人がいそうであるが、それは全くの間違いである。一見矛盾しているようであるが、この辺の理解の仕方を私なりに整理してみたい。

まず、これらの議論をする上では論点を整理すべきである。その論点を大きく二つに分けるならば、

(1)安倍政権の集団的自衛権容認に向けた最近の動きは、手続き論的には正しいのか否か?
(2)最終的に安倍政権が集団的自衛権の容認を行った場合、その判断は正しいのか否か?

の2点になると思う。非常に乱暴な言い方をすれば、(1)は最近私が拘っている「手続き論」的な議論での正当性を議論し、(2)では「価値観」てきな議論での正当性を問うているに近い。この2点を個別に確認してみたい。

まず、(1)について議論する。最近話題になっている(1)に関する個別の噛み砕いた論点では、

a). 内閣法制局長官の答弁と内閣総理大臣の決断と、どちらが優先されるべきか?
b). 閣議決定を行ってから国会で審議するのは乱暴であり、閣議決定の前に国会の議論を戦わせるべきである

などがポイントになりそうだ。このa).に関しては、「内閣法制局は法の番人であり、内閣も内閣法制局の憲法解釈に従うべきだ」とか、「安倍総理が決断すれば、内閣法制局長官はそれに従うべきという考え方は横暴だ!」とか、「安倍総理は立憲主義を無視した暴君だ!」とかの声が聞かれた。しかし、この辺の事情に詳しいジャーナリスト及び法律の専門家などに感想を問えば、異口同音に口をそろえてマスコミや野党の言い分に分がないことを指摘する。前出の長谷川幸洋氏は下記の記事の中で、民主党の枝野幸男元官房長官のことを「官僚のポチ」とまで過激な言い方をして非難しているが、政治主導のあるべき姿としては安倍政権の判断は完璧に正しい。

Zakzak 2014年2月26日「憲法解釈をめぐり『官僚のポチ』と自ら白状した民主党の幹部

過去にも書いた通りであるが、立憲主義とは法の下にルールに従い政治的な行動を進めることであり、その法律の規定では内閣法制局は行政の一機関でしかなく、内閣の要請に応じて適切に助言を行うのがその仕事である。したがって、内閣法制局の行動の責任は内閣にあり、その内閣の長である内閣総理大臣が内閣法制局長官よりも上位の最高責任者であることは明確に規定されている。ここで、安倍総理も「内閣法制局長官に対して、有無を言わせずに自分の主張を受け入れてもらう」などとは一言も言っておらず、内閣法制局の適切な助言を受けて、粛々と法に則り進めていくと言っているに過ぎない。当然、内閣法制局長官が安倍総理の意に沿わないことを言っても問題はないし、ある切り口で憲法等の条文と新たな解釈が衝突していると助言を受けたら、衝突しない範囲での解釈の仕方の修正の助言を新たに受けることも可能である。安倍総理の発言をどんなにひっくり返しても、安倍総理がその様なことを発言したことはなく、「(勝手に)行間を補えば、こんな酷いことを言ったと受け取ることもできる」と言いまくっているに過ぎない。

次に、b).の国会の審議が先か閣議決定が先かの議論については、我々は何となく納得してしまいそうだが、話をよく聞けば真逆であることが分かる。この辺は、石破幹事長が昨日のTBSの「ひるおび」で解説していた。今日も安倍総理は国会で説明をしていたようだが、少し噛み砕くと閣議決定に拘る理由は、立憲主義・法治国家の宿命と理解できる。つまり、これまでの政府の憲法解釈は「集団的自衛権の行使は違憲」であったのだが、この方針を別の何かに変えようとしたとする。すると、この議論を国会で戦わせる際には総理にしても閣僚にしても、「現在の政府の公式見解」を発言することが求められる。閣僚は全て公人であるから、これらの人が国会で議論を戦わせる際には、個人的な私見で戦うことは許されない。勿論、答弁の中で「個人的な意見」をピンポイントで求められたときに、「個人の意見」であることを明示して答えるのは可能かも知れないが、長い長い国会論戦を全て私見で通すことなど許されない。であるから、何処かで現在の政府の公式見解が変わった瞬間が存在しないと、新たな見解に立って議論をすることが出来ない。閣議決定はそのためのツールであり、その閣議決定に明示的に記された内容が政府の公式見解となるから、発言の度にぶれないようにするためには、明文化された閣議決定は不可欠なのである。さらに言えば、民主党の岡田克也氏はあたかも「閣議決定がなされたら、法律が制定されたかと同じで、その後で国会で議論を戦わせても意味がない」かの様な発言をするが、これまた全くの誤解である。まず、閣議決定は法律の様な効力を全く持ち合わせていない。例えば、集団的自衛権を行使するためには、それに付随する自衛隊法などの改正が不可欠である。その自衛隊法の改正のためにはその法律の文案を作成しなければならないが、法律の文案と言うのは我々が思う程簡単ではなく、誰が見ても誤解の生じないような様々なルールに則って書き上げなければならないから、自衛隊の様々なノウハウや法律の深い知識を持ち合わせていないと、改正自衛隊法の適切な法案を書き上げることが出来ない。このため、中身が複雑な法律というのは殆ど例外がないと言っていいほど内閣がその法案を提出し、その法案を国会で審議するという手順を踏むのである。しかし、その法案の作成を行政側のスペシャリストである官僚が作成する際には、官僚が自分の好みで好き勝手なことを書くことは許されず、過去の法案やその解釈との整合性が求められるので、閣議決定をしないと文案の作成の指示すら法治国家では出来ないことになってしまう。だから、閣議決定が必要なのである。先程の「ひるおび」では、「であれば、議員立法で法律を国会に提出すればいいじゃないか!それなら、閣議決定前に議論できるだろう」と指摘した人がいるが、しかし、議員立法による法文は限りなく完成度が低いのが一般的で、バグだらけの法案になる可能性が高い。内閣法制局は、内閣が提出する法律の完成度の高さを担保するためのアドバイザ的な役割を負うが、この役割はあくまでも内閣提出の法案に対してだけであり、議員立法の法案を内閣法制局が手直しすることは、その役割的に矛盾するので不可能である。私の解釈で説明すれば、立法権を持つ国会が提出した議員立法を、行政権の一機関の内閣法制局が手直しをすることは、見方に寄っては立法権を犯す行為に繋がる。相当、筋悪の手続きといえる。したがって、この様に閣議決定を行う前に国会で議論を戦わせるためには、「当て馬的に適当な改正自衛隊法を作成し、それを議員立法して国会で論戦を戦わせ、その後に一旦その法案を取り下げながら、その議論の結果を受けて閣議決定の内容を考える・・・」という手順を踏まなければならない。しかし、そんな当て馬の法律案など不毛だから誰も作りたくなどない。少なくとも自民党は、その様な法案が無くても正しい議論は出来ると思っているので、その様な法案を議員立法するモチベーションはない。どうしてもというのであれば、民主党が議員立法をすれば良いのだが、そんな無駄な労力をかけてまで国会論戦を優先する人などいないだろう。つまり、「自分は汗をかきたくないが、あなたの方で圧倒的な汗をかいて、私を満足させておくれ」と高飛車に行っているようなものである。これは流石に筋が通らないだろう。ちなみに、閣議決定をしたら、その後の国会の論戦ではかなわないと諦めを決め込む態度は、政治家として宜しいのかという批判もあるだろう。国会での多数派を与党に握られていても、正面から国会で論戦を挑むのは野党としてお約束ではないのか?その覚悟すらないのは恥ずかしい限りである。

この様に、上述の手続き論である(1)に特化すれば、圧倒的に安倍政権側の正当性が際立ってくる。これは、多分、民主党の人達でも認めるところではないだろうか?

ただ、その様な無理筋のところで攻めまくる民主党や朝日新聞などの主張の根底にあるのは何かといえば、(2)の価値観での論争があるからである。先程の荻上チキSession22のポッドキャストに出演した元内閣法制局長官で弁護士の阪田雅裕氏や、首都大学東京准教授で、憲法学者の木村草太氏なども力説するのであるが、手続き的には正しくても、問題はその変更する憲法の解釈の内容が問題なのだと指摘している。以下は、これらの憲法を中心とする法律の専門家の意見を少し整理してみる。

まず、内閣法制局長官に関する彼らの評価はこうである。あくまでも内閣法制局は内閣の一機関でしかないから、彼らの仕事は政府に対して法律的なアドバイスをすることである。そのアドバイスの内容を今回の憲法解釈に焼き直すとすれば、最終的にその解釈が正しいか否かを判定する権限を持つのは最高裁判所であるから、「将来的に裁判になった時に、最高裁がどの様な判決を下すのかを精度良く予測し、そこで敗訴しないようなロジックに導くこと」が彼らの仕事なのである。問題はこの「最高裁がどの様な判決を下すのかを精度良く予測」する部分であり、そのための最高のスペシャリストの擁立が最高責任者の内閣総理大臣には求められることになる。例えば、将棋で勝負をしているなら、負けないためには羽生名人を雇ってアドバイザに付けるのが筋であろう。しかし、そこで「羽生名人のことは嫌いだから、友達の素人の棋士をアドバイザに付ける」と言い出したら「それは駄目でしょう!」ということになると指摘している。素人を投入すると、将来、何か裁判沙汰になった時に最高裁で敗訴する可能性が高まり、その時の国家賠償のことを考えるとリスクが高すぎるというのである。だから、憲法解釈を行うのであれば改憲するのが筋であり、それを憲法解釈で逃げようというのが姑息であると言っている。かなり真っ当な論理である。

しかし、私はこれを聞いて疑問に思ったのである。

まず、現実の世界では法律も時代の流れと共に解釈が変わり、あるタイミングで過去の判例を覆す最高裁判決が出たり、さらには違憲判決が出たりもする。例えば刑法における尊属殺人と法の下の平等の扱いは、「平等」に対する解釈が時代の流れの中で変わり、その時代の変化を1973年というタイミングで最高裁が追従し、違憲判決を下すに至った。言い換えれば最高裁が憲法における「平等」の解釈を1973年に変更したのである。これは、憲法の条文は何も変わっていないのに、時代の方で平等の意味の解釈が変わったのである。つまり、集団的自衛権の解釈にしても、未来永劫、解釈が変更しえないというのは正しくない。日本国憲法の前文には、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」と明記されているが、最近の中国の情勢は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」という前提と相いれない状況でもある。その様な時代の変化において、国民の生命と財産の危険を顧みずに現状維持を続けるのか、解釈の見直しをするのかは、非常に大きな政治判断と見ることもできる。そもそも、前出の憲法学者の方々の認識では、自衛隊が出来た当初の多くの憲法学者による憲法解釈では、個別的自衛権すら日本は憲法で認められていないという意見が主流派であったという。しかし、憲法9条2項の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」の条文と自衛隊の存在の整合性を問われる中で、個別的自衛権は国連憲章でも認められた基本的権利であり、同様に国連憲章で認められる集団的自衛権も権利は有するが、その行使は認められないという苦し紛れの解釈を行っていた。この個別的自衛権すら認められない状態から大きく解釈を変更する際のギャップは、今回の解釈変更のギャップとは比較にならない程の大きさだと思うから、今回の変更が駄目ならば遡って自衛隊も違憲だと主張するのが論理的だと思うのだが、現状に関してだけは論理を超越して肯定するというスタンスは理解できない。また、現在の内閣法制局長官の小松一郎氏を「アマチュア」だとこき下ろすのは、彼らの様なこの道のスペシャリストであれば分からなくもないが、しかし、であれば何故、陪審員制度が日本で導入されたのかを彼らに説明して欲しいと思う。つまり、法律の専門家たる職業裁判官の判断が徐々に国民の常識から乖離することを危惧し、国民目線で裁判を改革することが陪審員制度の目的なのだと思う。であれば、過去の自衛隊を合憲とする憲法解釈には目を瞑り、今回の集団的自衛権の解釈変更だけは許せないというのは如何にもバランスを欠く判断である。例えば、「10年の過渡期的猶予期間を与えるが、自衛隊の存在は違憲」という、如何にも尤もらしい判断があったとする。となると、我々国民には「現行憲法を維持して自衛隊を解散する」と、「憲法を改正して自衛隊を存続させる」という2者択一に迫られる。この場合、憲法が改正されるのは目に見えているだろう。一旦、日本語では理解できない無理筋の憲法解釈の合意が得られたら、論理的に破綻していてもそれを維持し続けなければならないというのはどうしても、常識的な一般国民としては理解できない。過去の判断との整合性を重視するのか、それとも時代に合わせるのか?法の安定性とその妥当性の衝突は、多分、法律の世界では常に付きまとう問題なのだと思う。その視点で考えた時、あまりにも凝り固まった頭での判断が、国民の生命と財産を保全するのに支障があるのであれば、その決断の責任の所在を明確にしたうえで、大きな政治決断をするのは苦渋の選択だが仕方がないと思われる。

以上が私の(2)に関する価値観での議論の結論である。ここ最近繰り返しているが、価値観の衝突は多分、皆が納得する答えに辿り着けることは期待できない。その意味で、民主主義は(1)の手続き論的な正当性が問われるのである。小松一郎内閣法制局長官の任命は、適正な手続きを通して行われたから、その意味では(2)に関する上述の「アマチュア」というご指摘も、所詮は価値観の衝突によるボヤキに過ぎない。実際に違憲判決が出たら問題だし、その様な可能性が本当に高いのであれば内閣法制局の官僚連中が本気でなだめに入るだろう。しかし、その様な声は現時点では聞こえていない。

この様に整理すると、明らかに野党や朝日新聞の主張は間違っているし、有効な議論を戦わせることを避けてゲリラ戦を行っているように見える。内閣法制局長官の答弁を国会で禁止していた当初の民主党政権の行動を振り返り、もう少し謙虚に、論点を整理して議論を行ってもらいたいものである。

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2 コメント

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良く読み込みされてますね (old)
2014-04-03 22:45:36
一つの事象を情報源を多様化されて検討されていることに感服しております。
若い方とお見受けしてますが、日本の将来も然程暗くなさそうです。
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残念ながら若くはないです (けろっぴぃ)
2014-04-03 23:55:03
コメントありがとうございます。残念ながら、中年のオヤジの技術者でした。戦時中、多くの人は戦争のことを「おかしい?」と思っても黙っていたと思います。今では、それがインターネットで簡単に意見できるようになりました。しかし、残念ながら理屈もへったくれもない好き嫌いのボヤキが多いと感じています。もう少し役に立ちそうな情報を(自分の考えを整理する意味も含めて)書いてみようとブログを始めました。ご参考になれば幸いです。
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