けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

憲法の解釈改憲にまつわる正論と次善手

2014-02-24 00:08:09 | 政治
今日は、昨日のブログで書いた「憲法の解釈改憲」について個人的な感想を書いてみたい。

本題に入る前に余談だが、昨日のブログでは「敵か味方か」を基準に議論を捻じ曲げるジャーナリズムのあり方について書かせて頂いた。相手を「敵」と見なすとその先の扱いには酷いものがある。最近の本田悦朗内閣官房参与に対しアメリカのウォール・ストリート・ジャーナル紙がインタビューした記事などもその類だろう。同紙によれば、「本田氏が経済政策『アベノミクス』の目的について『より強力な軍隊を持って中国に対峙(たいじ)できるようにするためだ』と述べた」と報じているが、この様な事を本当に発言したと信じる日本人は一体どれだけいるだろうか?私も彼の発言をテレビで見たことが何度かあるが、元々大蔵官僚で経済が専門の本田氏は、脱デフレが如何に大切かを熟知して、そのための経済政策のために奔走していたはずである。にも拘らず、余計な発言で日中関係がこれ以上緊迫すれば、デフレ脱却にどれだけマイナスなのかは容易に予想できるから、常識的にはウォール・ストリート・ジャーナル紙の記者にハメられた感が強い。同紙の2月19日の記事「ナショナリスト本田悦朗氏がアベノミクスで目指す目標」では、何処を読んでも経済政策に関する紹介がない。結構な分量の記事であるにもかかわらず、「【東京】本田悦朗氏。安倍晋三首相の経済再生計画で中心的な役割を担う顧問(内閣官房参与)だが・・・」と彼の役割を的確に紹介しているにも関わらず、その後の記事は靖国参拝や軍事増強、神風特攻隊の話など、全てが彼のナショナリストぶりの紹介に割いている。安倍総理が側近をこの様なナショナリストで固めていることをアピールしたいのだろう。だから、これらの人々は、「ハニートラップ」ならぬ「ジャーナリズム・トラップ」とでもいう様なトラップにかからない様に、過剰なまでに神経質な対応をすべきなのかも知れない。ちなみに余談ではあるが、私の元上司は企業の営業担当が一人で会社に訪ねてくるとき、その担当者が女性だということだけで私をその打ち合わせに同席させていたことがあった。その元上司は極めて潔癖な方だったので、女性がらみの問題など起こすような方ではなかったし、過去に何かの関連した経験があった訳でもないのだが、交通事故よりも確率が低そうなその様な事態にそこまでの防御線を張るというのは、本田氏の様な方にはひょっとしたら求められるのかも知れない。

さて、以下が本題である。集団的自衛権の行使に関する憲法解釈について、現在の多くの人の理解は、日本国憲法よりも上位の国連憲章では自衛権(個別的自衛権に加えて集団的自衛権も含む)が認められており、したがって日本国憲法が放棄する武力にはこれらの自衛権が含まれておらず、よって個別的自衛権に加えて集団的自衛権の保持も日本国憲法は認め得ていると理解されている。しかし、集団的自衛権は政治的・外交的なインパクトが大きくて、「権利は保持するが、行使自体は放棄する」こととしている。ここまでは既に長い間、朝日新聞なども含めて日本のジャーナリズムの世界では常識となっていて、少なくとも現在は日本共産党ですら自衛隊の存在を違憲などとは思っていない。

しかし、常識的に考えて、権利は保持するが行使はしないというのであれば個別的自衛権についても同様であって、国連憲章で権利を認めているからと言って日本国憲法で個別的自衛権を放棄することが認められない訳ではない。であれば、小学生レベルで理解可能な日本国憲法第9条の規定を素直に読み取り、「個別的自衛権も権利は保持するが、これを行使しないし、イザと言うときに行使するための準備として軍事力(自衛隊)も放棄する」と理解することは当然可能なはずである。それを「個別的自衛権は権利を保持すると共に行使を前提とした軍事力を保持するが、集団的自衛権に関しては特別な解釈として、権利を保持するが行使はしないとする」と理解するならば、その時点で「ちょっと待ってくれよ!」と言うべきであろう。つまり、「自衛隊を保有するなら憲法を改正すべき。憲法を改正しないならば、自衛隊も放棄すべし!」という立場を取るのが正論である。しかし、自衛隊と憲法9条を天秤にかけられると憲法9条の改正に世論が傾くのを恐れ、その妥協の産物として「自衛隊を認めるから、憲法第9条は変えない」という着地点を模索したのではないかと思う。それは当時の政権与党である自民党が言い出したことなのか、それ以外の勢力が言い出したことなのかは知らないが、ジャーナリズムがそれを良しとして、しかもその後の長きに亘り「当然、自衛隊は必要」というスタンスを貫いてきたのだから、ジャーナリズムがその玉虫色の決着の片棒を担いでいるのは事実である。それは、原理原則よりも、現実を直視し背に腹には変えられないものを妥協して許容するという考え方を選んできた訳である。その様な歴史の上に現在がある訳である。

集団的自衛権の問題は、今現在の政治・国際状況においては背に腹は代えられない逼迫した状況にある。中国などの周辺諸国が暴走したときの準備を整えることを、日本は長いことないがしろにしてきた。それが、今現在、夢物語ではなく現実味を帯びた状況になってきている。非常に短い期間でこれまでの不備を整えなければならない状況で、安倍政権は着実にその歩みを見せている訳であるが、その中にこの集団的自衛権の問題が含まれている。憲法解釈で集団的自衛権の行使を容認して良いのかという素朴な疑問に対しては、私も正論としてその疑問を認めたいところである。しかし、それは「だから今、集団的自衛権を憲法解釈で認めてはいけない」という結論には至らない。それよりも、寧ろ「集団的自衛権は権利として保持するが、その行使は放棄する」という解釈をした時点で、「本当にその様な解釈で、日本国憲法第9条を理解して良いのか?」と問い直すべきであったと思う。ないしは、最高裁判決で自衛隊を合憲と判断したときに、「自衛隊の存在が肯定されるのか否定されるのか、二者択一で国民投票を行い、憲法改正を行うべき」と国民に問い直すべきであったと思う。しかし、自衛隊の放棄を覚悟するだけの勇気がないから、敢えて玉虫色を好んだのだと思う。極めてズルい選択である。

その様なズルい戦略を選んだ人たちが、現在の国際情勢を無視して空理・空論を唱えるのは卑怯だと私は感じている。明らかに手続き的にはおかしな話で、多分、双方が誤った手続きを取ることに合意し、その誤った不安定平衡点の上に長く胡坐をかきすぎたのだと思う。であれば、今更になって正論に正面から向き合うのは既に非常に危険な状況となっている。だから現在の安倍政権は正論よりも手続き的な正当性に着目し、現在の法律に則り何が出来るかを考えた時、昨日のブログで説明した通り、内閣の一機関でしかない内閣法制局のこれまでの答弁に囚われることなく、所定の手続きを踏んで憲法解釈を改正するのは致し方がない所だろう。それが結果責任が問われる政治というものかも知れない。

今回のケースは決してベストな解ではないのは明らかである。正攻法で行けば、憲法改正というアプローチが正しい。しかし、ワーストな解を避け、少しでもベターな選択を試みるために時の内閣が法に許される行動を模索するのは肯定されて然るべきである。残念ではあるが、これが現実なのである。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます