






1個あたり結構でかいす。


切断も切開も自在にできるように









将棋でいったら、若き日の藤井名人


しかし、女性撞球プレーヤーの嚆矢



腕は超上級、ヴィジュアルも和風


彼女はバラブシュカを使っていた。
現在のジーン。



ビリヤードのよいところ。
それは、囲碁や将棋やオセロと
同じで、老若男女、歳も性別も
関係なくキュー一本で対等に
対戦できるところ。
ビリヤードはウルトラ平等で
あり、実力だけの勝負となる。
互いが精一杯持てる力を存分
に発揮して正々堂々と対戦する。
ビリヤードはとても公正な紳士
淑女のスポーツだ。
ビリヤードに体力は要らない。
ただただ技術と困難に打ち勝つ
精神力だけがプレーの中心で
あり、プレーの本体である。
ただ、テーブルの周囲を一周
すると、公式9フィート台では
一周9メートルになる。
歩く力は必要になる。
車いすでもプレーできるが、
周囲が広い場所に玉台が設置
されていないと車いすではプレー
できない。
それでも、対戦が可能であるなら
ば、ビリヤードはウルトラ公平、
超平等なスポーツだ。
他に例をみない。
技術が無ければ、相手が小学生
だろうとボコボコに負ける。
技術があれば、80歳の高齢だろう
と若者に勝てる。
対戦競技スポーツである以上、
勝ち負けは必ずあるが、試合後
は勝者も敗者も無い。
互いに互いの健闘と奮闘を称え
合う。
ビリヤードの一つの文化として、
対戦前に「よろしくお願いします」
と挨拶をし、試合後には「ありが
とうございました」と頭を下げる
礼の習慣がある。高校野球のように。
これは日本だけの礼儀かも知れない
が、欧米では対戦前に握手をし、
試合後にも握手をするのが慣例だ。
昔は町のビリヤードでは博打玉が
行なわれていた。どこでも。
賭け玉という。
勿論、賭博法違反であるが、それ
以前に、スポーツの競技を利用し
て博打を打つのはよろしくない。
せいぜい、勝ったらメシやジュース
をおごる、程度がいいだろう(これ
は法に抵触しない)。
賭け玉は、ビリヤードをやりたいの
か、ビリヤードを流用して金を巻き
上げたいのか、目的が不明になる。
麻雀で現金を賭けないでやる人は
見たことが無い。なんせ検察庁の
次期トップを約束されていた高官
でさえ賭け麻雀の賭博行為をして
いた程だ。
だが、ビリヤードの賭け玉は近年
大幅に減ってきているし、協会も
競技の健全さを追求しましょうと
呼びかけて来た。
現在、街中のビリヤード場で博打
が行なわれている事は殆ど見かけ
ない。
純粋にスポーツとして多くの人が
競技に親しんでいる。
少し前まで、プロや警察官の撞球
プレーヤーまで、台の上で賭け玉
をやっていた。裏で。
非常に宜しくない。
スポーツの競技を博打に利用する
事は、その競技そのものを侮辱して
いる事にもなる。
日本全国、賭け玉はやめましょう。
受付に「賭博禁止」と札が掲げら
れているのに、これは表向き。
この店エイムスで、米国史上稀有
な大博打の勝負が1961年に行なわ
れた、という設定の映画。
当時の金額で1万8,000ドル=約650
万円の大勝負だ。
1961年の大学新卒男子の初任給は
15,700円。2020年の新卒男女給与
は209,014円。
1961年の1万8,000ドル=約650万円
は現在金額では8,653万円ほど。
都内に一戸建てが現金で買える。
そういう勝負を撞球でやった、と
いう物語の設定だった。
だが、主人公エディ・フェルソンは
目覚める。
賭博の掛け金を取る事が目的ではなく、
金とは無縁のところで撞球の勝負が
したいのが自分の本音だし、それが
自殺した恋人サラの思いでもあった、
と。
この主人公の人としての大切な事の
覚醒が、25年後の続編の映画作品の
伏線になっている。
そして、何もかもをむしり取り、奪い、
人を踏みつける「残忍なローマ兵」
には自分はならないのだ、という自覚。
映画『ハスラー』(1961年)は歴史的
名作だ。



ブランクは1986年に入手。

デュポン社のホワイトデルリンは
重量配分調整してある。

物凄く切れる。



